庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2016年5月

28.羽田空港で働く。ANAエアポートサービスのすべて イカロスMOOK イカロス出版社
 ANA(全日空)の羽田空港でのオペレーション業務を統合したANAエアポートサービス株式会社の業務の紹介をし、羽田空港での働きがいを語ってリクルートにつなげようという企業紹介ヨイショ本。
 就活上の興味がない読者にとっては、羽田空港のオペレーションを支える人々、職種、特殊車両等の機械類の紹介と写真、特に空港の駐機スポットまわりの写真が見どころです。
 羽田空港で働くスタッフの責任感、プライドが強調されています。もちろん、人命に関わることがある業務ですし、公共交通機関に関わる業務ですから、強い責任感とプライドを持って働いて欲しいと思いますが、労働側の弁護士の目には、その重い責任を負う労働者が、どのような変則的で厳しい労働条件で働かされているのか、どのような待遇を受けているのかが、とても気になります。一番最後に2017年度採用正社員募集要項が記載されていますが、給与の記載や交替制勤務(早朝・深夜・夜勤あり)に関する記載はカットされています。ANAエアポートサービスのネット上の募集要項には書かれていることでさえ。
 現実には男性中心の業務にも、写真では女性の労働者を当てたがる。「コックピット内で活躍!『ブレーキマン』」という囲み記事(24ページ)では、「ブレーキマン」の写真は女性。もし女性が普通に就業しているなら、今どき「ブレーキマン」なんて呼称が生きているとは思えません。こういうところに職場の実態を偽ろうというさもしい根性が見えます。
 2016年1月13日に行われた「空港カスタマーズサービススキルコンテスト」で妊婦がグランプリに輝き、マタニティ制服姿の写真が掲載されている(62ページ)のは、JALのCA(客室乗務員)への休職命令でマタハラ訴訟が起こされているのに対するエクスキューズないしは、我が社はJALとは違うというアピールでしょうか。

27.蜃気楼のすべて! 日本蜃気楼協議会 草思社
 蜃気楼の原理、発生場所毎の観察スポットや見え方、研究の現状等を解説する本。
 下部が低温、上部が高温の逆転層ができたときに、空気中の光速が密度が低い(高温)部分で速く密度が高い(低温)部分で遅くなることから遠方からの光線が下向きに曲がり通常時よりも上から目に入ることになるために、遠方のものが上に伸び上がって見えるために蜃気楼が発生する、と説明されると、なるほどと思います。逆に下側が高温だと遠方からの光線が上向きに曲げられて下から目に入り下に遠方の景色が見える、それがアスファルトの道路が熱くなると「逃げ水」が見える原理とも。
 それを実験で見せるのに、砂糖水(密度が高い)を下側に注入した水槽を通して景色を見ると一番簡単に再現できるというのも、言われればなるほどと思います。
 でも逆転層が生じればいつも蜃気楼が見えるわけでもなく、蜃気楼の名所(例えば魚津)で逆転層が生じるメカニズムもまだ十分わかっていないそうです(魚津について、よく言われてきた雪解け水が流れ込んで海表面の水温が下がるためというのは間違いで、実は高温の大気が移流してくるのだけれどもどういうメカニズムで高温の大気が移流するのかは未解明だそうです)。蜃気楼の研究自体が、定点カメラ等の技術が進んだごく最近になって本格的に始まったばかりだとか。
 水平線に沈む太陽が歪んで四角く見えることがあるのも、蜃気楼と同じ現象なのですね。

26.なにもないことが多すぎる 片山恭一 小学館
 「世界の中心で、愛をさけぶ」の片山恭一の最新作。
 高1のときにバンドを組んだ、ボブ・ディラン信者の「ぼく」とショージ、マルクス、史郎が、高1のときのバンドと島での野外演奏の後、原因不明の男性ばかりが罹る病気のためにショージが先に死に、他の3人が同じ病院に入院して19歳で死の影がちらつく中で「ぼく」が病院生活のあれこれを語る章と、「ジョー・パブリック」と称する正体不明の人物の観念論的な語りの章を交互に重ね、両者がつながらないままにだらだらと続けられます。「ぼく」の語りは、状況説明に乏しく、リアリティにも欠けていますが、まぁ一応普通の小説しています。しかし、「ジョー・パブリック」の語る章では、何が言いたいのか、話の行き着く先も見えず、「ぼく」の章との連携もなく、語りもいかにも観念論で気取った文体であることもあり、読者の忍耐力を試す実験小説かという疑いを持ち続けました。「ジョー・パブリック」の語りに共感もできず早くこの章が終わって欲しいという思いで惰性でページを繰っていたため「ジョー・パブリック」の正体はなどという興味も持てませんでした。我慢して読み進むうちに、慣れはしましたが、それでも何を目的にこれを挟み続けているのか、私には理解できませんでした。「ジョー・パブリック」の正体に興味を持ち続けられる読者がどれだけいるのでしょう。そしてもしそういう読者がいたら、読み終わったときに失望感を持たずにいられるでしょうか。
 「ぼく」の語りパートだけでも観念的に過ぎるきらいがあるとはいえ、せめて「ぼく」のパートだけで完結してくれたら、最後の悟り的なものへの流れで、そこそこには共感できたかも知れないとも、思えましたが。

25.負け逃げ こざわたまこ 新潮社
 田舎の高校で、生まれつき右脚が不自由な教室では優等生の野口が夜は誰彼構わずセックスして車から放り出されるのを見た教室ではいつも1人ウォークマンを聴いている同級生田上の歪な感情、密かに漫画家を志望していたところクラスで浮いている鈍くさい美輝が自己陶酔的な漫画を密かに書いていることを知り批評を続ける真理子の優越感とやっかみ、同僚教師と不倫を続けつつ結婚を誓いながら成就しなかった過去の恋人の幻影に引きずられているさえない中年の生物教師ヒデジの閉塞感、優しく優秀だったが引きこもり後失踪した兄に複雑な思いを持ち続けクラスメイトとの交際に巧く入れないやんちゃな高校生小林の鬱屈した心情、飲んだくれキャバクラ嬢と浮気する夫と母親の作ったものを食べず口も聞いてくれない娘に悩み同僚教師との不倫に走る志村妙子の悲哀、心が通わない母に優等生の顔を見せながら誰彼構わずセックスを続けつつ不器用な同級生田上を気にかける野口の当惑、といった田舎から出たい/出られない/故郷に残るしかない/残りたい思いと諦めを載せたけだるい群像劇短編連載。
 冒頭の「僕の災い」の書き出し「野口は、この村いちばんのヤリマンだ。けれど僕は、野口とセックスしたことがない。」がとても印象的で刺さる。小説の書き出しの重要さを語る教材として、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」と並べてもいいかも (^^ゞ

24.警視庁情報官 濱嘉之 講談社文庫
 警視庁が秘密裡に開設した情報部門「警視庁情報室」の情報官黒田純一を主人公とする警察小説。
 シリーズ第5作まで出ているものの第1作なので、ハズレはないだろうと思って読んでみましたが、小説としては、ハズレでした。警視庁情報室の黒田純一が出社すると情報室を告発する怪文書が出回り、同時に世界平和教(この小説での位置づけからすると明らかに統一教会)への家宅捜索開始の情報が入るというプロローグは、普通に小説しています。しかし、その後は、ストーリー展開などどうでもよいと考えていると思われる、まるで警視庁情報室の沿革(社史)か黒田純一の伝記のように、布石も落ちも考えない昔語りが順を追って延々と続きます。プロローグに戻ってくるのは何と最終章第4章の終盤の341ページ。しかも、作者は黒田純一に自己を投影していると感じられるのですが、その黒田純一がとんでもなく有能・万能のエリートで、そのエリートが一切しくじらずそつなくエリート街道を進んでいき、周囲から賞賛され続けるというのは、小説ではなく、公安警察官としての作者の幻想/妄想を綴っているように思えます。このストーリーとしての面白さを考えず、自己を投影したエリートの成功妄想をひたすらに展開するという2つの点で、ストーリーテラーとしての意思を持たない者の文章を読み続けるのは、読書としては苦痛です。
 公安畑を歩んだ作者が、警視庁公安部の実情、ディテールを描いたという点では、その情報部分は興味深く参考になりますが、小説・娯楽作品として読むのには、無理があると思います。
 なお、「法務省記者クラブは通称『司法クラブ』と呼ばれ」(317ページ)とされていますが、私のおぼろげな記憶(もう20年あまり前の日弁連広報室時代の記憶ですが)では、「司法記者クラブ」は裁判所(東京高裁)所属の記者クラブで、法務省の記者クラブは「法曹記者クラブ」と呼ばれていたはずです。

22.23.落英 上下 黒川博行 幻冬舎文庫
 大阪府警本部薬物対策課の刑事2人が、覚醒剤の売人の捜査の過程で拳銃を発見し、それが迷宮入りしている殺人事件に使用された拳銃だと判明して、その殺人事件の専従捜査に投入されるという展開の警察小説。
 捜査1課の刑事ではなく、薬物対策課の刑事を主人公に据えたのが1つのアイディアなんでしょうが、裏表紙の紹介で想定される殺人事件のミステリーではなく、薬物対策系・暴力団対策系の警察官のアウトロー無頼小説です。主人公の桐尾自身、脅迫と暴力で売人を締め上げて検挙し続け、かつて自分が担当した事件の被疑者のヘルス嬢と関係を持ち続けているという、外れ者の、しかし大阪府警ならいかにもいそうな強面警察官です。それに後半登場する和歌山県警が持て余す外れ者警察官満井のはちゃめちゃぶりが合わさって、後半はどんどん危なく外れていきます。そのキャラクターの味わいと、外れっぷりが読みどころです。
 前半の地味な、しかし法的な建前からするとすでにかなりむちゃくちゃな捜査のスローペースな展開から、満井登場後の派手な無軌道ぶりへの変化で読ませています。ちょっと、前半のあまり動かない展開でページを取り過ぎているきらいがあり、もう少し早めに動かした方が読み物としてはよかったと思います。

21.仕事文具 土橋正 東洋経済新報社
 「ステーショナリーディレクター」「文具コンサルタント」(そんな仕事があるんですね)の著者が、仕事に使う文具商品を紹介し蘊蓄を語る本。
 「『仕事文具』と題したこの本では、仕事をさまざまなシーンに分け、その場面で便利に使える文具をセレクトして紹介している」(まえがき)というのですが、この「まえがき」前半で「このように私には、この作業をするにはこの文具、といった自分なりのルールがある」と言って書き出している著者お気に入りの文具のうち、( iPad touch は文具でないとして、また PEAK のルーペも文房具でないとしたとしても)パイロットの「カスタム823」太字万年筆と高橋書店のマンスリー手帳が紹介されていません。パイロットの「カスタム743」(144ページ)、ディーブロス・クリエイターズダイアリー(73ページ)、あたぼうスライド手帳(74ページ)、ロンド工房ブラウニー手帳(75ページ)、レイメイ藤井カードサイズダイアリー(76ページ)は紹介されているのに。雑誌連載をまとめたものだから、まえがきと齟齬が生じたのでしょうけれども、こう言ってはなんですが、私だったら、こういうまえがきをつけるなら雑誌連載時に紹介しなかったお気に入りは書き下ろしで追加します。そういうところが処理されていないのは、本作りがやっつけ仕事なのかなと感じてしまいます。
 カタログで読まされると、あれば便利というか、あぁこういう商品/機能が開発されているんだと驚いて欲しくなるという商品を紹介され、たいていはビックリするほど値段が高く、そこでまぁなくても困らないよねと思い直すことが多い本でした。

20.国税局資料調査課 佐藤弘幸 扶桑社
 「料調(リョウチョウ)」の略称で有名な国税局資料調査課(リョウチョウがすでに有名になってしまったため、国税局内では「コメ」と呼ばれているそうです)について、元国税局資料調査課所属の国税実査官が解説した本。
 サブタイトルは、「マルサを超える最強部隊の真実」。このあたり、国税職員間の対抗意識が感じられます。
 プロローグ(16〜29ページ)で紹介される、著者の行った税務調査の実例(をアレンジした)の説明が、一番興味深く読めます。同様の実例の話は、あとは最後の「第6章 調査事例 コメの現場から」に4例紹介されていますが、こちらは短くまとめられて抽象的であまり面白みがありません。最先端の課税逃れとその摘発は、高度な経済専門技が駆使されて、詳しく説明されても一般人には理解できないかもしれませんが。途中にも細切れのエピソードがありますが、どちらかというと行政官の苦労話/愚痴と行政の組織等の話が多くなっている印象です。それはそれで興味深いともいえますが。また、課税逃れを考えている人(初心者)には、「敵を知る」いい材料になるのかも知れませんが。そこにはあまり興味のない私には、読み物としては、プロロ−グの調子で、実例を次々紹介し続けてくれたら最高に面白いものになったと思うのですが。
 「事前調査の段階では客を装って店に入ることもある」「風俗店の場合は、運が悪いと性病をうつされることもある。文字通り過酷な現場だ。」(50ページ)…確かに過酷ですが、その事前調査で風俗店に行って性病をうつされるようなことをする費用はやはり自腹じゃないでしょうから、税金ですよね。

19.ひと目でわかる!モノの見分け方事典 ホームライフセミナー編 青春出版社
 「辛いシシトウの見分け方」「甘いミカンの見分け方」等の、トリビアと言うほど奥が深くない「見分け方」を、1項目1ページのイラスト+若干のコメントで説明する本。
 今読者の関心を最も惹くであろう「大震災でも安心 耐震性の高いマンションの見分け方」という項目で「見分けるカギとして有力なのが、1981年6月1日に施行された『新耐震基準』。震度6〜7クラスの地震でも、建物が倒壊しないくらいの強度を持つという証である。」(100ページ)って、何をどうやって見分けろと言ってるんだろう。1981年以降施工ならOKって言ってるんでしょうか。耐震偽装とか、杭打ち工事データ偽装とかの不正が発覚して、その耐震基準通りに作られていないマンションが相当数あることで、世間の人々が心配しているわけです。「耐震性の高いマンションの見分け方」なんてタイトルつけるなら、その「見分け方」を書かないで何の意味があるんでしょうか。
 「ポイントは4つ 電車ですぐ降りる人の見分け方」(154ページ)では、「寝ていない」「窓の外を気にしている」「スマホを手にしているが見ていない」とイラストに描き込まれています。でも、こういう態度を取りながらフェイントで降りない人、けっこういるように思えます。いかにも降りそうな態度で、性格悪いのが。

18.最新重要判例200労働法[第4版] 大内伸哉 弘文堂
 労働事件の著名判例を1判決1ページで紹介していく本。
 労働法を学ぶ/研究する人々、労働事件を取り扱う法律実務家には、日頃から労働判例を頭に入れておき、時々一気にレビューすることは、仕事がら有益です。しかし、通読するのは、性質上なかなかしんどく、といって仕事上の必要が生じたときに調べるという使い方には1判決1ページ程度の解説では物足りません。そういう意味では中途半端な出版物です。「最新重要判例」と銘打ちながら、掲載判例は201件中「昭和」が67件(33%)、1900年代が124件(62%)というのも、どこが「最新」だと言いたくなりますし(確かに新しい判決も入ってはいるのですが)。
 私にとっては、私とは立場を大きく異にする(例えば、国労バッジをつけたまま職務に就いた労働者を通常業務から外して火山灰の除去作業をやらせたという、私には組合嫌いの職制が嫌がらせでやらせたとしか思えないものを「職務管理上やむをえない措置」で適法な業務命令とする国鉄鹿児島自動車営業所事件最高裁判決を嬉々として1番目に持ってくるセンスとか)著者による判例の解説を読むことは、あぁこういう読み方をする人もいるというか、使用者側(反労働者側)はこういう理屈をつけようとするんだということの勉強になります(不当労働行為などでは、労働者側に寄ったと見える解説をしているものもありますが)。そういう意味で、判例の復習という面の他にも、私にとっては刺激になる読み物でした。

17.私立中学・高校生活指導の法律相談 八塚憲郎、山崎哲央、横松昌典編著 旬報社
 教員個人が損害賠償請求訴訟の被告とならない国公立学校とは異なる私立中学・高校の教員の立場から、学校で起こりうる事件・法律問題についてどう対処すべきかを、私立学校である海城中学高校教諭とその大学時代の親友と元教え子の弁護士たちとの間でのディスカッションやQ&Aの形式で説明し論じた本。
 ネットへの写真等の掲載、いじめ、生徒の通学途上の迷惑行為、退学処分、学校事故(生徒の死傷)について論じる第1部は、学校・教師側の現場の悩ましさが読み取れますが、しかしやはりどこか学校側の言い訳というか責任回避の姿勢がそこはかとなく匂います。私が決定的に違和感を持つのは、退学処分について犯罪を犯した生徒に関して「簡単にいえば、他の保護者が入学させたいと思わないような行為をした生徒については、学校としての秩序を維持し、正常な教育活動を生徒に対し保障する必要がありますので、名誉回復を図るためにも退学という選択肢を取らざるを得ないということになると思います」(100ページ)と、端的に言えば学校の名誉のために生徒を切り捨てることを当然の前提とする発想です。この発言をした弁護士は企業法務を中心とする(つまり企業・使用者側の)弁護士と「はじめに」(6ページ)で紹介されていますが、もっぱら労働者側で活動することを売りにしてきた旬報社がこのような出版をしていることを知ったのは、私には驚きです。日教組との絡みがあるのでしょうけれども、労働者側の者が経営側に回ったときの労働者側にいるときの言い分との食い違い・節操のなさには、いつもながら失望を禁じ得ません。労働者の業務外犯罪の場合、それが報道された場合であっても、懲戒事由に当たるとするためには、犯罪の性質及び情状(処罰の程度)、企業の業種や規模、労働者の地位などを総合考慮して、犯罪行為による会社の社会的評価に及ぼす悪影響が相当重大であると客観的に評価される場合でなければならないと、最高裁も言っています(日本鋼管事件)。教師の犯罪であれば、学校の社会的評価に影響を及ぼしやすいでしょうけれども、この最高裁の判断基準に当てはめたとき、一生徒の犯罪が学校の社会的評価に及ぼす悪影響が相当重大になるといえるかどうかは、かなり慎重に考えるべきことと考えます。教師の性的犯罪に関しては、裁判所の判断基準は厳しめですが、労働者側の弁護士の立場からはそうそう簡単に学校の名誉のための懲戒解雇を容認すべきではないだろうと思います。生徒の犯罪の場合、学校の社会的評価に及ぼす悪影響は、教師の場合よりも相当程度軽いはずです。労働側の立場で、この本のような安易な生徒切り捨てを容認することには、私は強い危惧を感じます。
 第2部のQ&Aで、生徒が傷害事件で少年鑑別所に収容中、「家庭裁判所から少年鑑別所にいる生徒に対しての面会や審判への出席を学校として求められたのですが、どのように対応すべきでしょうか」というQとそれに対して「また、面会や審判での生徒の様子をつかんでおくことは、その後の学校としての指導や処分をする際の貴重な材料になる場合もあると思われます」(179ページ)というAがあります。自分のクラスの生徒、自校の生徒が鑑別所に収容されたら心配じゃないのか、家裁から呼ばれなくても、普通、面会に行くんじゃないか、普通の企業でも逮捕の連絡があったら上司か同僚が面会に行くでしょ。Q&Aは「現場教員の問題意識と法律家とのすり合わせを踏まえたうえで構成している」(6ページ)と書かれていますが、家裁から呼ばれて初めて、行く必要があるのかという質問を持ち、それに対して今後の指導や「処分」のための情報収集のためにも行けと答えるというは、教育の場にいる者としてあまりにも心が貧しすぎないか、という疑念を持ちました。

16.魔術師の視線 本多孝好 新潮社
 週刊誌記者を辞めてビデオジャーナリストになり、その初仕事で発掘したネタと映像が、当時当初は勘の鋭い少女、後には超能力者としてテレビ局のマスコットになっていた11歳の少女諏訪礼をニセモノと暴き、後ろ盾になっていた元超能力者宮城大悟をも宮城が語った言葉をすべてカットして攻撃する番組に仕上げられることになって、後味の悪い思いをしていた楠瀬薫37歳の下に、その番組の頃に両親が離婚して母と2人暮らしになった諏訪礼が、最近ストーカーに追われているとして転がり込み、そこから楠瀬薫の周囲で事件が続き、楠瀬が週刊誌記者時代にスキャンダルを報じた政治家が大臣となったこととあわせ過去の事件の謎もクローズアップされ…という展開のミステリー小説。
 冒頭シーンで、かつて両親の離婚の際に親権の押し付け合いとなり一時児童養護施設に収容されてそこでまわりの人の様子を窺って育ったことから相手の言動を観察し分析することに長けているという設定の楠瀬薫が、取材相手の心理を事細かに分析する描写があり、これがタイトルの意味かと思わせています。そこが、巧いというべきなのか、伏線と見るべきなのか、目くらましというべきか。

15.あざむかれる知性 本や論文はどこまで正しいか 村上宣寛 ちくま新書
 世の中に研究論文は星の数ほどあるが、その研究結果がどれほど信頼できるかの評価をするには、実験計画で各種の要因を統制し統計的に多くの(別の)要因の影響をキャンセルして統制する必要があり、そういった配慮をしたランダム化比較試験をまとめたメタ分析をした研究論文(システマティック・レビュー)を読むのが科学の最先端の結論を手に入れる早道である(そうしない限りつまみ食い的評論に左右されて結論を見誤る)という立場から、ダイエット、健康、仕事、幸福の4つのテーマについて、著者がシステマティック・レビューを読んで得た結論を元に巷間流布されている俗説を叩き切るという趣向の読み物。
 精神病の判定について、ローゼンハンが行った実験の紹介(54〜55ページ)が、私には大変興味深く思えました。8名の参加者が12の精神病院を受診し「空っぽ」「うつろ」「ドスン」という声が聞こえると訴え、それ以外はふつうに振る舞ったところ、1人を除いて精神分裂病(統合失調症)と診断され、全員が入院を許可された、入院後は完全に普通に振る舞ったが誰一人医者、看護師、スタッフからは仮病と見抜かれなかった、他方(医師ではない)入院患者118名中35名はニセ患者と見抜いたというものです。しかも、自分の病院ではそのようなことは起こりえないと苦情を言ってきた病院に対してローゼンハンがこれから3か月以内にニセ患者を1人以上送り込むから判定して見ろと言って実際にはニセ患者を送らなかったところ、その病院のその後3か月の入院患者193名中1人以上のスタッフが自信を持ってニセ患者と判定した者が41名、精神科医と1名以上のスタッフが一致してニセ患者と判定した者が19名出たそうです。精神科医による精神病の判定がいかに誤診率が高いか、いい加減なものかということが、衝撃的なまでによくわかります。
 他にも、抗酸化サプリメント(ビタミン)の摂取は全体として死亡率に何ら影響を与えていないか、むしろ死亡率を押し上げている(110〜111ページ)、著者は長らくビタミンCをサプリメントとして摂っていたがこの研究結果を知り衝撃を受け摂取をやめた(111〜112ページ)とか、採用面接はまったく時間の無駄であり面接者は無能であるにもかかわらず無能であることを認めたがらないからむしろ面接を行わず人を見ないで知能検査・学力検査と性格検査で選抜した方がいい(144〜160ページ)など、興味深いエピソードが多数あります。
 それぞれの項目毎の記述が独立して、話の流れがあまりよくないところがあり、おそらくはトリビアとして書きためたものを並べて1冊にしたのだろうと思います。本の全体としてどうかということよりは、気に入ったエピソードを見つければいいという本だろうと思います。

14.東京ブラックアウト 若杉冽 講談社
 現職の霞が関官僚が福島原発事故後の原発再稼働に向けた電力会社と官僚・政治家の陰謀と癒着を描いた「原発ホワイトアウト」の続編。
 原発ホワイトアウトのラストで再稼働後の正月休暇中に発生した「新崎」原発事故の前に戻り、避難計画問題をめぐる省庁の縦割りでの押し付け合いと無責任をクローズアップし、事故時の避難計画についてろくに検討せずに再稼働のために都合のいいシナリオで押し通したことが、現実の事故時のパニックと事故の収束への障害となり破局的な事故へと進んでいく様子を描いています。
 しかし、この作品の真骨頂は、そういった事故対策、避難計画の不備への警告そのものではなく、それでもなお懲りずに原発推進だけを考える電力会社と推進官僚、政治家たちの厚顔無恥ぶりにあります。「新崎」原発事故で爆発で格納容器が吹き飛び福島原発事故以上、チェルノブイリ原発事故以上の史上最悪の事故に至ったその最中に、自らの家族の国外避難を最優先した上で、住民の被曝限度の切り上げ、計画停電の実施による電力不足キャンペーン、発送電分離の先延ばし、国政選挙での候補者対策、京都への遷都と遷都費用を原子力発電への課税によることとして原発の運転を確保、放射能汚染地域への使用済み核燃料の貯蔵施設の諸外国からの誘致といった原発推進策を密約する「日本電力連盟」常務理事と資源エネルギー庁次長のおぞましい姿が、この作品の象徴となります。
 原発ホワイトアウトの後、この作品が発表されるまでの間に、大飯原発の運転差し止めの判決が出ていますが、それでもこの作品では裁判のことはひと言も触れられていません。官僚にとっては、裁判所の判断などわずかばかりの重みもないということなんでしょうね。
 各章の冒頭に新聞記事等を配置し、福島原発事故後の現実世界のできごととリンクさせているのですが、これが記事の時期と小説中の進行とを紛らわしくしていて、ちょっと読むのに邪魔になる感じがします。
 役人の本音、驕り、その生態については、前作以上に生々しく描かれていますが、原発ホワイトアウトと続けて読むと、やはり二番煎じの印象が強く、今ひとつインパクトに欠ける感じでした。

12.13.証言拒否 リンカーン弁護士 上下 マイクル・コナリー 講談社文庫
 リンカーン弁護士シリーズの第4作
 第3作(邦題「判決破棄」)で敏腕弁護士ミッキー・ハラーが初めて検察側に立った1年後、ハラーは再びリンカーン後部座席での執務に戻ったが、事件が減り、銀行の住宅競売で追い出されようとする住宅ローン債務者の民事事件に手を広げるようになっていたところ、ハラーの依頼者で銀行と闘うグループのシンボルとなっていた元教師が対立する相手の銀行の副社長を殺害した容疑で逮捕され、その弁護をすることになるという展開です。
 今回、ハラーは、アソシエイト(勤務弁護士)を雇い、事務所を借り、リンカーン後部座席で執務する弁護士という初期設定から遊離していきます。
 冒頭での設定も、ミッキー・ハラーのような腕のいい弁護士でも、住宅競売を受けた住宅ローン債務者に広告とDMで営業をかけていかないと食えなくなるというあたり、同業者として身につまされます。
 シリーズ第4作まで、法廷シーンが中心となるストーリーを維持し、証人尋問での攻防を描き続けているのは、リーガル・ミステリー作家としても珍しいといえます。そのアイディアが続くことはリーガル・ミステリーファンには福音といえましょう。弁護士の立場で読んでも、証人尋問での見切りと踏み込みの微妙な判断の描写、追い込まれた時の弁護士の心理と発想の描写が素晴らしい。弁護士経験がない作者がこういうものを書けることには、驚嘆します。
 他方、この作品の終盤と終盤から読んだテーマは、弁護士の発想ではない。弁護士もこの作品のラストのハラーのようなダメージと嫌気に襲われることはあります(つきあう依頼者層によっては、「よくあります」かも)が、弁護士はこういうストーリーは、たぶん、書きたいとは思わない。やはりこういったパターンを好む作者は、第3作とも通じる、体制寄り権力寄りの志向を持った「ジャーナリスト」なんでしょうね、と改めて実感しました。

11.原発ホワイトアウト 若杉冽 講談社
 現職の霞ヶ関省庁勤務の官僚による福島原発事故後自民党政権復帰による原発再稼働をテーマにした小説。
 電事連(小説では「日本電力連盟」)と東京電力(小説では「関東電力」)の総括原価方式(事業にかかった経費に比例して利益を得られるしくみ)の下での関連会社への割高発注とキックバックによる裏金作り、その裏金を利用した政治家、官僚への環流・利益誘導、野党国会議員やマスコミの取り込み工作、そのシステムを維持する目的の政治家による電力会社の意向に沿った政策の推進と反対者への圧力、原子力規制委員会/原子力規制庁の翼賛ぶりと電力自由化・発送電分離の骨抜きといったあたりは、ノンフィクションかと思える迫力があります(この作品、お決まりの「この作品はフィクションであり…」の記載もありません)。福島原発事故を起こし、多額の賠償責任を負いながら、ふんだんな電気料金と税金を受け取って黒字経営で裏金も作り、反省もなく政治家と官僚を支配し続ける東京電力の悪辣さ加減は、本当に腹が立ちます。最近も、海外子会社に利益を蓄えていることが報道されたところですし。
 ただ、この作者、刑事手続には詳しくないようです。逮捕後起訴前に「保釈の請求をしていた」(235ページ)、「できるだけ早く保釈決定を受ける」(282ページ)、「保釈は一切認められずに、そのまま起訴され」(283ページ)と書かれていますが、日本の刑事司法では、アメリカなどと違って起訴前に保釈の制度はありません。他方、原子力規制庁の審議官が事業者から天下り(贈賄)を示されて報告書を事前に見せたということが、保護に値する秘密といえるかは疑問があり、これを暴露することが国家公務員法(守秘義務)違反で起訴された場合、争う余地は十分にあると思います。「正直に罪を認めて叙情酌量の余地を増やすこと、逃亡や証拠隠滅の怖れがないことなどを示して、できるだけ早く保釈決定を受けることくらいしか、アドバイスする余地がなかった。」(282ページ)という事案ではないと思います。少なくとも我らが「海土」弁護士がそういう姿勢を取って諦めるということは考えがたいところですが。
 ラスト前の小ネタでも、硝煙反応はどうごまかすんだろうという疑問が残ります。作者は仕事で忙しくミステリーもあまり読んでないのかも。

10.レンアイ、基本のキ 好きになったらなんでもOK? 打越さく良 岩波ジュニア新書
 恋愛、交際、性的関係、同棲、夫婦などの男女関係(たぶん、同性愛は除かれている)に関して、束縛、支配、暴力の面から望ましくない行為、関係、そのサインを説明して注意を呼びかける本。
 恋すると、相手も自分も見えなくなって束縛、嫉妬、付きまといといった行き違い、行き過ぎがままあるけど、それで自分は幸せか、相手はどう思うかというあたりから、恋愛を考える、恋愛の指南書の趣で入っていきます。マンガやライトノベル(島本理生とかはライトと呼ぶには重めですけど、若者向けの)を題材にした語り口も、読みやすいと思います、たぶん。そして、言っていることは大部分、そうだそうだと思います(まぁ傾向の似た弁護士ですからね)。
 しかし、読み物としてみたとき、5章に分けられているのに、最初の入り方が違うだけで、後半は結局、DV(ドメスティックバイオレンス:夫婦・同居者への暴力)かストーカーの話になり、話の行き着く先が同じ感じがして、章を分けている意味があまり感じられません。法律の説明も、そういう手続があるよということは紹介しているのだけれども、どういうケースでどう使えるのかがイメージしにくい感じがします。とにかくそういう手続があることを覚えといていざとなったら警察か弁護士に相談してねって、その情報自体は大切なんですが、それが繰り返されそこで説明が止まってしまう印象です。むしろ、恋愛のあり方の話(相手は2次元でも犬猫でもなくて自分とは違う思想と習慣を持った人間なんだから、思い通りにならないのが当たり前だし、そうだからこそつきあってドキドキできるでしょ。自分を一人前の人間と認めてもらえないなら楽しくないだろうし、楽しくないなら「恋愛」することが「必要」ってわけでもないじゃない。恋愛は何のためにするの?世間体や友だちに自慢するために恋愛するなんて、しんどいだけでしょ:なんてあたりを、たぶん著者は言いたいのだと思いますけど)、ちょっと行きすぎの行為、暴力、レイプ・強制わいせつ、精神的暴力、ストーカーくらいの分け方で、著者の立ち位置とアドバンテージのあるDVやストーカーの相談・取扱事例を挙げて、何がDVやストーカー行為の入口になるか、そのサインはどう見るべきか、そしてどういうケースで(どういうことをされたら)法律をどう使えるかを1か所でまとめて説明した方がよかったんじゃないかなと思います。単純に法律の規定、特に罰則を挙げることで、現実には警察が動きそうにないケースまで処罰されるかのような印象を与えることには、私はあまり賛同できません。それで加害行為を思いとどまってくれればという願いはあるのでしょうけれども、被害者に現実離れした期待を持たせることにもなりかねません。
 マンガやライトノベルを多用した説明は、親近感は沸くでしょうけれども、登場人物を説例として上げるときとその人物が行動した結果を模範とする(読者への説得材料とする)ときが混在しているのが、私のようなひねくれた読者には逃げに思えてしまいます。マンガや小説の主人公だからその行動が正しいというわけではないでしょうし、現に著者が批判する場合も何度もでてくるのですし。引用は説例として、善し悪しは、法律か、著者の弁護士としての経験か、自分の意見として述べるというスタンスを貫いた方が、説得力があるんじゃないかと、私は思うのですが。マンガやライトノベルが度々登場するので、37ページで『その後の不自由−「嵐」のあとを生きる人たち』という本が登場した時、私は「嵐」追っかけおばさんの嘆きを書いた本かと思ってしまいました。 (^^ゞ

09.労働法実務解説9 企業組織再編と労働契約 徳住堅治 旬報社
 日本労働弁護団の中心メンバーによる労働法・労働事件の実務解説書シリーズの企業再編、労働組合再編関係の部分。
 2008年に刊行された「問題解決労働法」シリーズの改訂版です。
 労働者が勤務する会社が、合併や事業譲渡、吸収分割等を行った場合、労働契約はどうなるか、端的に使用者(労働契約の相手)は誰になるのか、その際にそれに乗じてリストラや労働条件の切り下げをいわれたらどうなるのかなどの、直面すれば労働者にとって厳しく、法的にはなかなか難しい問題を孕む、私も含め労働側の弁護士には少し苦手意識のある領域について、裁判例の傾向と、労働者側からの対応と主張を説明しています。ふだんあまり扱うことがなく考えていない問題を勉強できたなぁというのが正直な感想です。
 最後の方に書かれている、労働組合の再編は、労働側で考えても、一筋縄でいかないものがあることを、改めて考えさせられました。
 「事業譲渡」では、私が学生だった頃の感覚では「営業譲渡」として「一体性」が強調され、裁判例でも譲渡された事業に従事する労働者が一体として承継される(一部の労働者の選別排除を許さない)のが当然のように判断されていましたが、近年は譲渡対象は契約で自由に定められるということが強調され、労働者の承継も選別できる(現実的には労働組合の活動家などが承継の対象から排除される)のが原則という方向に変わってきています。合併や吸収分割ではそういった選別が許されないのに、実態がほとんど変わらないことを「事業譲渡」の形式でやれば労働者の選別承継(実質は解雇)がやり放題になるのは不合理です。住居の賃貸借では、昔は(日露戦争の頃までは)家の所有者が変わる(家を売る)と賃借人を追い出せるという制度と法解釈(このようなやり方を「地震売買」と呼んでいました)だったのが、生活の本拠をそのように不安定にすることは不正義だということで、賃借人はそこに住んでいることで新しい所有者に対抗できる(追い出されない)制度とされました。労働者の生活の基盤である労働関係が、労働者の生活を守るために解雇が容易にはできない(解雇に合理的な理由があり社会的に相当と認められない限り解雇は無効)制度が作られているのに、「事業」の所有者が変わるだけで実質的に解雇がやり放題、まさに昔々の「地震売買」が、労働契約ではいまだに容認される、それもそれを容認する法解釈が近年になってますます裁判所で幅をきかせるようになってきていることに、怒りと驚きを感じます。「債権譲渡」や「吸収分割」で過払い債務を逃れようとする貸金業者の卑劣なやり方が容認される傾向と合わせ、経済界の要請に従い「企業再編」の自由化を軽々しく認めて拡げた政治家・官僚・御用学者たちのおかげで、それを悪用した庶民いじめが横行していることを、忘れずにいたいと思います。

08.記憶をあやつる 井ノ口馨 角川選書
 神経細胞のしくみと記憶のしくみを説明し、脳科学でわかったこと、まだわからないことを論じ、人工的に記憶を作ることができるのかについての著者らの研究を示して脳科学の今後を語る本。
 記憶が特定の神経細胞間のシナプスの強化によること、当初は海馬に納められた記憶が長期記憶になるにつれ脳の他の場所に移されること、その際睡眠中の記憶再現が関与していることなど、よく聞く話が整理されて説明されています。
 人間がボーッとしているときは、脳全体が休んでいるのではなくふだん使わない場所が活性化され、おそらく脳がランダムに活動している時にはいろいろな過去の情報を取りだして勝手に比較したり組み合わせてみたりしていて、そのほとんどは意味のない活動となるが、何度かに一度はビックリするほど素晴らしい連合となって、「天啓」になるのではないかという話(111〜112ページ、144ページ)も、よく聞く話ではありますが、ホッとします。実際、私も、裁判上の主張のアイディアとか、事件記録中の情報の組み合わせで論証するアイディアが、気分転換中とか何か他のことをしている時に出てくることはよくありますし(やはり、リフレッシュや休養は大切だ (^_^)b。
 記憶が作られる過程はよく研究されているが、思い出す過程はまだほとんどわかっていないとか、わかっていないことがたくさん語られるのも、どこかホッとします。
 最後の、マウスの実験で、ある体験(丸い部屋にいた:ショック体験なし)の時に活性化した神経細胞と別の体験(ショック体験:その時は四角い部屋にいたが四角い部屋にいたという認識を持つ前に移動)の時に活性化した神経細胞を、後にレーザー光で同時に刺激することで、2つの記憶を関連づけることに成功した(四角い部屋に入れてもリラックスしているが丸い部屋に入れるとすくんだ:158〜165ページ、189〜191ページ)という話は、それが著者がいうように人工的に記憶を作り上げたということを意味するとすれば、科学の進歩として驚くとともに畏れを感じます。日常的にも、そして職業的にも、記憶というものの確かさを信じて生きている者としては…

07.すごい!iPS細胞 齋藤勝裕 日本実業出版社
 細胞の構造、細胞分裂、DNAなどの細胞の基礎と、他の細胞に分化する能力を持つ「幹細胞」、ES細胞、iPS細胞とその再生医療への利用について、講演形式で一般向けに語る本。
 新入社員への講義の形式で、素人の受講者からの質問(当然、著者が講演の流れに沿って答えやすいように自作自演したもの)を挟んだやりとりをいれて柔らかい印象にして、読みやすくされています。
 知識としては、多くはすでに知っていることでしたが、講演形式と絵の多用でイメージしやすくなっています。たとえば細胞の核の中にあるDNAの2重らせん構造は24の染色体(常染色体22、性染色体2)に分断されていてその総延長は2m以上、1つの染色体で見ても10cmくらい、それが「折りたたまれて」いるというのが、なかなかイメージできなかったのですが、72〜73ページの図と説明で、へぇぇ〜という感じではありますが、イメージできました。
 他方、著者は生物学者・医学者ではなく有機化学等が専門で、「脳細胞や神経細胞など、細胞分裂しない細胞があります。これらは終生このG0期(伊東注:細胞周期停止期)にいる細胞なのです」(66ページ)など、近年の発見からは誤りないしはミスリーディングな記述も見られます。わかりやすさと正確さの両立は難しいというべきなのでしょうか。

06.美術館の舞台裏 魅せる展覧会を作るには 高橋明也 ちくま新書
 元国立西洋美術館学芸員、現三菱一号館美術館館長の著者が、美術館で働く人々:学芸員/キュレーター、収蔵作品の収集、展覧会の企画、収蔵作品の貸し出し、運搬、展示、保存・修復、盗難、オークションなどの実情について説明した本。
 ヨーロッパの美術館と異なり西洋絵画の収蔵作品に乏しい日本の美術館は、展覧会をするにも収蔵作品の相互の貸し借りという訳にいかず、長距離の運搬自体にも多額の費用を要することもあり、新聞社、放送局の財力に頼ることになり、多額の貸出料を払って名のある作品を借り出して、その元を取るためにメディアが(自前の媒体で)大量宣伝して観客を動員し、宣伝はあるがプロの批評は育たないという日本独特のスタイルを作り上げた、ヨーロッパの美術館も保管展示の莫大な経費をまかなうためビジネスに走る傾向が次第に顕著になってきているが、「作品をお金で集める習慣をつけてしまったのは日本人なんだよ」(ルーヴル美術館名誉館長の言葉:44ページ)といわれていることなどが説明されています。数点の有名絵画をクローズアップして新聞社やテレビ局が自社主催の展覧会を大量宣伝し、その結果大群が押しかけて行列に押されて係員に急かされながら(立ち止まらないでください!)見る有名画見物会がいやで、私は東京に来てから美術館に行く頻度が減りましたが、業界の人も日本独自の必要悪と眉をひそめながら諦めていたのですね。
 絵画の運搬には専用の特注ケース(クレート)を作りこれが数十万円、貸出側の美術館からの随搬者(クーリエ)の1人分の飛行機代と滞在費で百数十万円かかり、それでも運搬によるダメージは避けられず、事故も少なからずある(フォークリフトでの運搬時にフォーク部分で刺してしまったとか)という話には、そうだろうなと思いますが、その長距離運搬なしには著名な絵画作品を直接見ることができない日本の絵画ファンとしては、胸が痛むところでもあります。盗難は日常茶飯事(美術館側は盗難に遭っても公にしたがらない)とかの話にも、残念な思いがあります。
 作品の収集のため、アメリカの美術館長には女性に好感を持たれる魅力があるかどうかが死活問題(富裕層のコレクターの未亡人からの寄贈に頼って発展してきたのでマダムキラーであることが館長のミッションなのだとか)だとか、海外の美術館でフェルメールの絵の前で動かずに見続けている人がいたらそれは日本人だとかのエピソードは、興味深く読みました。

05.脳をどう蘇らせるか 岡野栄之 岩波科学ライブラリー
 成人では損傷した中枢神経系(脳神経細胞)は再生しないというかつての生物学・医学界の常識を覆す近年の研究成果を解説し、再生医療の現状と今後の挑戦の展望を語る本。
 20世紀の終わりに、神経系を構成する細胞を生み出すもとになる「神経幹細胞」が成人の脳の中にも存在することが発見され、この部分から取りだした細胞を培養して実際にニューロンに分化させることに成功して、これまで再生能力がないと思われていた成人の脳にももともと(内在性の)神経幹細胞が存在し、部分的にであったにせよ、再生能力があることが確認されているそうです(4〜5ページ)。実際、成人の脳でも、匂いを感じる嗅覚の機能に関与する嗅球と、記憶・学習に関与する海馬の歯状回の2か所にニューロンが作り続けられる領域があることがわかっているとか(18ページ)。なぜ神経幹細胞があってもニューロンが再生する部位と再生しない部位があるのかはまだよくわかっていないけれども、神経幹細胞を取り囲む環境に要因があるのではないかと考えられているそうです(19ページ)。そうするとその環境要因を変化させれば、脳に損傷を受けても自力で再生できるかもと夢が広がります。
 脳梗塞で最初の発作から数か月経過した後も機能障害が残っている慢性期の患者について機能を回復させる治療法は基本的になかったのですが、骨髄の間葉系幹細胞を神経の前駆細胞に誘導した治療用幹細胞の移植治療臨床研究が行われ、「運動機能、感覚機能、認知機能においてなかなか期待できる結果が出て」いるそうです(31ページ)。
 脊髄損傷についても、頸髄損傷させたマーモセット(猿)に損傷後2週間の亜急性期にヒトiPS細胞由来の神経幹細胞を移植すると、腫瘍の形成は認められず、大脳皮質から脊髄へ下降する多くの神経繊維が再生し四肢の運動機能も見違えるほど改善したそうです(53〜54ページ)。脊髄損傷の場合、移植が有効なのは損傷後4週間後までの亜急性期のため、移植治療が可能としてもそれまでに本人の細胞からヒトiPS細胞から作った神経幹細胞を用意する(現状では数か月を要する)のは無理なので、予め安全性を確認した臨床グレードのヒトiPS細胞由来神経幹細胞のストックを製品化する必要があるということになります(62〜64ページ)。さらに慢性期の脊髄損傷治療についても、ラットでは、神経細胞の再生を妨げている「環境」のセマフォリン3Aの阻害剤を投与して、それにリハビリ(トレッドミルを歩かせる)を組み合わせると、かなり歩けるようになるという実験結果が出ているそうです(71〜73ページ)。
 実用化にはまだいくつものハードルがあり、著者の立場上、研究成果を魅力的に見せたい、治療効果をアピールして臨床実験の障壁(倫理的な問題等も含め)や製薬製品化に対する規制を排除したいなどの思惑があって現実よりも再生治療の実現が近いようなニュアンスで書いている可能性はありますが、人のためになる領域での技術の進歩を知り、夢が広がる思いをしました。

04.世界が赫に染まる日に 櫛木理宇 光文社
 中2の従弟を集団暴行で昏睡状態にされ、中1の従妹を輪姦され、野球部を辞めて鬱屈した日々を過ごしていた中3の緒方櫂が、父が寄りつかない家で酒浸りの母を嫌悪して過ごし15歳になったら死ぬことを決意して内にこもる同級生高橋文稀と夜の公園で遭遇して意気投合し、いじめの加害者たちへの復讐のため計画を練り、練習と称してネット等で見つけたいじめ事件の加害者を襲撃していくという展開の小説。
 いじめを繰り返し、反省の色も見せない悪辣な加害者を描き、この種のものではワンパターンに見える「加害者ばかりが守られる」という主張を展開し、加害者の親、弁護士、教師(特に日教組)を悪者に仕立て、その加害者への「復讐」と称する(被害者がするんじゃないから実際には復讐でも何でもない)暴力による肉体的・精神的破壊を描くことで、読者が現実にあるいは仮想的に(被害妄想的に:近年は思い通りに行かないことを何かに付け自分が被害者だと思いたがる人が少なくないので)経験した被害による不快感・屈辱感を解消・緩和するカタルシスを感じたいというニーズを狙った作品だと思います。そういったパターン自体は、私たちの世代では「必殺仕掛け人」以来のシリーズに見られるように、一定のニーズがあるのだと思います。
 しかし、この作品には、その暗さにとどまらない気持ち悪さがあります。いじめ(暴力)被害者の側に立つかのように、加害者ばかりが守られているなどと主張し、法制度や教師、弁護士などを批判していながら、復讐のためという主観的な目的を持つ者には、ターゲットが加害行為に参加したか黙認したかさえ気にせずに結局は無差別殺傷に至ってもそれは何ら糾弾しない、その無差別殺傷の被害者にはいじめと無関係な者もいるはずなのにそこでの被害者のためには憤らない、復讐目的のために自らは反撃されることを恐れない「勇気」「覚悟」を持つ者を英雄視する姿勢、そこには、平常時は殺人者に対して重罰を要求しながら、「正しい」目的なら、例えば戦争なら、どれだけ無差別殺人を犯しても英雄視する人々に通じるものがあります。
 昏睡状態で植物人間化が危惧された被害者が覚醒したとき、その家族の気持ちが加害者への復讐よりも現に生きている被害者のリハビリに動き、復讐など心の中から外れていく描写は、加害者を糾弾し重罰を要求し続けるステレオタイプな被害者像を相対化する意味はありますし、被害者・遺族が外から復讐心を押しつけられる風潮への問題提起としてあっていいと思います。しかし、そうでない被害者もいるわけで、私は、被害者もそれぞれで、復讐心を持ち続ける被害者もいるし、いていいと思います。その意味で、作者は、被害者側に立ちきっているわけでもないように思えます。
 そういった点で、被害者の側に立つかのように装いながら、自分の気に入らない加害者に重罰を求め、自分が正しいと思う目的(勇気、覚悟)を持つ者は英雄視して実際の行動が無差別殺人であっても(そこに被害者が出ても)支持/容認するという姿勢が感じられ、私にはこの作品を貫く価値観がとても気持ち悪く思えるのです。

03.レインツリーの国 有川浩 新潮社
 関西から上京して入社3年目のモテ男向坂伸行が、中学生の時に読んで気になっていたライトノベルのことを調べて行き着いたブログの管理人「ひとみ」とメールのやりとりを通じて知り合いになり、デートにこぎ着けたところ、ひとみは中途失聴の感音性難聴者で、そのことに気づかず、難聴に起因する行為を罵って傷つけてしまい、それを機に難聴について調べ、ひとみと心を通わせていくという小説。
 障害者について、その障害による苦しみとそれに気づかれたくないという思い、同情され上辺だけの優しさを与えられたくないという思いを描き、肉声で語らせ、障害自体の個性、「障害者」と一括りにされた存在ではなくそれぞれの人間としての個性、息づかいを受け止めて欲しいという思いを語らせている点で、光るものがあると思います。
 同時に、伸行に、父親が脳腫瘍になり手術後には母と兄のことは覚えているのに自分のことは忘れヘルパーと認識していたことの苦しみを語らせ、健常者にも人それぞれの苦しみがある、障害者だからといって自分だけが苦しんでいると思うなというメッセージを発しています。これは一面の真実で、障害者(あるいは被差別者)から障害者について本当にはわかっていないといわれがちな健常者の俗耳に入りやすい議論です。人は、基本的に誰でも、自分の不幸/自分の苦しみを最大に評価し、他人のことは重く受け止めません。人それぞれの不幸があること、そして通常は自分の不幸が一番深刻と思っていることは真実だと思います。しかし、理念的には人それぞれに不幸があるとしても、やはり障害者(あるいは被差別者)が負わされている不幸/苦しみは、普通に考えて、他の多くの人よりも重いと思います。それを一律に人それぞれに不幸がある、障害者の自分だけが苦しんでると思うなという作者のメッセージは、結局は障害者に厳しく当たることになってしまうのだと思います。(ちなみに、父親が自分のことを母や兄より軽んじていたと思い込んで悩む伸行に対しては、それは父親の意思によるものではなくて、たまたま病気で損なわれた神経組織/シナプスが伸行に関する記憶に対応するものだったという偶然の産物だと、示唆してあげることが必要なんじゃないかと、私は思います)

02.夏の裁断 島本理生 文藝春秋
 編集者を痴情がらみで刺し損なった作家萱野千紘が、疎遠になっていた母の招きで鎌倉の亡祖父の住まいに移り住んで祖父の蔵書のうち高価に売れないものを「自炊」して電子データ化する作業に取り組むという設定のトラウマ引きずり・克服系小説。
 千紘が、思わせぶりな態度を取りながら千紘が惹かれると引き寄せたり突き放したり翻弄する、ジコチュウで尊大で気まぐれな編集者柴田に惹かれストーカーのように追いすがるというエピソードを中核に据え、軽いノリで言い寄ってくるイラストレーターの猪俣と行きがかりと惰性で関係を持つエピソードと、千紘の13歳の時の母親の店の客磯野に強いられた(自分の意志によると書かされ、当時は自分の意志だったと思っていた)性的行為のトラウマをサブストーリーとして組み込んでいます。
 子どもの頃の強いられた性的行為によるトラウマのために、男性との距離の取り方がわからず、言い寄られると自分から追いすがってしまい、その自分に自己嫌悪を感じるという形で、その後の人生を呪縛するトラウマの深さを描いています。一見テーマから浮いているように感じられる、千紘の本を裁断する行為への当初の嫌悪感と、その後の作業による慣れ、感覚の鈍磨は、作家にとって本を裁断するという行為の持つ重さ、それでさえ作業の実施により簡単に慣れてしまうこととの対比で、強いられた性的行為によるトラウマの深刻さ/重さを描く材料とされているのだと思います。作者が追い求めてきたテーマが、女性作家の痛い行為という現象を材料に、追い続けられているということなのでしょう。

01.コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと 川上量生 NHK出版新書
 ドワンゴの代表取締役でありながらなぜかジブリで見習プロデューサーをしていたという著者が、コンテンツとしてのジブリ/宮崎駿アニメの特徴等について語った本。
 アニメは情報量が少ない(アニメの場合情報量は線の数で決まる)ことで子どもにも理解しやすくなり子どもが好むが、ジブリ/宮崎駿のアニメは情報量を多くすることで大人にも楽しめるものになった、今はそれに倣い情報量の多いアニメが主流になっていると一般的に説明した上で、著者は、宮崎駿の絵は、実写に近づけるのではなく、脳が見たまま、さらには脳が見たがるものを描いている、子どもの視点では樹が実際よりも大きく崖は実際よりも深く見えるし、飛行機などの「見たいもの」は実際よりも大きく見える、現実には一つの視点からは見えないものが同時に見えてもそれを見たい者には不自然には見えない、そういった「主観的情報量」の多さ、主観的情報量に沿った絵が描けることが宮崎駿の才能でありジブリのアニメが成功してきた理由だと分析しています(45〜60ページ、80〜98ページ)。「もののけ姫」の犬神がシーンによって大きさが全然違うのも、海外のアニメではそういうことはあまりないが、日本の観客には自然に思えると説明しています(54〜55ページ)。そうですね。「ポニョ」の母もそうですし。
 宮崎駿にはストーリーはどうでもよくて、表現、シーンが重視され、そのアニメーターが書ける人物や動きを活かすためにストーリーも変えてしまう、頭の中に浮かんだ良い場面、素敵な映像をつなげるように間を埋めてストーリーをつくる、いいシーンが描けなければストーリーごと削ってしまうと説明されています(158〜161ページ)。そう言われるとなるほどと思います。たとえば「ハウルの動く城」を見たとき、原作の設定はむちゃくちゃに変えられているし、お話としても基本線から変わっていて、私の第一の感想は、宮崎駿は原作をアニメ化したかったのではなくて、ただ「動く城」というイメージと、それが暴走して壊れるシーンを描きたかったんじゃないかということでした。その時は、そう書きながらも、いくら何でもと思っていたんですが、当たらずとも遠からずだったのかと。
 「音は基本は控えめなほうがよくて、音楽をつけなければいけない時というのは、うまくいかなかったシーンをごまかすためなんですよ」(67ページ)って。ジブリアニメのどのシーンを言っているのか、これからジブリアニメを見るとき、楽しみが増えるかも。

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