私の読書日記  2013年5月

31.たったひとり 乾ルカ 文藝春秋
 27年前に土砂崩れで1人が生き埋めになりそのまま廃墟となっているラブホ「ホテル・シャトーブランシェ」を訪れた大学の廃墟探索サークルの男女5人が、27年前の土砂崩れ直前にタイム・スリップし、しかも土砂崩れに遭う度に前回の2分後に戻るというタイム・ループに巻き込まれたという設定のファンタジー・ミステリー小説。
 サークルのリーダー葦原隆介が、27年前の事件と同じ状況で土砂崩れを迎えないとタイム・ループから抜け出せないのではないかと言い出し、正解に至るまで順番に1人がホテル内に残ることになり、5人が1人ずつ残って土砂崩れを待つというスタイルで順次各人の過去を振り返り、試行錯誤し、死の恐怖を前にして焦る様子を描いていきます。前半で在学中に司法試験予備試験に合格し本試験の合格も予想されている法学部の天才的な学生真野坂譲が思い切り鼻持ちならない奴でしかも卑怯者に描かれているのを見て、やっぱり秀才で弁護士って嫌われ役だよねと思いましたし、恵まれない2人の純愛ストーリーに収斂していくと思われました。しかし、読み終わると、真野坂がいやな奴であることは最後まで貫かれますが、結局は作者は全員が嫌いというか、どこに向けてもそうは問屋が卸さない救われないストーリーを紡いでいることがわかります。そういうひねくれた展開を、なかなかやるなと思えるか、読後感が悪いと見るか、好みが分かれそうです。

30.あと少し、もう少し 瀬尾まいこ 新潮社
 山間部の中学で駅伝のメンバーも足りない陸上部員たちが、ベテランのコーチを異動で失って陸上のことを何も知らない新しい顧問の下で、授業に出ずにテニスコート脇で昼寝している落ちこぼれや孤高を保つ吹奏楽部員、バスケットボール部員らを説得してメンバーを集めて、駅伝のブロック大会を戦う姿を描いた小説。
 大会で1区から6区を担当する6人それぞれの立場からの小学生時代から中学に入るまでと陸上とのつきあい、思い、そして大会に至るまでの過ごし方や練習風景、本番の様子を書くという構成になっています。それぞれの登場人物の周りから見た様子と本人の思いのズレ、鬱屈した思いと陸上を通じての爽快感・吹っ切った感へのつながりが読みどころと思います。田舎町の、県大会の予選と位置づけられるブロック大会で、メンバー集めから苦労する当たりの、スポーツエリートではないクラスの設定をして、ふつうの中学生っぽい悩みや鬱屈感を描くのが、読者の共感を得やすいという狙いと思われ、その狙いがふつうに当たっている作品と評価できます。
 2区の落ちこぼれ大田君のすねた純情と奮闘、4区の斜に構えた渡部君の照れと素直さあたりが、私には響いた感じです。全体を覆うキャプテン桝井君の不調は、最後まで読ませる力にはなるけれど、終盤まで重苦しさを漂わせ続けた挙げ句、不調の原因と最後の走りがうまく処理されたという納得感が十分とは思えず、そういう設定がよかったかどうか、私には功罪相半ばに思えました。

29.「持たない」ビジネス 儲けのカラクリ 金子哲雄 角川ONEテーマ21
 マイホームと企業の不動産・生産部門等を対象に、資産を持つことのリスクを論じ、身軽で機動的な選択の優位性を論じる本。
 第1章では一般人のマイホームと借家の選択を論じ、不動産の資産価値上昇の幻想とマイホームの維持費・修繕費負担、借家の職住近接選択と劣化には転居で対応できることなどを挙げて、借家の優位性を指摘しています。持ち家といっても住宅ローンが終わるまでは金融機関から家を借りているのと同じ(15ページ)、「住宅ローンは現代の小作農だ」(46ページ)など、住宅ローンに縛られた生き方に対する指摘は、持ち家政策の偏重やマイホーム幻想へのアンチテーゼとして興味深く読めます。しかし、個人の人生で考える限り、老後の収入が乏しくなる時点で、持ち家は家賃が不要で修繕費をかけなくても暮らすことは可能であるのに対し、借家では家賃負担が最後まで続くという点をどう解決すべきかの説明がないのでは説得力に欠けると思いました。
 第2章以降は、店舗を不動産として所有するがために不採算店舗も撤退が遅れる、生産部門を自社で持っているが故に売れなくなっても稼働率を高め不良在庫の山をつくってしまうなどの企業経営における資産保有のリスクを事例を挙げて指摘しています。そして、技術革新と市場ニーズの変化が速い現代では、極論すればノウハウと現金以外は保有しない、製造はすべて複数業者にアウトソーシングし競争させて品質を高めつつもっとも利益が出る形で行い、結果が悪ければ傷口が小さいうちに即時撤退する、というのが著者のお勧めの経営形態ということになります。
 一企業の利害のみを考えて、理論上の経済合理性を追求すればそういうことになっていくのでしょうけれど、社会の中で位置づければ長期的に合理性のある考えとは思えません。著者自身、「あとがきにかえて」では「持たない経営は経営者層にはプラスに働くように見えますが、前述の通り、一般的な労働者の雇用も失われることも事実です。労働者は消費者でもありますから、国内から労働者が減少すると国内市場も縮小することになるため、行き過ぎた『持たない経営』は結果的に経営者層にもマイナスに働きます」として、著者はこれまで経済関連の専門誌に持たない経営の手法を執筆してきたが何が幸せなのかわからなくなったと打ち明けています(152〜153ページ)。そうなると、この本は一体何のために書かれているんだかという気がします。

28.その科学が成功を決める リチャード・ワイズマン 文春文庫
 自己啓発や幸福について書かれた本の中で広く常識とされていることについて、心理学の文献を元に検討した本。
 プラス思考、ポジティブシンキングについて、欠点について考えることやマイナス思考を抑え込もうとすると、人はかえってその考えに囚われてしまうことが指摘されています。「たとえば、ダイエット中の人にチョコレートのことを考えないようにしなさいと言えば、よけいチョコレートを食べてしまう。そして国政に馬鹿者を送り込んではいけないと大衆に訴えると、彼らはジョージ・ブッシュに投票してしまうのだ」(21ページ)。この例示だけでも素晴らしい。日本では誰がここに当てはまるでしょう?
 トラウマを克服するには、それを人に話すよりも、日記に書いた方がいい(22〜24ページ)。書くことで問題が自分の気持ちの中で整理されるからでしょうか。辛い体験をした人は、その辛い体験から得たプラス面を書き出していくと怒りや不快感を沈静化させる効果がある(188〜191ページ)とか。このあたり、うまく使いたいエピソードという感じがします。
 人をやる気にさせるには「ご褒美」はむしろ逆効果で、「報奨の額や仕事の内容に関係なく、ニンジンを鼻先にぶら下げられた人たちは、報奨を約束されなかった人たち以上の成績をあげられなかった」(48〜50ページ)。成功した自分を強くイメージする方法も逆効果で、テストでいい成績を取った自分を毎日数分間思い浮かべた学生グループは、それをしない対照グループと比較してあまり勉強しなくなりテストでいい点が取れなかった(90〜93ページ)。集団でアイディアを出すブレーンストーミングは個人個人で考えるよりアイディアを出せなかった(124〜126ページ)。そして集団で決断すると、1人で決断するよりリスクが高い決断や極めて保守的な決断という極端に走りやすい(238〜242ページ)って。ブレストも会議もするな、3人寄れば文殊の知恵は嘘ってことでしょうか。
 世間でよくいわれていることが、心理学の実験結果で次々否定されていくのは興味深く、ある種小気味いいところではありますが、実験の詳細は書かれていません(文献引用はたくさんなされていますからそれを読めばいいんでしょうけど)し、実験からそこまでの結論を導くのは少し飛躍があるように思える例もあります。とりあえずの読み物という線で押さえた方がいいかもしれません。
 仕事の先延ばし傾向を克服するためには、とにかく「ほんの数分」手をつけてみる(104〜106ページ)というのは、経験上まったくその通りだと思います。時間が足りない、まだ準備ができていない、できる心身の状態ではないなどと考えて今日はできないなぁと思っていた仕事が、無理無理にでもやり始めてしまうと、あっさりその日のうちにできあがるということはよくあります。ただ気が乗らないからできない口実を作っていたのか、やり始めれば力が沸くのか(著者のいう最後までやらないと気がすまない人間の性質なのか)は何とも言えませんけど。

27.記憶する技術 伊藤真 サンマーク出版
 受験を中心に知識を引き出して使いこなすための記憶の技術について論じた本。
 記憶するためのテクニックの部分は、復習は1時間以内と寝る前の5分とか、繰り返しで少しずつ増やしながら覚える、視覚・聴覚情報と結びつけ妄想も含め経験として頭に入れるなど、わりとどこでも聞くような話が多いです。
 むしろ、記憶や受験勉強にまつわる著者の解釈や人生論的な部分が読みでがある感じです。フィギュアスケートの例で一流選手は失敗しやすいジャンプの練習に時間を割くがそうでない選手は成功したジャンプをより磨くために時間を使うとして、上達するためには自分の失敗に注目しなければならない、失敗しないのであれば意識的に失敗するような状況をつくってしまえばいい、例えば絶対に全部できない制限時間でトライして弱点をあぶり出すというような方法論を提示しています(27〜29ページ)。長所を伸ばせが主流のご時世に欠点の是正の先行を言う著者は、やはり私より少し年上。それをおいて、この事例から弱点のあぶり出しまで持っていく展開力の方に、ちょっと興味を覚えます。ストレスを抱えているとき、自分はもうストレスに慣れたんだと意識してそういう記憶を脳につくり出してしまえばストレスは克服できる、過去の苦い記憶も、そこから自分はこんなことを学びとってそれは自分にプラスのできごとだったというように記憶を自分によい意味に書き換えてしまえという(39〜42ページ)一種のポジティヴシンキングも、苦い記憶自体は否定しないで「もう慣れた、積極的な意味もあった」と追加することで克服しようとする点で興味深いところです。プラスに変換できない過去の記憶、根も葉もない悪口や悪意に満ちた嫌がらせは忘れた方が幸せだし、どんなに努力しても文句を言う人はいる、万人に好かれる人などいない(157〜159ページ)という割り切りも、そうだよねぇと思います。
 著者が記憶術の実践で聴いた講義を帰り道・電車内で振り返りセルフレクチャーしていたら「電車の中でふと気づくと、私の周りだけ空間ができていたこともあった。とはいえ、混んでいる電車の中でも快適に過ごせるのだから、願ったりかなったりだ」(75ページ)というのは、やはり強者だと思います。「部屋の整理がまったくできておらず、整理が苦手という人は、記憶力も弱い気がする」(86ページ)は耳が痛いですが…

26.湿原力 神秘の大地とその未来 辻井達一 北海道新聞社
 北海道の湿原を中心に世界の湿原についてのエピソードを紹介する本。
 湿原の研究を続けてきた植物生態学者の本ですから、著者が長く研究対象としてきたサロベツ湿原などでの植生を中心とした学問的な記述が続くのかと予想していたのですが、前半は湿原をめぐるある種トリビア的なというか雑学っぽいうんちくで、後半は各地の湿原の地勢と歴史の話が多くを占め、湿原と文学とかの文化・民俗的な話に及んでいます。
 湿原で堆積する泥炭の話がそこここにあり、「火力は弱いがほのぼのとした温かさが伝わり一日中家にいるお年寄りには格好のものだったのだ。ストーブの上ではいつもお湯が沸いているし、時間をかけて煮込みやスープを作るのにはもっとも適していた。洗濯物もすぐに乾いた」(65ページ)とか、「麦芽の燻煙に用いられて独特の香りと味を出す泥炭がなければウィスキーは存在しない。逆に言えば、ウィスキー製造には泥炭しかなかったと言うべきかもしれない」(75ページ)などというのを読むと和らぎます。熱帯のマングローブ林でも、植物の生育が早く堆積量が多いので泥炭が堆積するがガサガサなので、農園などを作るために排水溝を掘って水位を下げると、たちまち分解が進んで泥炭層は縮んで薄くなり地盤沈下を起こし結局海水が逆流して植えた植物が枯れる上に泥炭が乾くと燃えやすく火事の危険がある(66〜68ページ)という話は、熱帯での乱開発の虚しさを示唆しています。石狩湿原は明治初期には北海道で最も大きな湿原だったが、開発により極めて急速に消滅に向かった、「おそらく湿原の変化としては、もっとも短期間で急激な例と言えるだろう」(107ページ)ということとともに胸に刻んでおきたいところです。

25.現代日本の政策体系 政策の模倣から創造へ 飯尾潤 ちくま新書
 現代の日本においてあるべき政策体系と政党政治についての政治学者である著者の見解を述べた本。
 著者は、「政党共通の競争基盤」となるべき問題分野と政策体系を論ずべき問題分野を分け、前者を第2章で、後者を第3章から第6章で論じています。
 前者では、「1.財政の持続性をいかに確保するか」と題して財政再建の枠組の堅持、「2.経済政策の共通基盤」と題して財政再建のめどをつけた上でのデフレ脱却と経済成長戦略、「3.地方分権の推進」、「4.外交・安全保障政策の前提条件」として日米関係の維持と近隣諸国との良好な関係の維持、日米安保と自衛隊の現状維持を挙げています。何よりもまず財政再建というあたりは財務官僚の回し者かとも思いますし、日米安保も自衛隊も現状維持が共通基盤というのでは、これまでの政党間の対立・論争を政策論争から除外しあるいは不毛な論争と断じて目をそらさせようとしているように見えます。
 「両党の政策位置が近くなることは、決して悪いことではない」「社会全体が安定しているときには、中道的な立場に多くの支持が集まり、人々の意見の分布が正規分布をなすことが多い」「まさに日本で起こっていることは、こうした穏健で正規分布をなす有権者の下で、主要政党の政策的位置が似てきたという状況である」(279ページ)という著者は、端的に言えば、共産党や社民党などを無視して、保守系の2党か3党で、官僚が困らないような穏健な経済政策で競争していけばいいと考えているように、私には見えます。
 政策体系を論ずべき問題分野としては、少子高齢化の下での社会保障のあり方、都市と農村の将来像、環境問題への対応、家族・ムラ等の人間関係に影響を与える教育・治安・情報通信政策を挙げています。政党が政策を競うべき分野の代表はこういうものでしょうか。このあたりにも、保守系でない政党を排除したい著者の思惑が表れているように、私には思えます。この中で、従来の政策対立として際立つ原発・エネルギー政策については「反対論と容認論が、一つのテーブルについて次の一歩について妥協点を探るとともに、将来の形についてはじっくりと議論を重ねて、新たなコンセンサスを作り上げるよう努める必要がある」(203ページ)としています。自らは結論を示さないという立場なのか、「じっくりと議論を重ねる」ことが権力を維持し官僚が舞台回しをする側・時間がたち原発事故の衝撃が薄れることで利益を得る側に有利に進むことを念頭に置いているのかはわかりませんが。
 「はじめに」では「最終的な政策の姿には、あえて複数の可能性を残した」としています(12ページ)が、多くの場面では、著者の意見が1つ書かれているだけで、複数の方向性を示している分野はあまりないように思えます。著者が示唆する政策は、考え方として興味を惹かれ参考となる点も少なからずありますが、現状を根本的に変えるものは少なく、過去の政策について世間では批判が多い問題についてもそう悪くはないと評価してみせる点が多いことも併せ、官僚が歓迎する範囲内のものだろうなと思えました。

24.「暁」の謎を解く 平安人の時間表現 小林賢章 角川選書
 平安時代の日付の変更時刻、暁は何時頃かなど、平安時代の文学作品に見る時間について、通説と異なる著者の説の論証を試みる本。
 著者は、平安時代の日付変更は午前0時ではなく午前3時であった、暁は寅の刻の午前3時から5時までを指し、「つとめて」はその後の卯の刻で午前5時以降、「有明の月は暁のそれも暗い時間帯に出ている月を表現するのが平安時代の有明の一般的用法だった」(78ページ)、「明く」は夜が明けるの意味ではなく日付が変わることすなわち午前3時になること、「夜もすがら」も「今宵」も午前3時までを指すという主張をし、源氏物語や枕草子、更級日記、和歌などの用例でその論証を試みています。
 大変興味深いものですが、論証としては、日付変更が午前3時であること、そこから「明く」は午前3時が過ぎること、暁は午前3時からと順次前の論証ができていることを前提として次の論証をしていくという構成になっているので、1つが崩れると総崩れになりかねないリスクを抱えているように思えます。そこは、この点は論証できているからと前提にするよりも、全体としてこう解釈した方がさまざまな用例を説明できるでしょという説得の方がいいように見えます。
 有明の月について、「夜が明けても、なお空に残っている月」とする古語辞典の通説的見解を誤りとして、有明の月は暁の時間帯の闇の時間に出ている(99ページなど)としていますが、著者が百人一首にある「有明」で唯一検証対象から外した(91ページ)「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」は、有明の月を薄暮の空の月と考えないと理解しにくいように思えます。この点は、有明は午前3時以降を意味するので「暁の時間帯以降、例えば薄暮の空に薄く白く出ている月もやはり有明の月」(78ページ)という記載もあるのでいいかもしれません。しかし、「夜が明ける」の意味で動詞の「明く」が使われる可能性については、「もちろん、全くないとは言えないが、ほとんどその可能性はない」(104ページ)と著者は述べています。そうだとしたら、百人一首の「明けぬれば暮るるものとは知りながらなお恨めしき朝ぼらけかな」について、著者が論じる前提事実の「明けぬ」は午前3時になった、男女の別れは暁(午前3時から5時の暗い時間帯)ということからすると、この歌の作者が恨むべきは「朝ぼらけ」ではなく「暁」ではないかという疑問を生じます。
 この本で論証ができたという位置づけではなく、通説への疑問をそれなりに小気味よく展開した本という読み方がいいかなと思いました。

23.横道世之介 吉田修一 毎日新聞社
 長崎の海辺の町で育ち東京の大学に入った学生横道世之介の大学1年生の生活と知人たちが中年になって振り返るエピソードで構成する青春小説。
 「昔の小説の主人公で理想の生き方を追い求めた男の名前」に由来する(16ページ)名前と、素朴なひたむきさが周囲と少しずれているためにコミカルに見える世之介と、知人たちとの交友関係を描き、そのエピソードがコミカルでずれてる感はあるもののたいていの読者には学生時代に自分も似たようなことしてたよなとか似たような友達がいたよねと思わせてくれるところが巧みなところです。言い換えれば、多くの人が学生時代に経験したようなエピソードを少しずらせてコミカルに描いた作品といってよいでしょう。
 そういう目で見ると、好き好きオーラを放つ世間知らずで気が強くて純情で正義感のある、結果少しずれた祥子ちゃんに一直線で行かずに結局は「もう原因も思い出せないような些細な喧嘩から」(375ページ)別れてしまうことや、怪しげな魅力の年上の千春に惹かれてしまうことも、学生時代だったらそうだよなぁ/そうかもと思います。今だったら…う〜ん、危なそうな話はやめておきましょう(‥;)

22.プラチナデータ 東野圭吾 幻冬舎
 警察庁が開発したDNA解析・検索システムにより容易に犯人を特定・検挙できるようになった近未来の日本で、それにもかかわらず現場に残されたDNAから犯人がまったく浮かび上がらない連続殺人事件が起こり、同一犯による新たな犯行と目される事件の現場に残された毛髪の解析結果がシステム開発担当者神楽を指し示し、驚愕した神楽が逃走しながらその謎に迫るというミステリー小説。
 前半から、科学とデータのみを信じ管理社会の構築に突き進む神楽龍平と密室で絵を描き続けるリュウの2重人格、神楽の生い立ちに言及され、神楽とリュウを媒介する少女スズランを度々登場させ、神楽の逃走中に出会うチクシ・サソリののどかさも併せ、神楽の人間性の描写に相当な力が注がれています。そのあたりの遊びというか含みが意外に読みどころかもしれません。
 ただ、スズラン、自動改札で切符はどうしたんだろう。スズランの正体についてはわりとすぐ見当がついてしまうだけに、そこがずっと気になっていましたが、それについては謎解きなしでした。あと防犯カメラの偽装工作をしたのはリュウというスズランの言葉(222ページ)と志賀の謎解き(423ページ)のズレ。スズランの容姿と実像のズレも、リュウの目にはスズランがそう見えていたのひと言(423ページ)では納得できません。スズランを登場させることで神楽の人物描写を深め、柔らかさを出せたメリットと説明にいくつかの破綻を生じさせたデメリット、どちらを重く見るか、好みの分かれるところかなと思います。
 映画の感想は「映画「プラチナデータ」」を見てください。

21.別れさせ屋の恋 新堂冬樹 ポプラ社
 子どもの頃、夫がありながら多数の男と人目をはばからず関係を持ち続ける母親に対して愛情とともに憎しみと軽蔑を感じ、長じて女を憎むようになった別れさせ屋のエース早見俊27歳が、天使と悪魔、淑女と娼婦の2つの顔を持つターゲット栗原栞に翻弄されるうちに恋心を感じてゆく、屈折ラブストーリー。
 女性に対して憎しみと嫌悪、軽蔑しか感じていない冷酷な別れさせ屋の俊が、職場の従業員や獣医の女性とは巧くやっていける様子とか、栗原栞の言動のあまりの場当たりさ加減は、読んでいてしっくりこないところがありますし、俊のキャラが栗原栞のようなキャラに惚れるだろうかということには相当な疑問を感じます。
 しかし、それでもなお、終盤の純なラブストーリーへの展開は、やや強引な感じはしますが、巧みに思えます。読み終わってみると、俊の母佳澄のキャラも、さばけたあっけらかんとした魅力を感じますし。

20.検証 官邸のイラク戦争 元防衛官僚による批判と自省 柳澤協二 岩波書店
 2003年のイラク戦争開戦時は防衛研究所所長、自衛隊のイラク派遣中は内閣官房副長官補であった著者が、イラク戦争に対する支持表明と自衛隊のイラク派遣をめぐる官邸の判断について論評した本。
 アメリカの真の目標はイラクという敵対者を潰すことが新たな潜在的敵対者への見せしめになりアメリカと世界の安全に通じるという発想であったと思われる(12〜13ページ)、「国民戦争の時代には、ヒロイズムは前線の兵士に属していた。今や、それは政治指導者のものとなった」(32ページ)、「このように見ると、かつての日本の指導部がアメリカとの戦争を決意したプロセスとの類似に驚かされる。それはまさしく、閉ざされた政策決定サークルが共有する偏狭な『時代精神』によって導かれる戦争の意思決定の特徴かもしれない」(39ページ)など、ブッシュ政権の開戦の判断に対しては、元官僚の手になるものとしては比較的思い切った表現が目につきます。
 また、著者が防衛研究所でアメリカの先制攻撃を正当化する論拠を探していた際に防衛研究所でも開戦反対論があり、その論拠はアフガニスタンとの2正面作戦が軍事的にはあり得ない判断である、アメリカが強力な軍事力を持って攻撃して簡単に勝利をおさめることになれば目標とされる国はかえって核兵器を持つ動機を強め世界を不安定化させる、アメリカが作りアメリカの力を背景に維持されている国際システムの信頼性が低下する、信頼によって成り立っているアメリカの国際的なリーダーシップが失われる等で、現実にはその通りになったことも指摘しています(42〜45ページ)。
 そして日本の政権の主張に対しても、周辺事態法の国会審議での答弁のアメリカが国際法遵守義務を負っているから違法な武力行使をするはずがないという論理には首をかしげざるを得なかった(80〜81ページ)、イラク戦争は国連決議に基づくものではなくイラク戦争支持の方針は従来の日本政府の姿勢とも当時の国連の大勢とも矛盾するものであった(87ページ)、大量破壊兵器がないことが明らかになった後に小泉総理が持ち出した「疑惑があることが脅威」との論法については「国同士の不信感が跡を絶たない今日の世界で、特定の国への不信感が戦争を正当化するような論理は、たとえアメリカ支持が間違いではなかったという立場であっても、使うべきではなかったと思う。そのような世界は、日本自身が望んでいないはずだからだ」(98〜101ページ)、読売新聞記者がサマワの自衛隊を防衛庁と協議の上で取材しようとしたが直前に官邸から拒否された事件に関して「イギリスは、国家戦略としてこの戦争に参加しており、国民の支持を動員する必要がある。また、多くの犠牲を出していることへの説明が必要である。一方、日本は、政治的ポーズのために自衛隊を派遣している。出していること自体が目的であって国民の支持を動員する必要がない。むしろ報道が、政府に対する批判の種になることを恐れている」(119〜120ページ)などの批判的な記述もあります。
 もちろん、この本の記述の大筋は政権の判断を支持するものです。ただアメリカの開戦を支持するにしても、「アメリカの同盟国である日本」というアイデンティティー以外の自己認知を持たず、今も持たないことへの疑問を感じるというような立ち位置です。「終わりに」でそのあたりが語られるとともに、2004年4月に日本人ボランティア3人が人質になった際、テロに屈しないとし人質に対しては自己責任を強調したことについて、「善意の日本国民に対するテロは許せない」というのが政府の出すべき最初のメッセージでなければならなかったのだと思う(184〜185ページ)とされていることは、官邸の判断を尊重する官僚の立場でもなお各場面で別の判断・対応があり得たことを示していて興味深いところです。

19.プライドの社会学 奥井智之 筑摩書房
 社会学者である著者によるプライドをキーワードにした社会学的考察ないしは雑談的エッセイを編集した本。
 「はじめに」で「本書はプライドに関する社会学的考察を試みるものである」(10ページ)と述べ、自己、家族、地域、階級、容姿、学歴、教養、宗教、職業、国家の10章構成となっていますが、論理の連なりはなく、話の流れとしても、各章の最後に次の章への導入的(というよりは接続をつけるだけの)1節が置かれているだけで、章内の各節がまったくバラバラでつながりがなく、各節も最初からプライドをテーマにしているものもあるけれども最後に取って付けたようにプライドに結びつけたものもあり、読んだ感じとしては短編集とさえ感じにくく、エッセイ集のイメージです。そのことについて著者は「おわりに」で「極端に言えば本書が、六十のまとまりのない話から構成されている」「もはや開き直ってわたしはこう言いたい。何もパブロフの犬のように、学問的な記述=首尾一貫した体系的な記述と決めてかかることはない、と」と述べています(232〜233ページ)。「極端に言えば」というよりもふつうに読めば、だと思いますし、それで勝負したいなら「終わりに」じゃなくて「はじめに」でそう宣言しておいて欲しいなと、読者としては思います。そういう試みを好ましく思う読者もいるでしょうけれど、「学」の名を前提に読み始めて、そのイメージに反する論理展開がぶつ切れの散漫な文章を、最後まで読み続けるのは、私にはけっこうな苦痛でした。
 それぞれの考察ないしエッセイ自体は、特殊な学問用語が使われず映画や小説を題材にしたものが多く親しみやすい工夫がなされていると感じられます。そういう意味で、タイトルをもっと柔らかくして、これはプライドをくくりにしたエッセイ集だと最初に書いていれば、もっと素直に読めたかなと思います。

18.3・11とメディア −徹底検証 新聞・テレビ・WEBは何を伝えたか− 山田健太 トランスビュー
 東日本大震災と福島原発事故をめぐる新聞・テレビ等の報道について論評した本。
 新聞・テレビ等の「伝統メディア」の姿勢について、市民デモ等の扱いや放射能汚染についての報道、市民が居住している地域からの撤退、在京紙・在京キー局の東京目線の報道などを批判していますが、他方でその姿勢にも理解を示す記述も見られ、伝統メディアもよくやっていると評価したり、全体の論旨は旗幟不鮮明に思えます。
 サブタイトルの「徹底検証 新聞・テレビ・WEBは何をどう伝えたか」に惹かれて読んだのですが、検証部分は多いとはいえず、後半は理屈の部分が多く、どこが徹底検証なのかと思ってしまいました。比較検証が地震直後や1周年当たりで、その他の記述も2011年夏とか暮れ段階ではというのが目につき、読んでいるうちに、これ書き下ろしじゃなくてあちこちに書いた原稿の寄せ集めで一丁上がりの本なんじゃないかと疑念を持ち、それでも終わりに初出一覧とかないしなぁと不思議に思っていたら、あとがきの中に埋め込まれていました。最初にこれに気づいてたら読まなかったのになぁ。
 官僚の議事メモ等が作成されていない、文書はないなどの言い訳を信頼して、「今回の震災をきっかけに判明したことの一つが、公文書管理の杜撰さである」(190ページ)として、官僚が文書記録を作成しなかったり保存しないことを批判しています。最近私が読んだ「本当は憲法より大切な『日米地位協定入門』」では、琉球新報の記者だった編著者が外務省に日米地位協定の逐条解説が欲しいと言ったらそんなものはないと言われ、外務省が作成した「日米地位協定の考え方」を入手して機密文書が存在することを報道しても外務省は「そんな文書は存在しない」とコメントしたので、琉球新報が全文を紙面に掲載したら掌を返して「これは外務省にも数冊しかない機密文書だ。それをこともあろうか20万部も印刷してばらまくというのは、いったいどういうつもりか」と電話で怒鳴ってきたということが書かれています(同書294〜299ページ)。官僚というのはそういう連中だと思いますし、マスコミの姿勢としては官僚の言い訳をあっさり信じるのではなくてこちらの方があるべき姿ではないかと思います。

17.ウィルス・プラネット カール・ジンマー 飛鳥新社
 ウィルスについてのあれこれを解説した本。
 インフルエンザでは通常免疫力が弱い子どもや高齢者が犠牲になりやすいのに1918年の世界的大流行(いわゆるスペイン風邪)では免疫力が強い人たちが犠牲になった。その理由は今もわかっておらず、免疫系統にあまりにも激しい反応を引き起こすためにウィルスを叩きのめすよりも宿主自身を破壊する結果になるという説もあり、そうではないだろうという説もある(36〜37ページ)。致死率が非常に高いエボラ出血熱の場合、病原性があまりにも強いため新たな宿主を見つけるよりも早く現在の宿主を殺してしまい、大流行にはならずに、通常は数十人が死んだところで終息し、ウィルスは数年間姿を現さない。本当に怖いのは致死率が高いウィルスよりも、致死率は低くても大勢の人に感染が広がるウィルス(166〜169ページ)。というような、ウィルスに関するうんちくが、読みやすく書かれています。
 比較的軽いウィルス感染症や細菌感染症にかかった子どもは成人後にアレルギーやクローン病などの免疫系疾患にかかりにくく、風邪の原因であるヒトライノウィルスなどのウィルスは人間に利益があるという面もある(31ページ)とか、受精卵が胎児となり胎盤を形成する際には人類がかつてゲノムの中に取り込んだレトロウィルスの遺伝子が重要な働きをしていて人間が子宮内で胎児を育てられるのはウィルスの遺伝子のおかげともいえる(114〜118ページ)なんてことも書かれていて、勉強になるというか、人間って生き物って不思議でいろいろなものと共存してるのだなと思いました。
 旧ソ連は天然痘ウィルスの生物兵器を研究していたが、ソ連崩壊後その研究所は遺棄され、貯蔵されていた天然痘ウィルスの行方は不明だ(182〜184ページ)とかいう由々しい/嘆かわしい話もありますが…

16.脱常識の社会学 [第2版] ランドル・コリンズ 岩波現代文庫
 社会学の入門書。
 まえがきの冒頭で「どんな学問も次の2つのことをめざさなければならない。すなわち、明快であること、そして当たり前でないこと、である」「社会学は、これら2つのどちらに関しても評判がよくない。その抽象的な特殊用語は悪名高い。社会学の文章は、最悪の場合、まったく理解不能なものと見なされている。そしてしばしば、読者がようやくその抽象概念と専門用語を解読してみると、実際にはほとんど何も言われていないことに気づくのである」と述べられています。率直に言って、私がこれまで社会学(あるいは政治学も)の本を読んだときの感想の大半はこの通りでしたから、このまえがきを見て快哉を叫び、この本を読もうと思ったわけです。
 第1章は、人が社会を形成することが、全体としてみると分業により誰もが利益を得ると考えられるが、個人レベルで考えればルールを守ることは合理的ではない(最大利益は、他人がルールを守る中で自分だけがルールを破るところに得られる)という論理展開で、人が社会を形成するのは非合理的な感情、儀礼と信頼に基づく連帯感によることを論じています。第2章ではその儀礼と信頼を宗教問題へと当てはめ、宗教は社会のアナロジーで神はその社会を映したものと論じています。これらの議論は、論理学的な課題演習というか、思考実験としてはなかなかに興味をそそられますが、ミクロレベルでの対抗命題(常識的・通説的論理)の否定が直ちに論証とされ、中間的な考察を飛ばしてマクロレベルの論証に結びつけられている感があり、消化不良感が残りました。
 第4章の「犯罪の常態性」で「最も常識を離れた見方」として著者が述べている自分の意見(175〜185ページ)を読んで驚きました。著者の主張は、犯罪の処罰は、厳罰により犯罪をなくすためでも刑務所等での教育で犯罪者を更生させるためでもなく、犯罪処罰(捜査・裁判)という儀礼により一般公衆に法が確かに存在し犯されてはならないことを強く印象づけ結束し連帯する感情・確信を強めるためにあるというのです。私は、「子どもにもよくわかる裁判の話」のコーナーの「何のために人を罰するの」というページで、「考えていくと、簡単(かんたん)じゃあないけど、犯罪が少ないよい社会を作るためのしくみがあって、もっと言えば、被害者が守られるしくみもあって、こういういいしくみ(いい社会)を守っていきたいという気持ちが生まれ、続くことでみんなが法律を守ろうという生き方をするようになる、このことが大事なんだと思う。」と結論づけています。この部分、どこかから拾ってきたのではなくて私自身の思いを書いたのですが、論理はこの著者と基本的に同じ。私は、儀礼(象徴)と信頼・連帯という意識(なんか国家主義的でいやだなぁ)はまるでなかったんですが。自分の思考を外からの光で照らされるとちょっとたじろぎますね。
 論証には飛躍を感じるところがありますが、さまざまな点で知的好奇心というか興味をくすぐられる読みでのある本です。
 原書の初版が1982年で、第2版が1992年。で、日本語版は1992年初版で2013年第2版というのは、どうよと思う。訳者あとがきの後に、日本語版初版が1992年3月に単行本として刊行されたと記載しているのは、原書第2版の出版(Amazonの表示では1992年4月2日)より先だと言い訳したいのかなと思いますが、翻訳の過程で著者への問い合わせとかするでしょうし、そうでなくても著者の関連のものにはアンテナ張ってるはずで、当然、日本語版初版の出版前に、原書第2版が準備されてるのは気づくはずだと思います。それで日本語版で原書第2版の反映をしないでおいて、11年もたった今頃その翻訳を出版というの、出版社としてどんなものかなぁと思います。それを棚に上げて訳者あとがきで、コンピュータや人工知能に関する記述はやや時代遅れと書くのも(時代遅れになったのは11年も放置した出版社と訳者のせいでしょ?)…

15.デキる男の正解美容 誰も教えてくれなかった基本ルール70 戸賀敬城 講談社
 MEN'S CLUB編集長による男の美容法についての指南本。
 「はじめに」では、「モテる、ということは、いかに相手に不快感を与えないか。それに尽きると僕は思う。ファッション以前の常識だ」「この本はいわゆる基本中の基本、男性は美容をどうすべきかということを僕自身が実践していることから提案している。どれもいたって簡単なこと」(10ページ)と書かれ、さらには「そんな簡単なことができなくて、じゃあ何ができるのか、と思う。それは仕事のスキルにもつながるんじゃないかな。結局はズボラな人、ツメが甘い人。そういう印象だよ」(11ページ)とまでいってくれています。
 それで何が書かれているかというと…肌の手入れ関係は、私にはとても無理な水準ですが(洗顔と化粧水、乳液・クリームは必需品で、145ページでは50mlあたり3万円前後のクリームをお勧め(-_-;)、書かれていること自体は理解できます。でも、ひげそりが肌にダメージを与えるからというので、レーザーでヒゲを永久脱毛した(71〜73ページ)、鼻毛が1本出ているだけですべてが台無しになるから鼻毛も脱毛した(123ページ)とかいわれると、もうおよそついて行けません。いや、本人が何を実践してもいいですけど、そういうことを書いておいて基本中の基本とか簡単なことっていうまえがきを書くのは感覚がおかしいと思います。
 シャンプーのしすぎは逆に髪の潤いが失われちゃう(88ページ)といいながら、「夜にシャンプーをしないなんてありえないからね」(88ページ)と毎晩のシャンプーを強く勧め、その上で朝も軽くシャンプーを勧めたり、体は「ナイロンのタオルで徹底的にこする派」(118ページ)という筆者。40代半ばになってそういうのは皮膚によくないと思うんですけど。汚れ落とし・匂い落としが最優先ならかまってられないのかもしれませんが。
 「メンズ」という言葉が名詞として、主語や目的語で頻繁に使われています。例えば「メンズは化粧水をささっとつけて満足、という人が案外多い」(23ページ)とか、「多くのメンズは思うだろう」(27ページ)とか、「メンズは女子に比べて化粧品が効きにくいって話もある」(50ページ)とか。「女子」の対句として「男」か「男性」の意味で使っているみたい。これがかっこいい用語法なんでしょうか。

14.片桐酒店の副業 徳永圭 新潮社
 父親が「困ったときのまごころ便」と称して酒屋の副業として始めた配達屋を、父の死後引き継いだ陰のある無口な中年男片桐章が、困った配達依頼に対応していく様子を描いた短編連作形態の小説。
 第1章だけが片桐酒店で短期のアルバイトをすることになった貧乏学生丸川拓也の視点から、その他は片桐酒店の店主片桐章の視点から語られています。第1章を書いた後片桐章の内心描写を展開しようと気が変わったのか、とりあえず第1章でアウトラインを客観的な視点で紹介しておきたかったのか、最後に「書下ろし」と書かれているだけに、読んでいてちょっとあれっと思います。
 会社員時代に、親友となった同僚にちょっとした嫉妬心から押しつけた業務が親友の死につながり、罪悪感にうちひしがれ心を閉ざす片桐章の苦悩からの再出発が、全体を通した軸となっています。アルバイト学生拓也と店番のフサエの軽妙なやりとりが、その重苦しさをカバーしていると見るべきか、アンバランスと見るべきか。
 登場する人物の中で、突出した重苦しさ・暑苦しさを感じさせる原陽子と安居課長は第3章限りの登場ですが、その後どうなったんだろうと気になるような聞きたくないような…

13.タイムデザイン 泉正人 フォレスト出版
 現在の生活よりも時間に縛られないライフスタイルで過ごせるようになることを目標に、時間の有効活用を論じる本。
 学びや自己投資のための「インプットの時間」、仕事や料理等の「アウトプットの時間」、食事や風呂や睡眠などの「生活の時間」、自由に使う「プライベートの時間」の4つにわけ、前2者では効率的な使い方を、後2者では楽しいかどうか、心地よいかどうかを基準にすることを提唱しています。
 自己投資では、自分の得意なところ、長所を伸ばすことに投資し、苦手の克服は時間をかけてゼロでは割に合わないから人と協力するなどのアウトソーシングで対応する、長く使え高く売れるストック型スキルを身につけるよう努力するということが提唱されています。この分野では度々弁護士が高く売れるスキルの代表として上げられていますが、弁護士業界もいつまで持つかなぁという昨今のご時世です。10年先を見越して考えろという著者が、今からスキルと身につけてということでお薦めできるのだろうかと、業界人としてはちょっと疑問も。それはおいて、肉体労働の1時間1000円とか900円と弁護士の1時間1万円は買う側にはそういう比較になるでしょうけど、売る側で見ると給料をもらう人はもらった額そのままが所得でも弁護士のような自営業者は経費負担があるのでもらった分がまるまる所得ではないことが度外視されているのはちょっとなぁと思います。この本では、お金を稼ぐ側の視点でいっているわけですから、実所得で考えるべきだと思うのですが。
 仕事の分野では効率化して自由時間を増やす話ですが、1時間の会議を15分にする方法(60〜65ページ)には、疑問を持ちました。資料の事前配付や事前に読む本を指定したり参加者の事前調査などでは、会議自体の時間は短くなり効率化が図れるとしても、その分事前準備時間が増え各個人の自由時間の増加につながるとは思えません。ビジネス書としての会議の効率化ならそれでいいでしょうけど、自由時間を作るための効率化を主張する本でそれではね、と思います。
 発想としてはおもしろいところがあるのですが、1日8時間労働年120日休暇とすると1年のうち75%が自分でコントロールできる時間(6ページ)ってそもそも睡眠時間はどうするよとか、残業休日出勤一切なしの職場がどれだけあるよと思うところや、人の労働を買って時間を作るとか、基本的には自分が経営者でお金が十分あるという前提で話を進めているところが多々あって、具体的にこの本が「使える」読者はかなり少なそうな気がします。ちょっとだけ発想を自由にする、というあたりで参考にするというのが適切な読み方かなと思いました。

12.武器としての交渉思考 瀧本哲史 星海社新書
 著者が京都大学で学生相手に行っている交渉論の授業をまとめた本。
 交渉論としては、スタンダードな教科書類に書かれていること、例えば相手の提案を呑む以外の選択肢で最もよいもの ( BATNA : Best Alternative to Negotiated Agreement ) を自分と相手方について常に検討する、言い換えれば様々な情報を収集しつつ交渉が決裂した場合にどうなるかを考える、その結果として合意可能な範囲 ( ZOPA : Zone of Possible Agreement ) を考え決定する、相手のZOPAを考えつつ最初の提案をふっかけ(アンカリング)、そこから上手な譲歩を見せるというようなことを説明しています。このあたりは、他の交渉学の教科書を読んでいれば目新しいことはほとんどありません。出てくる例も半分くらいは聞いたことのあるものです。引用文献は表示されていませんが、仕事柄大丈夫かなとちょっと不安に思います。あまりにスタンダードな内容だから特にどの本ということでもないということで済むのかもしれませんが。教科書よりは砕けた文体で親しみやすいことが持ち味でしょうか。
 交渉論関係の本は、現実に交渉を仕事にしている身からすると、読むことで思考の幅を拡げ場面に応じて使える材料の引き出しを増やすという意味があり、もちろん勉強にはなりますが、読んだから現実に交渉がすぐに巧くなるというものではありません。現実の交渉場面は本に書かれているような単純なことは稀ですから。その意味では、頭の体操や勉強の足がかりくらいの位置づけで読むには手頃かもしれません。
 冒頭の、交渉を身につけ、媚びるのではなく投資の対象と見られるようにしてエスタブリッシュメントの支援を受けることで世の中を変えられるという檄が、一番読み応えがあったりするかなと思いました。しかし、そのことも、そして著者が最後に、この本を読んだらすぐに動け、読んだみなさんが明日からも同じ生活を送るのでは意味がないと叫んでいるのも、本を書く人はそういう熱意で書くものでしょうけど、それを真に受けるのはまさしく「自己責任」です。この本を読んだら自分も交渉の達人なんて思うのだけはやめた方がいいと思います。
 デモなんかいくらやっても世の中を変えられないという「反対運動」を敵視しがちな価値観(例えば111〜115ページ)、東京ディズニーランドのファストパスをお金で買えるようにすれば購入者は「お金」を失うことで「時間」を得ることができるのでフェアだと思う(262〜263ページ)などに見られる金銭重視の価値観など(理屈そのものよりもこの言い方から読み取れる価値観)は、私には「さすが、マッキンゼー出身」と揶揄したくなるいやらしさを感じます。

11.偉大なギャツビー F・スコット・フィッツジェラルド 集英社文庫
 5年前に18歳の富豪の娘デイズィと恋仲になり任務で離ればなれになりその後デイズィが富豪の息子トムと結婚をし子を産みロングアイランドに住んでいることを知った元軍人のギャツビーが、いかがわしいビジネスで稼ぎロングアイランドに豪邸を買って夜な夜なパーティーを開いてデイズィが現れるのを待ち、ついに再会するというストーリーの青春小説。
 解説によれば「20世紀の最高傑作と呼ばれてもおかしくない作品」だとか。
 この小説のクライマックスというか、一番の読ませどころは、既に結婚して一児をもうけている人妻のデイズィを追い求め、「過去は繰り返せる」と信じ込み、デイズィを説得してトムを愛したことはないと言わせ離婚させてデイズィを奪い去ろうともくろむギャツビーの説得が功を奏するか、デイズィの心の揺れなり決断なりはいかにというところだと思うんです。ところが、その部分が、今ひとつ描き切れていないというか、ニックというデイズィとトムの友人でギャツビーの隣人を語り手にしていることから、ギャツビーもデイズィも内心の描写の形にはならず、デイズィとギャツビーの会話も少なく、想像に任せられる部分が多くて、物足りない感じがしました。
 さらに言うと、読んでいて一番ストンと落ちないのはデイズィのキャラ設定です。美しいということではありましょうけど、気まぐれで性根が据わらないというか、ここまでして追い求める価値はどこに?という気がしてしまいます。好きになるのに理屈はいらないし、好き好きとしか言いようがないと思いますが、これじゃぁあまりにギャツビーがあわれというか滑稽というか。まぁ短期間つきあっただけで今は人妻の女性を5年たっても思い詰めしかも奪い取れると信じてるということ自体、冷静でないというか周りが見えないわけで、滑稽とはいえますが。そういうあたりの共感しにくさが、読んでいて入りにくい原因かなと思いました。
 1994年に発行した集英社文庫の改訂新版とされているのですが、1925年の作品で、作者は1940年死亡、訳者も既に死亡しているというのに、翻訳を引き継いだ人とかの表示もなく、何をどう「改訂」したのか不思議です。ただ映画がディカプリオ主演でリメイクされるのでそれにあわせて表紙写真を入れたというだけの「改訂」じゃないかと思う。まぁ私も映画の関係で読んでみようと思ったわけですから、出版のもくろみ通りに乗せられているのですけど。著作権切れだからやりたい放題ってことなんでしょうね。著作権切れでも原作の表示くらいはして欲しいと思いますが。

10.なぜ、それを買わずにはいられないのか マーティン・リンストローム 文藝春秋
 長年にわたりブランディング・マーケターとして稼働してきた著者が、大企業の広告戦略の手法について紹介した本。
 無防備な子どもに商品を無償提供したりさらには胎児に(母親を通じて)音や匂いや味覚になじませブランドを刷り込み両親や子ども自身を顧客として獲得していく手法、病気や老いや経済的不安を殊更に煽って身を守るための商品を購入させる手法、つながっていないことの不安(携帯)やオフでくつろいでいるときのメッセージの刷り込みや渇望に訴えかける音などの信号を駆使したり脂肪やグルタミン酸ナトリウムなどの中毒性の物質などを用いてブランド中毒を生じさせていく手法、セックスを暗示する広告の有効性、周囲と同じ物を欲しがる「ピアプレッシャー」を活用する手法、ノスタルジーを利用する手法、ロイヤルファミリーやセレブの有効性、健康幻想・強迫観念を利用する手法、個人データを集約して分析し最適に個別化された勧誘を行う手法などが順次紹介されています。
 豚インフルエンザもSARSも除菌ソープや除菌ジェルで感染を予防できないのに、手洗いソープはほとんどどんな場所にも置かれるようになった(46〜48ページ)。犯罪被害の恐怖を煽るCMで実際には犯罪が減少していたのに売上を急上昇させた住宅用警報装置会社(56ページ)や新米ママの罪悪感を煽って売上を伸ばす赤ちゃん用品メーカーや食品会社(59〜62ページ)、これまで病気と考えられていなかったものも病気として不安を煽る製薬会社(62〜65ページ)。ルイ・ヴィトンは日本ではフランスへの憧れをくすぐって徹底的にフランスらしさを演出して成功した。ルイ・ヴィトンの売上の中でフランスの消費者が占める割合はごく小さく(フランスのエリートはブランドを避けたがる)、ルイ・ヴィトンの製品の多くはインドで生産されているが日本向けのカバン類はフランスのイメージを保つためにフランス国内で生産されている(172〜173ページ)。アップルのiTunesの使用許諾契約書には、iPhone、iBookの現在地を常時アップルが把握すること、アップルがその情報を第三者を分け合うことが記載されている(308〜309ページ)。といったような、様々なメーカーの手口が紹介されているのが、とても興味深いところです。
 大企業の手口の他にも、興味深い話が多々あります。ジャンクフードの中毒性について、高脂肪、高カロリー食品はコカインやヘロインと似た影響を脳に及ぼし、ラットへでの実験ではコカインやヘロインによるドーパミン受容体減少は2日で正常に復帰したのに対し肥満体ラットのドーパミン受容体が元に戻るには2週間かかった、つまりジャンクフードの中毒作用はコカインより長く持続する(92〜93ページ)という恐ろしい話が紹介されています。全米の男性の15%は陰毛を剃っておりこれが流行し始めている(135ページ)とか。服を実際のサイズよりも小さめに表示して自分が細いサイズにフィットしたと思い込ませる「うぬぼれサイズ」の策略が女性服には何年も前から使われてきたが、これが男性服にも用いられてきている(137〜138ページ)。大多数の人が20歳までに聴いた音楽を生涯愛し続け35歳を過ぎると新しいスタイルのポップミュージックが流行っても95%の人は聞こうとせず、新しい体験に対して開かれた窓は23歳で閉じ、初めての料理を受け入れる開放性は39歳で完全に閉じる人が多い(183ページ)。う〜ん、確かに私は25歳くらいまでの歌しか覚えてない気がする。エコなどの社会的責任をうたう商品を購入する人は、たとえばオーガニックのハンバーガーを食べた後コークの空き缶を分別せずに捨てたり、他の面で無責任の行動を取りがちだとか(258〜259ページ)。こういうの、気をつけないと…。私たちの脳は誰かにいい情報を教わりそれを別の人に教えるとき快感物質であるドーパミンが分泌される(329〜330ページ)。人間は口コミが好きな動物ということですね。
 実験結果とかは実験条件などがほとんど書かれていないので信用性を吟味する必要がありそうですが、様々な点で興味深い情報が満載で、とても勉強になる本でした。

09.本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」 前泊博盛 創元社
 日米安保条約の陰に隠れてあまり注目されていないけれども米軍が自由に基地を利用し航空法を無視して危険な低空飛行訓練などを行い米兵が罪を犯してもほとんど処罰されない法律上の根拠となっている日米地位協定について解説した本。
 日米安保条約と日米地位協定(当初は日米行政協定)は、占領終結に伴うサンフランシスコ講和条約に際してアメリカが「我々が望む数の兵力を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保すること」を目的として(20ページ)定められ、安保条約は調印の前夜まで和文は存在せず、調印の2時間前に初めて全文が発表され、調印式の場所と時間が日本側に知らされたのは調印式の5時間前(54〜57ページ)だとか。日本国憲法が押しつけだと主張する人々が、これを押しつけだといわないのは全く理解できません。
 そして、日米地位協定により、首都東京を取り囲むように都心から30〜40km圏内に横田、座間、厚木、横須賀と米軍基地があり、関東甲信越一帯の上空をすっぽりと覆う巨大な「横田空域(横田ラプコン:RAPCON=radar approach control)」が米軍の管制下にあって民間航空機が極めて変則的な飛行を余儀なくされ、米軍機が墜落すると私有地でさえも米軍が直ちに制圧して日本人を全面排除するという専横がまかり通り(典型的には沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件:2004年8月13日)、米軍関係者には出入国管理法が適用されず出入国審査なく自由に米軍基地に直接発着し米軍基地のフェンスでの出入国審査がもちろんないため米軍関係者としてCIAなどのスパイも自由に日本に出入りできて政府ですら日本滞在のアメリカ人の数を把握できない、そして米兵は公務執行中と認められれば犯罪を犯しても日本には裁判権がなく公務外で犯罪を犯しても米軍基地に逃げ込んでしまえば起訴されるまで日本の捜査当局は身柄拘束できないという、信じがたいほどアメリカ側のやりたい放題のことが定められているとのことです。
 日米地位協定は、規定上は日米のいずれからでもいつでも改正の要請ができるのに外務省は一度として改正を求めたことがなく、また日米安保条約も1970年以降はいつでも一方的に終了させることができる(通告の1年後に失効)のに、普天間基地の県外移設を主張しただけで鳩山首相は交代させられ、他の政治家はそれさえも言えない情けない状態と、指摘されています。
 さらに驚くべきことは、2003年に米軍に占領されたイラクが同様の地位協定を締結するに当たり、米軍の撤退時期を明記し現実に撤退させ、イラクの領土・領海・領空を他国への攻撃のための出撃・通過地点として用いることはできない、米軍はイラクに大量破壊兵器を貯蔵せずイラク政府に貯蔵品の種類と数量の情報を提供する、イラク当局は米軍の立ち会いの下でコンテナを開けることを要請する権利がある、イラク当局は米軍基地から直接にイラクに入国しイラクから出国する米軍人と軍属の名簿を点検し確認する権利を持つという条項を米軍に飲ませている(201〜213ページ)ということです。米軍占領下で発足したマリキ政権なんてアメリカの傀儡だと思っていましたし、今でもそう思いますが、日本の政治家と役人なんてそれ以下の傀儡だったんだとわかります。米軍に完膚なきまでに敗北したイラクでさえ、地位協定で、日本政府が敗戦後70年近くたってもなお強いられている異常な米軍の支配を、最初からはねのけている。日本政府が受け入れている不平等条約である日米地位協定が、国際的に見てどれほど異常で屈辱的なものか、しみじみと実感できるではありませんか。
 米軍は、日本の本土でオスプレイも飛ばし放題、住宅地でも危険な低空飛行訓練をやりたい放題、CIAのスパイは入国審査も受けずに出入り自由、犯罪を犯した米兵が基地に逃げ込んだら日本の捜査当局は処罰もできない、米軍がその気になれば首都東京はすぐに制圧できる。尖閣諸島などが占領されるよりよほど国辱ものじゃないでしょうか。それでも尖閣諸島などには鋭敏に反応する政治家たちが米軍の専横を国辱的と指摘することは決してない。実にフシギです。
 なお、非核三原則の関係で、米軍が核搭載を否定も肯定もしないといわれて日本の政治家と役人は納得しているわけですが、ニュージーランド政府は否定も肯定もしないなら寄港させないという態度を取っていることも指摘されています(190〜191ページ)。
 米軍にこれほどやりたい放題にさせている国は日本くらいということでしょうか。
 この本では指摘されていませんが、巻末の日米地位協定全文を読んで、私の仕事柄気になったところでは、米軍とその販売所などの機関に雇用されている労働者が解雇され日本の裁判所等が解雇無効(労働者の地位確認)の結論を出して確定した場合、米軍側が労働者を就労させたくない場合は7日以内にそう通告して暫定的に就労を拒否でき、日米間で協議をし30日以内に解決できないときは労働者は就労できない(金銭解決する)と定められている(日米地位協定第12条第6項:352〜353ページ)ことです。どんなに不当な解雇でも米軍が復職させたくなければ復職させなくていいということなんですね。
 タイトルの「本当は憲法より大切な」は、まるで米軍や日本の政治家・役人側のスタンスに聞こえます。「本当は憲法より強い」とか「憲法より優先されている」とか「本当は憲法より押しつけの」とかの方が、関心を持つ人に届くのではないかと思います。

08.ビジネスメールの作法と新常識 杉山美奈子 アスキー新書
 業務用の電子メールの書き方などに関する解説書。
 大部分はある意味で当然の、コツというまでもない説明です。
 でも、宛先の表示はこちらのアドレスブック登録の名前やニックネームが反映されているという下り(24〜25ページ)は、ちょっとドッキリ。まじめに登録しないで「返信」や「全員に返信」しているうちに登録されていることが多いので、他人が登録した書き方で登録されていることが多くて、何人かに送るとき、敬称がついたりつかなかったり氏だけだったりバラバラな表示で違和感は感じてたのですが…
 一文は40字程度、箇条書き、返信は回答から…わかってはいるんですが、なかなか実践は伴わないんですね、これが。
 深夜・早朝の送信はマナー違反か(136ページ)という議論。最近は会社のメールを携帯やスマホに転送している人も増えている、オフタイムに仕事のメールを送るのは避けましょうとされていますが…でも、できた時に送っておかないと、翌朝送ろうでは忘れるんですね。

07.次の会議までに読んでおくように! モダンミーティング7つの原則 アル・ピタンパリ すばる舎
 やる必要のない会議をなくし、必要な会議は意思決定に関わることが本当に必要な少数者だけで事前準備を周到に行った上で素早く進行すべきということを論ずる本。
 この本の姿勢では、会議とは、ある問題について対立(反対意見)を明らかにしてそのことについて議論をした上で柔軟にその場で決定を行い、決定後は全員がその決定に従って協調し役割分担を定めた実現のための行動計画を作成するためにある、それ以外には会議は必要がない(会議とは別に、ありうるアイディアを出すためのブレインストーミングは必要)ということになります。基本的に、決定は、責任者が一人の責任で行い、会議はその責任者の意思決定のために反対意見の存在を明らかにし考慮事項を確認することと、その決定を関係者に納得させて実行のためのプラン作りをするためにあるということを前提にしています。つまり、決定はあくまでも役職者が一人で行う、会議体が決定を行うのではなく、責任者が「会議の場で」決定する、あるいは事前に決定して会議の場でそれを知らしめるという位置づけです。
 物議をかもすと予想できるときはメンバーと(会議の場ではなく)事前に個別に話し合って了承を取りつけておく(根回しですね)、終了時刻は必ず守る=締切があることで決断して前に進むことができる、時間をかけると取るに足りないことが蒸し返され疑問が多く出て来て決定できなくなる、その場での思いつきの受け答えを許さない、準備なしに参加した人は会議から外すなどが論じられています。
 トップダウンの効率第一の組織の場合、こういう考え方が成り立つかなという気がしますが、会議についての位置づけが違うと基本線で無理がありそう。
 「過去において、素晴らしい製品がコンセンサスから生み出されたためしはありません」「コンセンサスを重視することは、イノベーションを損なうことであることを忘れないようにするべきです」(190ページ)という指摘は、なるほどと思うのですが。

06.花咲家の人々 村山早紀 徳間文庫
 海辺の都市「風早」の駅前商店街にある古い屋敷の花屋「千草苑」とそこに併設された「カフェ千草」で暮らす花や草木の声を聞き願いを伝えられる魔法の力がある花咲家の人々を描いた短編連作小説。
 第1話はカフェ千草を切り盛りし週1度地元のFM局FM風早で番組を担当する美貌と美声の長女茉莉亜、第2話は草木にお願いして動かすことができその力で人を助けることが好きな高校生の次女りら子、第3話は花咲家にいながら魔法の力が使えないと悩む引っ込み思案な小学生の息子桂、第4話は10年前に妻に先立たれ子どもたちを支えながら生きてきた人間と花が大好きな植物園広報部長の50男草太郎らを中心に、花咲家のエピソードを綴っています。書き下ろしなのに、雑誌連載みたいな短編連作で、短編ごとに改めて紹介したりしています。
 父の草太郎は50代ということですが、中学生の頃AIWAのラジカセを買ったとか、10代で冨田勲の「惑星」をカセットテープがすり切れるほど聞いたなど、1960年生まれの私には懐かしい設定です。1963年生まれの作者が、おそらくは自分と同じ年代設定をしているのでしょう。
 登場人物が、みんないい人で、いやなことが出て来ず、心が温まるエピソードばかりが並んでいます。心が疲れているときでも、お子様とでも、安心して読めるタイプのライトファンタジーです。

05.ユーロ消滅? ドイツ化するヨーロッパへの警告 ウルリッヒ・ベック 岩波書店
 ユーロ危機とギリシャやイタリア、スペインなどの救済プログラムを通じて、経済財政問題が最大の問題とされ、ドイツがヨーロッパの教師として力を持ちそのように振る舞う姿を、ドイツの社会学者である著者が分析評価するとともに、経済問題にのみ目を向けるのではなく政治と社会の問題として欧州の連帯を考え強化してゆくべきことを論じた本。
 EUがかつての敵国を良き隣人とし独裁政権を安定した民主制に移行させ市民に政治的自由と高い生活水準を享受させている世界最大の市場・通商ブロックであるという成功した側面を忘れてはならず、もしEU前に逆戻りするとしたらどうなるか、そのようなことに耐えられるのかが問題提起され、それを忘れて経済・財政的危機を語ることを戒めています。ここ数十年の大きなできごと(チェルノブイリ原発事故、9.11、気候変動、ユーロ危機など)は起こる前には想定もできず、その結果・影響がグローバルなもので、「リスク社会」「拡大する非知」、すなわち明日起こるかもしれないカタストロフィを今日永遠に予期し続ける(原発は爆発するかもしれない、金融市場は暴落するかもしれない)仮定が常態と化す社会が、現在の西洋社会の特質となっている、その混乱した脅威が巻き起こす感情が権力を集中させ憲法と民主主義のルールが気にかけられなくなるということが指摘されています。後者は、ヨーロッパに限ったことではなく、危機を煽り排外主義的な感情をかき立てたがる政治家や官僚たちが危機管理の名の下に権力を集中したがる様子を、どこの国であれ注意すべきでしょう。
 「アテネだけでなく、ヨーロッパ中どこでも、『富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む』という下から上への再分配を主導する危機管理政策への抵抗が広がっている」(10ページ)という指摘には、思わず膝を打ちました。そう、新自由主義を考えるときに、いつもストンと落ちなかったのは、新自由主義者が自己責任を語るのは貧者に対してだけで、富豪と銀行には新自由主義は適用されていないことです。かつて国家はむき出しの資本主義から社会的弱者を守る制度を創り、富める者から取った税金を貧者に再分配していた、少なくともそうすべきと考えられていたのに、今では貧者に対してはむき出しの弱肉強食を強いておきながら貧しき者から取った税金を企業に再分配して強者を助けている(例えば消費税を増税するとともに法人税を減税するとか、銀行や東京電力に税金を際限なくつぎ込んで救済するといったように)わけです。こういうことをやる連中は庶民から愛国心を失わせるだけだと思うのですが。
 学問的なモデルなどの議論が取っつきにくいですが、EUという試みの価値と政治家と市民、債権者と債務者などの亀裂と双方の視点への考察が、私たちには東アジアや日本では?という思考のきっかけともなり、示唆に富む本だと思います。

04.こんなに怖い鼻づまり! 黄川田徹 ちくま新書
 鼻づまりによる睡眠障害やそれに起因する子どもの発達障害のリスクと著者が独自に開発した手術とあるべき治療法についての著者の考えを解説する本。
 鼻づまりの説明の前提として、呼吸器としての鼻の機能の説明が勉強になりました。鼻腔の粘液層とその下の線毛運動により微粒子を喉に送り込む濾過機能、突起状の鼻甲介により空気の通り道を狭め鼻粘膜との接触で吸気を加温加湿して肺胞を守る加温・加湿機能、吸気中の酸素が効率よく血液中に拡散できるように吸気の流量を絞る抵抗器としての機能、肺血管を拡張させて酸素の血液への取り込みを促進する一酸化窒素産生機能などがあり、その機能を果たしやすくするために鼻腔粘膜は海綿静脈洞を持つ「静脈性勃起組織」となっていてちょっとしたことで膨らんでしまう、つまり元々腫れやすいのだそうです(25〜36ページ)。
 私自身、子どもの頃、慢性的な鼻づまりでよく眠れなかったりそれでイライラしているところがありましたので、鼻づまりが睡眠障害につながり、鼻づまりが解消できれば日常生活が大幅に改善できるという著者の主張はよくわかります。幸い私自身は成長に伴い自然に症状がなくなったのでよかったのですが、ずっと続いていたらこういう本は地獄に仏と見えたかもしれません。また、投薬について副腎皮質ホルモン点鼻薬は鼻づまり症状の改善に効果があるが他の投薬は効果がほとんど見られないことを明言していることや、これまでの手術は患者の負担が大きいのにほとんど効果がないことを指摘していることも、医師のかばい合い的な姿勢を排除していて、門外漢としては好感できます。
 著者が独自に開発し、推奨する後鼻神経切断術については、日帰り手術が可能なほど患者の負担が少なく、劇的な効果があると紹介されており、その通りとすれば画期的な治療法なのでしょうけれども、鼻腔粘膜自体が腫れやすい性質を持っていてそれは鼻の呼吸器としての機能を果たすためだとすると、神経を切断することで腫れなくすることは本当に弊害がないことなのか、素人目には気になるところです。この本全体の構成が、「患者の声」を紹介して、著者が独自に開発した手術を推奨するという、開業医である著者の営業・広告的な匂いが強いものとなっていて、そこがどうしても引っかかる本です。

03.火口のふたり 白石一文 河出書房新社
 かつて一つ屋根の下で兄妹のように暮らしていた従妹と東京で淫蕩な生活を続けた後に勤務先の銀行の取引先の娘と結婚したもののバーのママとの浮気が発覚して離婚され勤務先にも居づらくなって辞め自営業に転じたものの借金まみれで倒産間際の41歳男永原賢治が、従妹の結婚式に出るために郷里の福岡に戻り、結婚前の36歳の従妹直子と過ごすうちに焼けぼっくいに火がつくという中年恋愛小説。
 初出が「文藝」なんですが、男性週刊誌とか昔のスポーツ新聞連載の官能小説ような濡れ場の頻度で、人前で読むのはかなり恥ずかしい。
 次々と女性と深い関係になりのめり込みながら、立ち去られてみて相手のことをよくわかっていなかったと認識するということを繰り返す主人公のうかつさ、学習能力のなさ、別の女とできたらすぐに見破られるバレバレさ加減とか、だめだなぁと読んでいるぶんには思うのですが、きっと私も当事者になったら笑えないんだろうなとも思ってしまいます。そして、こういう生活をして見たかったなという思いとそういう勇気というか破滅志向と開き直りは持ち得なかっただろうという思いが交錯します。そういう意味では、中年男の恋愛アドベンチャー小説なのかも。災害の予感を背景とした退廃的気分でそれを正当化しようとしているところは、ちょっといじましくもの悲しい感じがしますけど。

02.ならずものがやってくる ジェニファー・イーガン 早川書房
 盗癖のある35歳のサーシャ、サーシャを秘書としている44歳の性的欲求の喪失に脅えるレコード会社社長のベニー、高校生のときベニーとバンド仲間だったレア、レアの友人のジョスリンの恋人だったルーが離婚後に若い愛人と子どもたちとともに行ったサファリツァー、病床のルーをレアとともに見舞う43歳のジョスリン、ルーの弟子となって成功したベニーを訪れたかつてのバンド仲間スコッティ、ベニーと別れる前の妻ステファニー、かつてのステファニーの上司で今は独裁者のコンサルタントとなったドリー、ドリーが独裁者の恋人を装わせた女優キティ・ジャクソンをかつて取材中に押し倒したフリーランス記者でステファニーの兄のジュールズ・ジョーンズ、学生時代のサーシャに思いを寄せていたロバート・フリーマン、大学に行く前にナポリで放浪していたサーシャを探す叔父のテッド・ホランダー、未来において学生時代の恋人と結局結婚したサーシャの娘アリソン、未来にレコード会社をクビになったベニーにミキサーとして雇ってもらおうと掛け合う35歳のサーシャと一夜だけの関係を持ったことがあるアレックスのエピソードを連ねた短編連作小説。
 扉見返しの「ピュリツァー賞受賞」「アメリカ文学界を席巻した傑作長編。」とあるのに惹かれて読んだのですが、長編小説として読むのは避けた方がいいでしょう。13のそれぞれのセクションは、上記のように絡み合うものの別の人物の人生のある局面を断片的に記したもので、それを総合することで「ベニーとサーシャがたどる人生」を確かに把握はできるのですが、それを読み解いたり味わうことは難しいように思えます。語り口や手法を変えたそれぞれのエピソードの構成は、実験的でもあり、そういった試みの新しさを快く思う人にはよいかもしれませんが、ストーリーのある小説として読もうとする読者には、ストーリーを進ませないで紙幅を稼ぐように見える心理描写が多く、それが多数の登場人物についてなされるため結局主人公の人物像・メインストーリーにつながらず、冗長でめんどうで退屈に思えるのではないかと感じました。
 タイトルになっている「ならずもの」は、読後の印象としては、時の経過で避けられない老いと、それをそうでもないさとノスタルジックな感傷とあわせて見るような趣です。それがトータルとしては作品の印象になっており、読み終わってから振り返ると、1つの作品だなぁと思えはするのですが。

01.境界を生きる 性と生のはざまで 毎日新聞「境界を生きる」取材班 毎日新聞社
 性染色体と生殖器が一致しなかったり性染色体が男(XY)女(XX)の中間的なものだったりで生物学的な性が判定しにくい性分化疾患のケースや、生物学的な性ははっきりしているがそれと心の性が異なる性同一性障害やトランスジェンダーの人々をめぐる状況を報じた毎日新聞の連載記事を単行本化した本。
 医療現場での話でさえ、約1万8000人に1人と発生頻度の高い先天性副腎過形成では外性器から男女の区別がつけにくいこともあり1980年頃までの性別決定の約15%が誤りだったとも言われている(51ページ)、専門医でも治療方針の判断が容易でないケースが少なくない、この疾患なら男性、これなら女性にするのが正しいという100%の正答がない(56ページ)、そもそも赤ちゃんに最初に接する産婦人科医や小児科医に性分化疾患はまだ十分に知られていないのが現状なのだ(60〜61ページ)、専門医が少ないのは性分化疾患は時間をかけて患者の心と向き合わなければならないため医師が敬遠しがちなのではないか(63ページ)といった寂しい状況が指摘されています。
 もう今から30年以上も前の学生の頃(1979年)、「性の署名」という本で、性は男女だけではなくてその中間的な形態が無数にある、署名と同様に一人一人が違っていいというのを読んで目からウロコの思いをしたことを覚えています。「性の署名」については様々な反撃があり、書かれている事例などの正しさにはかなりの攻撃がなされましたが、少なくとも男か女かの2分法でことが済まない、2分法でなくていいじゃないかという考え方は先見の明であったと、今も思っています。しかし、社会では、その後も厳然たる2分法が生き続けていて、この本で報じられているような性分化疾患や性同一性障害の人たちの生きにくさが維持・再生産されています。
 前半で紹介されている、子どもの頃、そして思春期に性分化疾患を知らされたり自分の心の違和感に悩まされている人たちの事例は、読んでいて涙ぐんでしまいます。おそらくは、男か女かの判別を迫り続ける社会の圧力の下、密かに命を絶ったり誰にも相談できずにいる人が多数いて、性分化疾患や性同一性障害の人は意外に多数いるのではないかと思います。そういう人も含めた性的マイノリティが生きやすい社会にしていかねばならないということを改めて感じました。

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