庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2014年7月

06.快楽 青山七恵 講談社
 少年時代から魅力のない外見にコンプレックスを持ち「魅力的な男のムード」を得るために勉学に励んで経済力と人脈を得て美貌の妻耀子を迎えたが裸にして見るとそそられず寒々しい性交しかできないと不満に思って手当たり次第に不倫にいそしむと共に耀子を自分の知人の男と交わらせてみたいという欲求を持つ榊慎司が、女たちから常々誘いを受けるイケメンで食べることに執着するカフェ経営者小谷徳史とグラマーだが見劣りする容貌でそこにコンプレックスを持つ妻芙祐子をベニス旅行に招待するという設定で、その駆け引きと4人のベニスでの思惑と不機嫌な感情と欲望を描いた小説。
 経済力を持つ夫を得て贅沢三昧の生活をしている皆が振り返る美貌の耀子は、少女時代のレイプと言うべき暴力的なセックスへの熱い思いに回帰し、他の男とのセックスには満足できず、夫とも寒々しい関係であきらめつつ、周囲を見下す存在と描かれています。イケメンで女たちに言い寄られ続けた徳史も食べることにしか興味がない無内容な人物と描かれていて、容貌にコンプレックスを持つ慎司の歪んだ欲望と芙祐子の羨望とフラストレーションを描きつつも羨望の対象となる二人の内面は実は虚しいという構図が見えるのですが、それにしても女性作者が描く主要な女性としては耀子には主体性や力強さがなさ過ぎるように思えました。
 一見普通そうなあるいは幸せそうに見える夫婦ないし人物のズレや歪みといったものを描いているのだと思いますが、人物設定や舞台設定が普通人の、いや私の感覚と環境からはずれているので現実感を持ちにくく、物語の中には入り込みにくい感じでした。

05.検証福島原発事故 官邸の一〇〇時間 木村英昭 岩波書店
 福島原発事故が起こった2011年3月11日から15日の5日間の官邸でのできごとややりとりを関係者への取材で再現した本。
 政府内で原子力の専門家として原発の安全性を語ってきた原子力安全・保安院や原子力安全委員会の連中が、事故に直面すると事故の予測や対策を示さず黙り込み逃げ回り、専門家の情報がないままに政治家が決断を迫られていった様子がよくわかります。とりわけ寺坂院長を始めとする保安院の頼りなさ・無責任ぶりは目を覆わんばかりで、何を聞いてもわかりませんばかり。「一体どうすればいいか。他の原子炉が、爆発した1号機のような事態にならないためには何をすればいいのか−。菅が求めたその問いに、平岡(保安院次長)、久木田(原子力安全委員会委員長代理)、川俣(東電原子力品質・安全部長)の三人から打つべき『次の一手』の提案は一切出なかった」「菅が日比野に零した。『一体全体、原子力の行政組織はどうなっているんだ。訳がわからんよ。保安院って一体何なんだ』」(156〜157ページ)など象徴的です。
 一つ一つの事実に細かく注を付けてニュースソースを示していて、新聞記者の裏取りがかなり周到に行われていることがよくわかります。本人が自分の発言と知られることを拒否している場合にはニュースソースの属性と拒否理由が示されていますが、政治家はほぼ実名で話しているのに、官僚と東電は多くがオフレコ。自分の責任できちんと事実を語れない人たちが多いことが気になります。東電のオフレコ発言者については、「東電側が反論等をしてきた場合、取材源を明示すると共に、取材に応じた経緯や状況、詳細なやりとりを公にする用意がある」と書かれていて、著者の力の入り具合、東電からの圧力が垣間見えます。
 大まかには知っていた流れではありますが、具体的な根拠(ニュースソース)を示して個別のやりとりが詳細に書かれているのを読むと改めて事故対応の緊迫感、事故に至った原発の制御不能・対策のなさ、専門家を名乗る連中と官僚の無責任と無能ぶりを実感します。こういう人たちが、政権が代わるとまた大手を振って出て来て原発再稼働に奔走する今、こういう連中の口車に乗るとどうなるのかと暗澹たる思いです。

04.遺伝子の帝国 DNAが人の未来を左右する日 カトリーヌ・ブルガン、ピエール・ダルリュ 中央公論新社
 DNAの利用について、指紋等に代わる個人識別の方法として犯罪捜査等のために進められているDNAのデータベース化(第1章名探偵DNA)、DNAから個人の人物像を描き出し捜査に利用(DNAプロファイリング)したり性格的特徴を予想する(第2章肖像画家DNA)、DNAから祖先の居住地域や民族的人種的出自を割り出す(第3章系図学者DNA)、遺伝子の変異による疾病に対する遺伝子治療や遺伝性疾患の事前予想・出生前診断(第4章医師DNA)の4つの側面から、推進する人々の期待・思惑・商業的利益とDNA研究の実情と限界・問題点を論じる本。
 著者の立場は、「科学者の社会的な役割は、生物の複雑さをごまかして、自分たちの能力以上のことを吹聴しながら大衆に夢を見させる(お金を払わせる)ことではない。われわれ科学者の責務は、『一〇年後の科学ができるようになることなんて、一体誰にわかるだろう』という、単純にしてやむことのない疑いを一掃してしまうのではなく、自分たちの最新の知識を、正直に詳しく伝えることだ。」(176ページ)という言葉によく表れています。
 DNA型データベースは登録者が拡大され続けているが、犯罪捜査に役立っているかは実際のところ評価できず(捜査で見つかった持ち主不明の遺留DNAと容疑者のDNAの一致は直接比較すれば足りデータベースはいらない。データベースが犯罪捜査に本当に役立つ場合は、捜査線上に浮かんでいなかったデータベースに登録されている人物と一致した場合等に限られるが、そういうケースに限った数字は発表されない)、他方DNA型データベースはゲノムの非翻訳領域のマーカーを用いているので個人識別以外の遺伝的特徴は知ることはできないとされてきたが研究の進展により今まで個人識別以外に何の役にも立たないと紹介されてきた塩基配列から生体機能や医学上の情報を入手できるようになると予測されており、個人識別の精度を上げるためにマーカーが増やされていることと登録者が増えていることを考慮すると漏洩したときのリスクが大きくなっていることが指摘されています。そして、他方において、イギリスではデータベースの構築により、「犯行現場からDNAの痕跡が見つからない事件の場合、捜査効率への配慮から、警察は捜査に積極的に取り組まなくなる」ことが指摘されているそうです(58ページ)。
 遺伝子治療も、その疾病が「治った」場合でも代わりに白血病になったり、発癌に至っていないものの癌と関係があるタンパク質が過剰に生産される傾向が確認されたりしており(175ページ)、遺伝子検査で発病や発病のリスクがわかっても治療法は遺伝子治療以前からのものでヒトゲノム解読の効果とは関係がない(179〜180ページ、219ページ等)など、過大に宣伝されていると、著者は評価しています。むしろ、平均よりも遺伝的リスクが低いと評価された者は、安心して公衆衛生の一般的施策(適当な運動、バランスの取れた食事、定期健康診断等)など自分にはもはや関係ないと思うかも知れないというマイナスも懸念されます(219ページ)。
 ゲノム・遺伝子の偏重は、環境や人の努力を無意味なものと感じさせ、まるですべてが遺伝子により生物学的に決定された宿命であるという意識を強め、そして遺伝子的に近い者との紐帯が運命的必然的なものという国粋的・民族的・優生学的な傾向へとつながりがちです。ゲノムを商業的・利権的に推進したい企業・学者たちと、支配の道具としたい官僚たちのゲノム称揚・誇大宣伝に踊らされずに、その実態と限界、問題点を見据えていきたいものです。
 なお、15のコラムが挿入されていますが、これが著者ではなく訳者が書いたものであることが訳者あとがきの最後の方で明かされます。読みながら日本のことが書かれていたりするので変だなぁと思いましたが、そういうことは訳者あとがきではなく、最初の方で断っておくべきだと思います。

03.官能教育 私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか 植島啓司 幻冬舎新書
 一夫一妻制度の制約から逃れて多くの(複数の)人と性的に親密な関係をより軽く結ぶことを目指して、一夫一妻制度が人類の歴史上つい最近の短い期間に欧米などの狭い社会で採用された例外的な制度であると論じ、不倫をするのが人間であり誰にとっても不倫は避けられないのかも知れない、不倫を禁じる倫理の方に問題があると主張する本。
 一夫一妻制が例外的と論じるところでも、その手の議論にありがちな自分の主張に合う例をつまみ食い的に寄せ集めた感があり、本の全体的な構成も、あまり体系的ではなく、堅苦しい関係じゃなくもっと自由にいろいろな人といい関係になろうよという観点から悪い例といい例を並べたエッセイという感じです。
 著者はこの本の最終章のテーマ/タイトルを「セックスに対抗するにはキスしかない」としているのですが、それが「いったん性行為にまで至ると、キスで心をふるわせることはなくなってしまう」(163ページ)、「恋愛を長いレンジで考えると、そのもっとも好ましい果汁がいっぱいのときを代表するのがキスであり、セックスは二人の関係がもはや引き返せなくなるところに位置している。」(175ページ)ためであるとしたら、それはセックスをゴールと考えるまたひとつのセックス至上主義ではないかという気がします。著者の主張の指向性からすれば、親密な関係やときめきこそがゴールでありまた目指すべきピークであって、セックスがその前にあるか後にあるかはむしろ重要でないという方がすっきりするように思えるのですが。
 92ページで引用されている世界各国のセックス頻度と性生活満足度調査、どれくらいの標本数と年齢層でどういう調査方法だったのかがまったく説明されていないのでどう評価していいのか疑問は残りますが、年間セックス頻度が世界平均103回、日本は調査対象41か国中ダントツの最下位で45回(最高はギリシャで138回、年間70回以下は日本だけ)、性生活に満足している( I'm happy with my sex life )人が日本では24%で中国に次いで下から2番目(世界平均は44%)というのは、ちょっとすごい。日本の文化は、性的関係について、世界標準から見てかなり抑圧的・否定的ということなのでしょうか。

02.裁判員への説得技法 法廷で人の心を動かす心理学 C・B・アンダーソン 北大路書房
 アメリカの陪審制度の下で陪審員がいかに証拠に基づかず無意識のうちに誤った判断をするかを心理学的に説明し、弁護士がいかにしてそれを乗り越えるべきかを論じる本。
 民事事件でも陪審があるアメリカでは、陪審員は原告が重大な被害を受けたことを知ると自分も同じような被害を受けるという考えを恐れ自分は被害にあわないと信じたいがためにとりわけ被告が故意に加害した場合でなければ(過失の場合には)原告に問題があった(本来なら被害を回避できた)と考えがちであり、また事件後ですべてを知っている(後知恵がある)ために自分ならこうできたと過大に考える傾向があり、早い段階で事件の枠組を判断してしまい安心したい欲求があるために最初に話題になった者を裁きたがる(あら探しをする)傾向があり、その結果、人身被害を受けて損害賠償を求める原告は不利な立場にあり、特に相手が医師などの専門家の場合陪審員は専門家はミスを犯さないと思いやすい(自分がかかる医師がミスを犯して欲しくない)こともあり、弁護士が冒頭陳述を原告が受けた被害の深刻さから始めると負ける可能性が高いと論じられています。大企業が巨額の損害賠償を命じられる判決ばかりが報道されるので、人身被害の裁判では原告(被害者)が有利なのかと思っていました。ちょっと目からウロコでした。まぁ、報道というのは珍しいからニュースになるわけで、報道からもそう考えるべきだったのかも知れませんが。
 「陪審員たちは、通常の出来事や結果は、一般的な原因から起こり、異常な出来事や結果には、異常あるいは例外的な原因があるというように思い込んでいる。陪審員は、その原因についての説明が、彼らの人生経験においては『代表的』なものではなかったというだけの理由で、彼らにとって非典型的、あるいは異常に見えるすべての因果関係説明を拒む傾向にある。」(167ページ)…程度問題はありますが、日本の裁判官の思考パターンにも、こういう傾向はあるように思えます。
 「陪審員は、事実とは関係なく、何が起こったのかについての詳細な説明が、より特徴のない一般的な説明よりも、より正確であるというように思い込む傾向にある。」(188ページ)。日本の裁判官も(事実とは関係なくとは言いませんが)、証言や陳述書の信用性を判断するときに、より詳細で具体的な方が信用できると考える傾向にあります。裁判官が業界紙のインタビューや講演や論文でそう語るのを何度も目にしています。その点では、むしろ著者が「しかし、詳細さは、ときに正確さと反比例の関係にある場合がある。想像力の方が極めて豊かであるため、我々は、それと同じくらい鮮明かつ詳細に現実を記録していると思いがちである。しかし、そうではない。ある出来事についての我々の記憶は、その出来事自体よりも一般的で漠然としたものであり、それは目撃証人においても同様なのである。たとえば、刑事事件で、証人が『被告人は、店に強盗に入った』と証言することは、証人が『被告人は、ダイエットペプシ1本とミルクダッツ1箱を盗んだ』と証言することよりも、説明が真実らしくないと、陪審員は考える可能性が高い。現実的にいえば、ソーダとキャンディに注目していた証人は、おそらく犯人の顔には注目しておらず、犯人の識別については誤りを犯す可能性がある。それにもかかわらず、鮮明な説明は陪審にとってより説得力があるものとなる。なぜなら、加えられた詳細情報によって、陪審員は、実際以上によく見ていたと思うからである。」(188ページ)と指摘していることの方が新発見でした。
 日本での応用の仕方は単純ではないと思いますが、人の説得を仕事とする者として、いろいろと考える材料を与えてくれる本でした。私にはとても興味深く、第4章以降は夢中になって読みました。私たちの業界の人間以外は、そこまでの興味は持ちにくいとは思いますが。
 なお、175ページ下から4行目の「呼び尋問」は「予備尋問」の変換ミスだと思います。

01.わりなき恋 岸惠子 幻冬舎
 パリと横浜で二重生活をする世界を股にかけるドキュメンタリー系の放送作家伊奈笙子が、69歳の時にパリに向かう便のファーストクラスで隣り合った12才年下のエリートビジネスマン九鬼兼太と不倫の恋をし、けんかをしたり仲直りしたりしながらずるずると6年を過ごす老人恋愛小説。
 妻子ある相手と知りながら、相手の家庭を壊すなど考えもしないし望まないと思いつつ関係を始めたはずの伊奈笙子が、九鬼兼太から家庭を壊す気はないと言われたり家族のことが語られる度に不機嫌になり、楽しいはずの逢瀬が険悪になって台無しになるというシーンが度々描かれています。強がり言ってもやはり不倫/日陰の立場には耐えられない、結局女にとって不倫の関係は一つも得にならないということを作者は言いたいのでしょうか。少なくとも、仕事で成功し自立した女と描かれている伊奈笙子が、その恋愛観において輝きを見せているようには見えません。
 九鬼兼太についても、伊奈笙子についても、突然不機嫌になる場面があり、感情の流れが読みにくいところが多々見られますし、険悪になった関係がいつの間にか修復している場面が度々あるのですが、どのようなことがあってとか感情面でどう整理して仲直りしていったのかがわからないことが多いです。実生活の場面では、喧嘩し続けることへの疲れや生活上の都合から何となく修復したり、時が解決する場面が多いと思いますが、小説として読むときには、それではぶつ切り感・唐突感があります。そういうところをもう少し補って描いて欲しいと思います。
 70歳の伊奈笙子が、十数年ぶりに性交するというシーンに興味を惹かれます。「侵入してきた九鬼兼太を受け入れながらも激痛が走った。固く閉じたオブジェの扉は開くことができないでただ裂けた、ように笙子は感じた。」(85ページ)と描いた後、婦人科医の解説で「女は閉経の後、ま、早く言えば水気がなくなります。それでも女として、十分潤っている人もいれば、そんなことに関心さえない女性の場合は、分かりやすく言えば干上がってしまうんです。」(95ページ)、「個人差はあるけれど、女性はカップルとして健全な生活をしていても、五十代半ばですでに子宮や膣が萎縮して潤いがなくなる人もいるし、七十を超えても豊かな人もたまにはいます。かと思うと、膣の皮膚が薄くなって性交時に出血することもあります。」(96ページ)などと言わせています。70歳でできるのもすごいと思いますけど、使わないから退化するというだけじゃなくて使ってても衰えることもあるというのですね。

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