私の読書日記  2012年8月

14.東京ヴィレッジ 明野照葉 光文社
 玩具のデザインをやりたくて玩具メーカーに入ったが総務に配属されている33歳の松倉明里が、リストラの噂が飛び交う中、7年越しの恋人との結婚をもくろみ果たせぬうちに青梅の実家に怪しげな夫婦が居着いていることを知って・・・というお話。都心から通勤圏とも言えるプチ田舎と都心、壮年・初老世代と中年にさしかかる世代の微妙な利害と思惑、親族間の対立と共感・縁をテーマに据え、親世代や田舎に対して嫌悪・反感を持ちながらも結局親世代に依存する今どきの若年・中年層のずるさ・したたかさを描いています。最初の方の明里の青梅に対するけなしぶりはかなりひどく、作者は東京都生まれということで東京都のどこかは知りませんけど、作者が青梅出身でなかったらちょっとこの言い様は許せないという気持ちになるくらい。この小説では、サブプライムローン問題に端を発した世界同時不況を「ずどん」、東日本大震災を「どかん」と呼んでいて、まぁ数回程度ここぞという時にいうのなら一応しゃれた言い回しと感じる余地もないではないのですが、終わりまでずっと数十回にわたり(数える気力が出ないので数えていません。体感では数十回ということです)「ずどん」「どかん」が繰り返されます。こういうの、私は読んでいてすごく気恥ずかしい。会社名も、FJ航空(親方日の丸からスタートした半官半民の航空会社、会社更生法申請)なんて書くのなら日本航空にすればいいものをと思うのをはじめ、なんかしらじらしい名前が続いています。そういうあたりの書き方から来る気恥ずかしさ・不愉快さの部分で読後感が悪くなっているというか、途中で何度か放り投げたくなる本でした。

13.ニッポンの書評 豊ア由美 光文社新書
 日本と海外(英米独仏)、新聞・雑誌・ブログでの書評の現状と著者の考えるあるべき書評をめぐって論じた本。著者は、安易な「ネタばらし」や書評に名を借りた評者の自慢・自己PRとともに、匿名ブログやAmazonのカスタマーレビューでの批判に対して批判しています。書評においても質が求められるのは当然で、プロが書く「商品」としての書評の質が低ければ批判されるべきでしょうし、その質故に淘汰されることは望ましいというべきでしょう。著者が対談の中でいっているように(194ページ)たくさん書いて削った、そういう努力が質を決めるということはその通りだと思います。私自身読書関係の記事ではそういう努力はしていませんが(逆に基本的に時間をかけないようにしています。こちらに時間をかけると本業等に響くからということと、続かないから)。しかし、ブログ等での安易な批判記事への著者の書きぶりには、私は違和感を持ちます。著者は、書評を(書評家の役割を)「これは素晴らしいと思える作品を一人でも多くの読者にわかりやすい言葉で紹介することです」(12ページ)と位置づけ、(ベストセラーについては批判的な書評を書くこともある、作家の機嫌をとるために書かれてはならない、とは書かれていますが)本を売ることの応援と位置づけています。本を売る側のグループに属する立場からはそれでいいのでしょうけど、読者には違うニーズがあるはずです。著者が、匿名ブログやカスタマーレビューで安易な批判をする人に対して「営業妨害」だとした上で「匿名で書評ブログを開設している方は、今後は愛情をもって紹介できる本のことだけをお書きになってはいかがでしょうか」(117ページ)としている点に、著者の立場の不公正さを感じてしまいます。中身がきちんと読めない人間は、批判はしてはいけない(営業妨害だ)が、無責任なよいしょ記事は書いてもよいというのは、著者が書評は読者のために書くべきだとしていることとどういう関係に立つのでしょうか。無責任な批判記事で本が売れなくなったら営業妨害だというのであれば、その反面無責任な提灯記事に騙されてつまらない本を買わされる読者が出ることも憂慮すべきではないでしょうか。ブログの記事を参考にする読者は、常に好意的な書評しか書かない出版ムラの人々の意見だけでは飽き足りないから、素人の読み込み不足で深さもないとしても(それはそれぞれのブログの記事から読者が判断することでしょう)率直な意見を求めてブログを探すのじゃないでしょうか。レストランを選ぶのに広告だけでは判断したくない人が「食べログ」を参照するように。「粗筋や登場人物の名前を平気で間違える」ということを著者は匿名ブログの劣悪さのトップにおいています(114ページ)。でも、人間、間違えることはごく普通のことで、特に自分の専門分野以外のことならそれを批判するのもどうかと思います。著者の紹介している自分で書いた書評でも「連合赤軍派」なる記載があります(176ページ)。「赤軍派」と「革命左派」が合体して「統一赤軍」「連合赤軍」となりましたが、「連合赤軍派」という呼称は正式にはもちろんメジャーなレベルでは聞きません。「ネタばらし」についても、著者自身が悩んでいるように、それぞれの記事を書くときに考えながら決断していくことにならざるを得ないと思います。著者の追求するより質の高い書評をめぐる議論、あるいはプロ同士の批判については興味深く読ませてもらいました。しかし、私自身は、著者のスタンスと異なり、読者のためという観点からは、匿名ブログ等の安易な批判であっても、それを求めるニーズはある(批判記事そのもののニーズがなくても、少なくともダメと思った本は批判するというスタンスの人によって書かれた記事のニーズは確実にある)と考えますので、今後もあまり時間をかけないで書く記事を続けていくことにします。
<注:本稿を含めて私が書いているものは、著者のいうところの「書評」ではなく本についての記事または感想文です>

12.マヤ文明 密林に栄えた石器文化 青山和夫 岩波新書 
 マヤ文明についての解説書。四半世紀にわたりマヤの遺跡発掘と出土した石器の研究に取り組み、最初の発掘地のホンジュラスで妻も娶った著者が、「謎と神秘の文明」扱いされているマヤ文明の誤解を解き実像を知らせたいと考えて書いた本だそうです。マヤ文明が暦や天文学、宗教活動に没頭していた神秘的な人々というイメージで語られたのは、20世紀半ばまで欧米のマヤ学者が暦、天文学、宗教活動に関する部分しかマヤ文字を解読できなかったためで、その後のマヤ文字の解読の画期的な進歩によって碑文には他の文明同様王朝史などが詳細に書かれていることが明らかになっている(42ページ)、マヤ文字は1文字で1つの単語を表す表語文字や1文字で1音節を示す音節文字が併用され部首に相当する要素の組み合わせがある点で日本語の漢字仮名交じり文と似ている(39〜40ページ)という話は、興味深く思えました。また著者の専門領域の石器の分析から、マヤ文明では統一王朝は成立しなかったが黒曜石製石器の交易範囲から都市国家を超えた広域支配があったと見られること(74〜79ページ)、石碑の彫刻や装身具等の美術品の製造は専ら支配層の書記が行っていたと見られること(172〜184ページ)などを論ずる部分は、なるほどと思います。内容的には、マヤ文明がインドより先に0を使用していた(22〜23ページ)、多数の循環暦が用いられており(循環暦だから2012年に世界が滅亡すると予言していたなどということは嘘)天文学的な数字を計算していた(33〜39ページ)など興味深い話が多いのですが、例えば最初の方で私が強い関心を持った「実際にはそれほど行われなかった『生け贄』が過度に強調されている」(14ページ)について、実際には生け贄はどれくらい行われていたのかとか「それ程行われていない」という根拠は何なのかというところがその後も書かれていないなど、やや食い足りないところもあります。他方、火山の噴火で短期間に廃棄されて当時の生活の様子を残しているホヤ・デ・セレン遺跡から農村での庶民の生活を説明する部分や、戦争で滅ぼされて短時間で放棄されたと見られるアグアテカ遺跡から王宮の生活を説明する部分など、画期的なことが書いてあるのだろうと思うのですが、それが発見される前はどう考えられていたかとかわからないのでどれくらい画期的なのか判断ができませんでした。そういうところとかもう少し書き込んでくれたらもっとよかったと思うのですが。

11.完盗オンサイト 玖村まゆみ 講談社
 アメリカで人気のプロクライマー伊藤葉月とチームを組んでクライミングに没頭していたが葉月に振られたことから失意の帰国をしてホームレス同様の生活を送っていた21歳の天才クライマー水沢浹(とおる)が、倒れたところを救ってくれた寺の住職を手伝ううちに住職が預かっている引っ込み思案で言葉が出ない少年斑鳩(いかる)と心を通じるようになり、巨大企業の会長から依頼されて皇居から徳川家光が愛した盆栽「三代将軍」を盗み出そうとするという小説。プロローグで皇居からの盆栽盗取を予告してからその場面まで約260ページ。プロローグで午前零時五分と打っておきながら、本文でその時刻を入れないというのも、なんだかなぁという気がしますし、ヤマ場に至るまでの長さと、そのヤマ場の描写がバランスが悪いのと、ラストに至る過程で当日の斑鳩の扱いや國生の出方・報奨金の不自然さというか浮いた感じが少し読後感を損ねているように思えます。布石関係では、瀬尾関係のエピソードが、小出に依頼した前2回の調査は放置されたままですし、両親との関係や愛子との関係もきちんと整理されていない感じがします。新人の江戸川乱歩賞受賞のデビュー作ですので、細かいことにこだわらず、続編を期待したいところです。40代後半の遅咲きですが、法律事務所勤務というのも親近感を感じますし。

10.ヤバい経済学 [増補改訂版] スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー 東洋経済新報社
 その結果が教師や学校の責任につながる一斉テストでの教師の不正や相撲の八百長、手数料の構造と不動産屋の売却のための努力の程度、出会い系サイトの掲載情報とレスポンス(メール)に見る人々の差別意識の本音と建て前、薬物の売人の収入のピラミッド構造(大半の底辺層のごくわずかな収入と殺害リスク、一握りのトップの高収入とそこに向けたアメリカンドリーム)、1990年代アメリカでの犯罪の劇的な減少の理由等について経済学の観点から解説した本。2006年に出た初版に出版後の指摘に答えた修正と著者のコラム・ブログの掲載を加えたもの。基本的に、著者が好奇心を持った日常的な問題について書いているということですが、私には前半4章が興味深く、特に1990年代アメリカの犯罪減少の原因が、一時賞賛されたジュリアーニ市長の割れ窓理論や厳しい取締・重罰化ではなく、1972年に出された連邦最高裁のローvsウェイド事件判決による中絶自由化の影響で貧しいティーンエイジャーの望まれない妊娠による胎児の多くが中絶されて生まれてきていれば犯罪者予備軍となった可能性の高い子どもたちが生まれてこなかったことにあるとしていることがとりわけ興味深く読めました。この点については、犯罪が減った年齢層や最高裁判決以前に中絶が自由化されていた州ではその年数だけ早く犯罪の減少が始まっていること(ニューヨークではジュリアーニが市長になるより前から犯罪減少が始まっている)など、検証も書かれていて(著者にとっても最も話題を呼び批判も受けたのがこの章だったこともあり)なるほどと思いました。第5章、第6章の子どもの名前の話は、アメリカ社会というか英語というかその感覚がわからないので読んでも今ひとつピンと来ないものが残り、日本の読者には眠いかも。前振りで説明されている、保育所のお迎えの遅刻を減らすための罰金の話も、著者は経済学一般のというか著者が重視するインセンティブの説明として書いているのですが、なかなか興味深い。月謝380ドルの保育所で試験的に10分以上の遅刻1回について3ドルの罰金を科すことにしたらお迎えの遅刻はどうなったか。すぐに倍以上に増えたという。月謝380ドルに対して毎日遅刻しても60ドルの罰金は苦にならず、それならベビーシッター料より安い。それで親の罪の意識が3ドルに置き換えられ、しかも罰金が3ドルということは遅刻はたいしたことじゃないというシグナルになって、罪の意識がなくなったため、試験運用が終わって罰金を廃止してもやはり遅刻は減らなかったとか。では罰金が100ドルならどうなるか。遅刻はなくなるだろうが、親からはひどい恨みを買うだろう。それで保育所は経営を続けられるかという問題になり、インセンティブはバランスが必要と結ばれています(19〜24ページ)。理論は成り立つけど、実践は難しいよってことですね。相撲の八百長の話では、訳者あとがきがふるっています。「ここで相撲の話であるが、安全なアメリカにいるレヴィットはともかく、訳者は関連する件で2人も死者が出た(かもしれない)国にいる。あんまりツっこむと命が危ないので本人に語ってもらうことにする。」(391ページ)。刑事事件がらみで八百長の動かぬ証拠となるメールの残された携帯が押収されるまで八百長を否定し続けた相撲協会とそれを鵜呑みにして名誉毀損裁判で相撲協会を勝たせ続けてきた裁判所のある国ではこれが正しい言い方だったかもしれません。悲しいですが。内容はとてもおもしろいし、目からウロコの指摘も多いですが、専門書としてみたときには、論証となるデータや統計についての説明が少なく、大丈夫かなと思う部分も少なからずあり、そこが弱点かなと思います。

09.ハードラック 薬丸岳 徳間書店
 派遣切りで職場と寮から追い出されてネットカフェ難民となった上、類似の境遇という者を信じて話に乗ったためになけなしの貯金を騙し取られてその日の生活費もなくなり、闇サイトの求人にアクセスし、違法な仕事に手を染めた相沢仁が、一発逆転を狙って闇サイトに求人記事を書き込んで人を集め、結局は軽井沢の別荘地に住む裕福な老夫婦を襲う計画を立てたところ、途中で相沢は殴られて気絶し、気がつくと老夫婦は殺されて別荘は放火され、ナイフには相沢の指紋があり、相沢の手元には血に汚れた札束が残されていた。相沢は指名手配を受けて逃走しながら真犯人を捜すが・・・というミステリー。ミステリーとしては、布石は十分に回収され(気になるとしたら、神楽坂駅で舞はボストンバッグをどうしたのかとか、真犯人は声をどうごまかしていたのかとかくらいかな)、いい線かと思います。さすがに終わりの方に行けば真犯人は読めますから、明かされてビックリというわけには行きませんが。派遣切りや日雇い派遣をめぐる搾取構造、振り込め詐欺やその被害者を何重にも毟ろうとする連中によって生活苦や不幸のどん底に落とされた人々の境遇が、バックボーンとして示されています。そういう中で、自分は気をつけているつもりでも何度も裏切られていく主人公と、冷徹ではあるもののそこに至る過程には同情するしかない真犯人という設定が、ほろ苦さを残す、いろいろと考えさせられる作品です。

08.コーヒーもう一杯 平安寿子 新潮社
 内装デザイン会社勤務の32歳山守未紀が、非現実的でわがままな出店希望者の客と大げんかして啖呵を切ったのを機に会社を辞めてカフェを経営することになり、悪戦苦闘する様子を描いた小説。給与所得者と違い収入の保証もなく売り物と売り方を考え経費を捻出し労働時間の制限もなく切りがない労働に追い込まれ、それでも客が来なけりゃ売上げもなく赤字という自営業者の悲哀が、わかりやすく描かれています。自営業者の身としては、ある面わかるわかるというか、客にもこういうところわかって欲しいなぁとか思ったり、身につまされたり、複雑な思い。後半での、同業者の嫉妬・やっかみ、失敗願望というあたりも、悲しくなるけど、そうだよなぁと思ってしまいます。他方で、経済的にも労働時間的にも割に合わなくても、自営業のやりがいということも描かれていて、救われる感じがします。もっとも、そういう懲りない起業願望を食い物にして生きている業者もいるわけで、ご用心というところですが。

07.花嫁 青山七恵 幻冬舎
 成功した和菓子屋の職人の父と美人の母、将来家業を継ぐことを見込んで菓子メーカーに勤める兄と今も兄のベッドに潜り込むブラザーコンプレックスの大学生の妹の4人家族が、兄が婚約者を連れてきたことを契機に不協和音を生じていく様子を描いた小説。妹、兄、父、母それぞれの視点から語られる4章立てで、仲のよい家族像が次第にほころびていきます。それぞれの語り手にあわせて文体というか文章の重みが変えられていて、最初の妹のところでは、軽すぎるというか甘えた文体に閉口しましたが、読み進むにつれて、あぁ語り手に合わせてると納得でき、後半ではむしろ巧みに感じられます。父親の語りの3章目など、中年男の純愛とそれ以外も含めた切ない心情に頷かされます。まだ20代の作者がこういう機微を書き込めるのだなとしみじみしてしまいました。母の姿には、たぶん評価が分かれるのだと思います。男と女でか、個人的経験でかはわかりませんが。3章から4章へと読み進める中で、これはないでしょ、あんた何様?と、私は思ってしまいます。4章でというよりも3章の途中で先が読めてしまって、そう思いました。それでも20年も耐えれば立派、という評価もあるかもしれません。そこは、むしろ醒めた心でこそ仲良しを演じる意思があれば淡々と演じ続けられるのかも、とも思いますが。

06.番犬は庭を守る 岩井俊二 幻冬舎
 原子力発電所や廃棄物処分場が次々と事故を起こして汚染され、男性の生殖能力が落ちて受精できるレベルの精子を持つ男は種馬として精子バンクに登録されて財をなし、多くの夫婦は超少子化社会での給付金目当てに精子バンクから精子を買って人工授精に励み、クローン豚による臓器移植で汚染レベルを下げて生きながらえるという、貧富の差が拡大した「ナパジ」国での庶民層の生き様を描いた小説。たぶん反原発の作品なんでしょうけど、暗くていじましくて展望がない。読んでいて前向きになれなくて、ただ疲れて滅入ってしまう。まぁどんなに絶望的な社会でも人は何とかしたたかに生き続けるって、そっちの方のメッセージでしょうかね。地名はほとんどがローマ字記載して逆さに読むと原子力施設の所在地になっています。必ずしもきれいにそうなっていなかったりしますが。例えば前半の重要な地点アルミアコット:arumiakot。最初は「都会村」という概念かと思いましたが、これは東海村ですね。もちろん、ナパジ:napajも、というか冒頭で語られる捕鯨文化の国「ナパジ」で意図は見えてしまいます。しゃれのつもりなのか、念のための逃げなのかわかりませんが、主張として書くならはっきり実地名で書けばいいのにと思います。

05.週末は家族 桂望実 朝日新聞出版
 児童養護施設に入所する10歳の少女を週末里親制度でときどき週末だけ連れ出して子役に使う友達夫婦が親子の型にはまらないままになじんでいく姿を描いた小説。容姿が完璧で悪女でありながら純情な女を求め恋が成就することがないと判断した41歳になってもシェークスピアに心酔しシェークスピア劇を書き続ける劇団主宰者大輔と、大学時代からの友人で恋愛感情も性的欲求もない無性愛者の瑞穂が、世間の圧力を避けて夫と妻という役を手に入れるための打算による結婚をし、そこに母親に捨てられ施設で孤立しながらも強く生き抜き母親とは暮らしたくない妙に大人びた10歳の少女ひなたが加わるという設定で、年相応に結婚し子どもを持てとか子どもは親と一緒に暮らすのが一番という世間の圧力を「思い込み」と蹴飛ばしています。その上で、夫婦・親子という枠組みにはまらなくても、親しくはなれる、チームでいいじゃないかと問題提起しています。3人の交互の語りで、それぞれの主観と外からの見え方のズレを見せ、特にひなたの語りでは突き放した醒めた観察を示しながら、次第に交じり和んでいく微妙な変化が「成長」というかはさておき微笑ましい。子どもだ、大人だあるいは親だ、妻だ、夫だということにこだわらず、その役割を少し外して眺めたりつきあったりするのもいいかもって、感じさせてくれます。

04.しあわせだったころしたように 佐々木中 河出書房新社
 末期癌で死んだ作家で映画監督で女優だった姉の遺品の大量のノートを姪から渡された語り手の男が、ノートを読みつつ姉や母、姉の友人を回想するという仕立ての小説。ストーリーの展開はあまりなく、内にこもり回想にこもっていく中で心象風景を拡げていく、そういう作品です。しゃれたというよりは気取ったかなり癖の強い文体で、好みが分かれるところだと思います。最初は、かなり読みにくく投げ出したくなりますが、読み進むうちに慣れるというか癖になるような文体です。修飾節を読点でつなげつなげてどこに主語があるのかさらには単語の切れめがどこなのかさえ流し読んでいてはわからない長い文が少なくなく、と思うとその次の文は単語1つだったり、自由闊達というべきか、場当たり的というべきか、不思議な文章です。初見で朗読しろといわれてよどみなく読める人がいたらビックリという感じ。小説家の姉のノートの文体が比較的素直なのに、薬屋のおじさんである語り手の語る地の文が衒学的な小難しさに満ちているというのも、倒錯的というか、このおっさん何?って感じてしまいます。語り手のプロフィールとして記憶を喪失して2年間千葉で知らない女と暮らしていて、姉が迎えに来たというエピソードは、結局何の意味があったのだろうと思います。そういうことも含め、ストーリーよりも文体と心象風景の広がりを味わい、またそれが気に入るかどうかにかかっている作品かなと、私には思えます。

03.勾留百二十日 特捜部長はなぜ逮捕されたか 大坪弘道 文藝春秋
 郵便不正事件でのフロッピーディスク改ざん事件で前田検事の改ざんを知りながらもみ消しを図ったとして犯人隠避罪で起訴された(本書発売後2012年3月30日大阪地裁で執行猶予付き有罪判決、控訴中)元大阪地検特捜部長の手記。日記形式で拘留中のできごとと心境を語りながら過去を振り返る形式なので、事件についての主張として整理されていないきらいがあります。また、同じことの繰り返しが多い感じがします。むしろ検事として取調をし逮捕勾留する側だった人物が勾留されてどう感じたかの方が読み応えがありました。逮捕の翌日、勾留質問のために裁判所の仮監で待っている間に「次第に精神の安定が崩れはじめ、いてもたってもいられないような動揺に襲われた。この空間で息をしているのさえ息苦しくなり、やむをえず看守を呼んで『お願いですからこの房から一度外に出してもらえませんか?』と懇請したが、にべもなく却下された」(12〜13ページ)、その夜「今日のあの独房での気が狂いそうな拘禁の後遺症が私の心を弱くしてしまい、このような拘束生活に自分は長く耐えられそうにない。事実を曲げてでもこの事件に決着をつけたいと最高検と正面から戦ったことを悔いた。このままではとうていこの拘禁生活に私の精神がもたないであろう、否認を続けたままでは保釈も許されずこれから続く長期間の勾留に耐えられないだろうと、大きな不安が重く私の心を支配していた。最高検に屈し全てを失ってもここから一日も早く出て、妻と二人でどこかの地でささやかでよいから静かな生活を送りたいと切実に願った。」(15ページ)という。自白が何を意味するか知り尽くしている検察官が、長期間の連日連夜の取調の後、ではなく、逮捕の翌日にはもう虚偽自白をしてでも早く釈放されたいと思うようになったというのです。身柄拘束の効果はそれほどまでに大きく、ほぼ無条件に20日以上の身柄拘束ができる上に否認すれば起訴後も保釈が認められずにより長期間の身柄拘束が可能な人質司法(著者自身、「これは検察官の大きな武器である」と述べています:282ページ)とも呼ばれる日本の制度が被疑者を虚偽自白に追い込む強大な力を有していることがよくわかります。この元特捜部長がここまでの心理的なダメージを受けたように、特にホワイトカラーはひとたまりもないと思えます。また、取調中に検察官が長時間中座しただけで、同時に取調を受けている者が自分に責任転嫁するような供述をしているのではないかという不安に襲われる様子が語られ「私は取調べられる側に立ってよくわかったが、どんなに信頼しあっている関係にあっても捜査機関から同時に取調を受けると、これほどまでに深い疑心暗鬼の念が生じてしまうのである」(31ページ)とされています。まさしく「ゲームの理論」でよく例に挙げられ、捜査機関が常套手段とする手法の狡猾さと効果の大きさを示しています。そして、日本の検察官が公にはいつも言いたがる取調を通じて被疑者と心を通じ理解し合うというきれいごとについて、「私は幾多の被疑者を取調べたが、たとえその追及は厳しくとも常に相手に対するいたわり、思いやり、同情の気持ちは忘れなかった。それ故に多くの被疑者が胸襟を開き、罪を認める供述をなしたと思っていた。私は自分の前で自供した彼ら被疑者は私に共感をもつことはあっても怨みなどもつ筈がない、私はそれ程公正で温かな調べをしていると自負していたが、それは全くの自己過信・驕りに過ぎないことを知った。」(182ページ)とし、自分が取調を受けると「たとえそれが善意によるものであっても、取り調べる側と取り調べられる側にはおよそ埋めがたい深い溝が横たわっていた」(104ページ)と実感しています。保釈請求を却下した決定に対して、共犯者への働きかけによる罪証隠滅の恐れについて、身柄拘束されている共犯者にどういう方法をもって働きかけられるというのか、外で出会えたとしてもどういう手段で供述変更を働きかけるというのか、それが可能であっても相手がそれに応じることなど現実にあり得るのか、常識で考えれば容易に判断できることだと批判しています(205ページ)。常々自分が弁護側の保釈請求に対してその理屈で反対してきた検察官が、立場が変われば弁護側の主張こそ常識だと思い至ることはとても興味深いところです。検察官でいるうちに思い当たって欲しかったと思いますが。このように、検察官、それも元特捜部長ですら、逮捕されればすぐにでも虚偽自白に追い込まれかねない心境になる日本の人質司法の制度と検察権力が被疑者被告人に与えている不安・疑心暗鬼・恐怖がよく描かれているという点で、大変興味深い本です。しかし、他方において、自分が検察官として行った取調、逮捕勾留の被疑者被告人にとっての意味を思い知ったはずの(少なくともこの本で何度もそう書いている)著者が、村木氏の起訴については自分が戦いに負けたというだけで誤りとは認めず(198〜203ページ)、第5章では過去の検察官としての手柄話をあっけらかんと書き連ねているのを見ると、本当に反省したとは感じられません。その点が、この本の汚点であり中途半端なところだと思います。

02.ダイイング・アイ 東野圭吾 光文社文庫
 自転車で帰宅途中に後ろから来た車にはねられ、慌てて急ハンドルを切った対向車両に押しつぶされて死んだ女性の死ぬ間際の怨念の視線が関係者のその後の人生を狂わせていくというミステリー小説。はねた車の運転者として執行猶予判決を受けたバーテン雨村慎介が、被害者の夫に襲われて頭部を負傷して事故についての記憶を失うという設定で、事故についての記憶を取り戻そうとあがく慎介の視線からストーリーを展開させています。布石は無事に回収され、どんでん返しもありますが、被害者の思いというか、被害者の意思がその後の関係者の動きに反映されているということだとすると、被害者の夫と瑠璃子、瑠璃子と慎介の関係をめぐる瑠璃子の動きには違和感が残ります。夫を慰める気持ちと加害者の破滅を求める気持ちと考えれば一応説明はつきますが、それでも私には今ひとつ・・・

01.ルポ賃金差別 竹信三恵子 ちくま新書
 女性、非正社員(パート、派遣労働者)、さらには「成果主義」の名の下での正社員間の賃金差別と、それを容認する日本の制度、裁判、労働者と経営者の意識などについて解説し再考を求める本。女性について長らく「家計補助的労働」として現実にはシングルマザー等の一家の支柱の女性に対しても低賃金に抑え込んできたことが、その後雇用機会均等法施行後もコース別採用等の採用段階での違いを設ければ男女差別ではないとして賃金差別を容認し、業務の内容や責任が違うなどとして実態は正社員と同じ業務を行っていてもパートタイマーや「契約社員」に対して賃金差別を容認し、派遣労働者に対する賃金差別を容認し、さらには正社員に対しても同じ労働をパートや派遣はもっと低賃金で行っているとして賃金切り下げや労働強化に用いられたり、「成果主義」の名の下に実際には上司の好みや気分で査定がなされて無限の忠誠が求められ、また賃金差別の容認に至っていることが論じられています。賃金決定で経営者の自由を縛るしくみが少なく、企業横断的な労働組合もほとんどなく転職市場も広くはなく失業した際の生活の保障も貧弱で労働者側の交渉力が極めて弱い日本では、経営者側のやり放題がほぼ放任されています。役所の入札制度のために、低額の入札とそれを理由にした極端な低賃金が横行しているという批判に答えて、野田市や新宿区などで、業務に従事する労働者の賃金が一定額以上であることを入札の条件とする公契約条例が定められるようになっているそうです(193ページ)。役所自身がワーキングプアを積極的に生み出さないようにという試みで、それ自体は評価できますが、職員の非正規化・有限短期雇用自体の問題や、大半の役所がそういう意識もなく官製ワーキングプアを生み出していることを考えると暗い気持ちの方が先立ちます。この本では、同一価値労働・同一賃金に向けて、異なる業務内容の比較を可能にするための知識・技能、負担、責任、環境の4要素に基づく「職務評価」を1つの解決策として提唱しているように見えます(194〜209ページ)。それが定着すると解決の方向が見えるのかもしれませんが、これを読んでいても異なる業務をきちんと説得力を持って比較できるのか、今ひとつしっくりとこない感じが残ります(成果主義で横行している上司の気分よりずっといいでしょうけど)。そのあたりの納得感が、より下の者がいることへの差別的な安心感を超えられるかに、先に進む原動力が出てくるかがかかっているのでしょうね。問題の認識と問題提起としては、読んでおきたい本だと思いました。

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