庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2016年11月

08.ハルコナ 秋田禎信 新潮文庫
 花粉耐性がなく防護服暮らしを強いられるが周囲の花粉を消滅させる特異体質の「対抗花粉体質者」と対抗花粉体質者を保護管理する「公共改善機構」、防護服で歩行する対抗花粉体質者を介助するサポーター、対抗花粉体質者と公共改善機構を嫌悪する環境保護団体などが存在する世界を描くSF的青春小説。
 一種のSFで、その原因が全く説明もされないのですが、その空想的な部分が、周囲の花粉を消滅させ、それで花粉症患者は楽になるというレベルの特殊能力で、設定自体がしょぼい。このしょぼい設定に、「公共改善機構」などという大仰な組織を登場/君臨させているのは、役所/行政機構への皮肉なりパロディなのかと思いますが、徹底して環境保護団体を敵視/危険視/戯画化/揶揄している姿勢が作者のスタンスをより表しているように見え、体制内のぼやけた世界観の中での最後は話者/主人公の藤呼遠夜の隣人の対抗花粉体質者花園晴子への身の回り数メートルの世界の思いに集約されてしまう物語だと思います。
 裏表紙の「世界を敵に回してもハルコを守りたい」に惹かれて読んでしまったのですが、SFにするならせめてもう少し大きな物語を構築して欲しかったなと思いました。「世界を敵に回しても」は、仕事がら気になってしまうフレーズです。弁護士にとっては、「世界を敵に回しても」は、理念的にはいざとなれば背負わねばならないスローガンですが、その場合述語は「守らなければならない」か「のために闘わなければならない」で、義務的な悲壮感に満ちたイメージです。「守りたい」という心情でこの言葉が使えるならば、幸せなのですけれども…

07.境遇 湊かなえ 双葉文庫
 児童養護施設で育ち生みの親を知らない境遇が同じことを知り親友となった相田晴美から励ましのために教えられたエピソードをもとに書いた絵本「あおぞらリボン」で絵本大賞新人賞を受賞して時の人となった高倉陽子と、新聞記者となりその陽子にインタビューをしている晴美の前を、陽子の息子裕太のスイミングスクールの方を見ながら歩く不審な女性が通り過ぎ、その日裕太が行方不明となり、脅迫状が届き、陽子は韓国へ出張中の夫の親友岩崎と晴美とともに裕太を探し犯人の要求と真相を追うが…というミステリー小説。
 読者を引っ張り続ける筆力はさすがだと思います。しかし、ラストの大逆転は、プロットとしては必然だとは思うのですが、人間ドラマとしてはどうでしょうか。私は、むしろ最後の大逆転がない方が、人間像として深みを感じるのですが。生まれ・血縁や、さらには育ち・環境も合わせた境遇を乗り越え、解き放たれて人格形成することを、作者自身が信じていない/そこにリアリティを感じられない、制約があるのでしょうか。
 最後の大逆転を置いたことで、その前後で急速に毒が抜けてしまい、さらにはその後にとどめのような蛇足ともいえる小さな逆転がつけられ、真っ白なエンディングにつながります。高倉陽子をあまりにも世間知らずの善人に構築してしまったために、作品全体が漂白されてしまったような気がします。
 おかげで暗くならずに読め、後味が悪くはない、のですが…

06.生存賭博 吉上亮 新潮文庫
 ドイツ中部の山岳地帯に塩でできた怪物「月硝子」が夜に大量に出現し人々を殺戮して夜明けには消えるようになり、月硝子が出現する区域を高く硬い壁で囲いその中で一攫千金を狙う貧しい者たち10人を閉じ込めて月硝子の攻撃をしのいで最後に生き残った1人に高額の賞金を与え、中継を見る都市の住人や全世界の者たちが生き残る者は誰かを賭ける「生存賭博」を実施するようになった都市で、10歳の時に月硝子に襲われるところを「姉」に助けられて以来目にしたものを瞬時に記憶し忘れることができず記憶を随時引き出せるという特殊能力を獲得し今は闇の賭け屋(ブックメイカー)として生きる琉璃=アンナ・ミュンヒハウゼンが、外界から侵入し賭けの最中に月硝子を粉砕した「騎士」、街のギャングと癒着した警察の中でギャングたちに反感を持つ対月硝子特別出動課の者たちとともに、ギャングのボスらと、「騎士」の正体とその背後の組織と生存賭博の存続などをめぐり争うという仕立てのSF小説。
 ギャングたちの賭博の寺銭が25%、「つまり賭ける側の期待値は七五%になるので、かなりの額を胴元側にボラれることになる。」(44ページ)という記述は、当然、日本の競馬・競輪・競艇の還元率が約75%であることを意識して、ボッてるよねぇと言っているのでしょうね。サッカーくじは約50%、宝くじに至っては約45%というのは、もう皮肉る気にもなれない水準ということなんでしょうね。
 月硝子の猛威と殺戮への恐怖感が、後半では「姉」への思い、特殊能力の謎ときとゲームの要素が強くなりすぎて薄れてしまうのが、それらの謎解きやゲームが読ませどころなのだとは思いますが、私には少し興ざめでした。

05.グリム童話のメタファー 固定観念を覆す解釈 野口芳子 勁草書房
 グリム童話研究者の著者がグリムの採話とその段階でのペロー童話の影響、グリム兄弟による改変、ディズニーアニメとの比較、日本への翻訳紹介過程での改変(英訳段階での改変と英語テキストから日本語への翻訳段階での改変)を指摘し、ペロー童話の作成期のフランス、民俗伝承生成期のドイツ、グリム童話出版時のドイツ、現代アメリカ、明治以降の日本の各社会がどのようにグリム童話を受容したかを見ることで各社会の家族・結婚観とジェンダーを概観する本。
 研究者の著作にありがちなように、これまでに書いて発表された論文を集めたものなので、順序だった「論」を追っていきにくく、視点の違いや重複も感じられます。私の興味としては、「白雪姫」「いばら姫」「赤ずきん」「灰かぶり」について論じた第Ⅰ部の第1章から第4章とそれぞれの初版と決定版(第7版)を著者が訳した第Ⅲ部に尽きる感じがします。
 グリム兄弟による改変を、ナポレオン戦争の敗者であったドイツでドイツが結束した強国であった神聖ローマ帝国時代を理想化する民族主義的な意識が強い時代を背景に中世的な色彩を強めた(3~5ページ)、初版の評判が悪かったために主要購買層の母親層に配慮した(白雪姫等の意地悪・残酷な母を実母から継母に変更するなど:12ページ)と評価する指摘には、なるほどと思います。
 サブタイトルの「固定観念を覆す解釈」。「白雪姫」では「白雪姫の后の行動は父娘近親姦を阻止しようとしたものである」(20ページ)としています。初版(1812年)以降すべてで后が白雪姫を森で殺害しようとしたのは7歳のときですが、手書きの初稿(1810年)では年齢不詳なので初潮年齢の14歳と推測されるって(18ページ)。鏡が1番美しいと言い、それが王が性的魅力を感じるというものであったら、7人の小人は家に棲ませる条件として「食事の準備」よりも夜伽を求めるんじゃないでしょうか。
 「灰かぶり」では、著者はさらに大胆な解釈を示しています。「灰かぶり」に登場する金の靴(ガラスの靴ではない)は、 " Pantoffel " であり後部が開いているサンダル状の靴(ミュール)であるから、サイズが小さくて足が入らないということはあり得ない、「足と靴はペニスとヴァギナを象徴しているかのようだ」、「結婚相手を選ぶ王家の宴ではダンスが行われた」、「ダンスに名を借りて性的相性を試す行為が行われたとしても不思議ではない」(72~73ページ)というのです。学者が「記録」されていない昔の風俗について推定するとき、どの程度の信ぴょう性があるのかについて、いつも疑問に思うのですが、この解釈はどうなんでしょうか。メタファーとしても「靴に女性の足が入るか」というのは「ペニスとヴァギナ」の関係とは逆のイメージになりますし、ちょっと想像がたくましすぎるように思えるのですが。
 「灰かぶり」は、(ペロー童話とディズニーの「シンデレラ」とは違って)灰かぶりの逞しさ、したたかさが感じられ、グリム童話の中でも私の好きな作品です。初版の訳(251~259ページ)は、初めて読みました。ずいぶん手が入って変更されているのだなと興味深く読みました。私は、決定版(第7版)で(初版ではそもそも父は出てこないのですね)父が灰かぶりが逃げ込んだと聞いた鳩小屋を壊したり、灰かぶりが登ったと聞いた梨の木を切り倒す心情が今一つ理解できなかった(父が旅行の土産に妻の連れ子にはドレスや宝石を与えながら灰かぶりにはハシバミの枝を渡したことは、灰かぶりを差別したのではなく灰かぶり自身が望んだためですし)のですが、ここではあっさり父が灰かぶりに冷酷だった(愛情を持っていなかった)ためとされています(77~78ページ)。そう読めば、わかりやすくはありますが。
 グリム童話とジェンダーについては、私は、「ヘンゼルとグレーテル」の魔女に捕らえられる前と魔女からの解放(魔女殺害)後の比較、初版から第7版までの変更の経過に注目して、私のサイトの「女の子が楽しく読める読書ガイド」のコーナーに記事を書いています(→「ヘンゼルとグレーテル」)。日本ジェンダー学会会長の著者に、「ヘンゼルとグレーテル」についても意見を聞かせてもらえるとよかったのですが。

04.迷いアルパカ拾いました 似鳥鶏 文春文庫
 楓ケ丘動物園の飼育員たちが騒動に巻き込まれる動物園ミステリーシリーズの第3弾。
 楓ケ丘動物園にアルパカが迷い込み、時を同じくして楓ケ丘動物園のアイドル七森さんの大学時代の友人が失踪し、謎を追う桃本らの周囲に不審な男たちや監視の目が…という展開です。
 今回はミステリーの規模と中身が飼育員たちの動きや関心とマッチし、作品としてしっくりとくる感じでした。
 主人公の桃本と七森さんの関係が、前作では七森さんが桃本の鴇先生への秘めた思いを疑い嫉妬する風情だった(「ダチョウは軽車両に該当します」77~78ページ等)のが、桃本の鴇先生への思いを理解し応援するように(54~55ページ)変化していて、なんだかあっさりと落ち着く方向になっています。
 話としてはまとまってしまったのか、その後ペースが鈍り、続編は別冊文藝春秋324号(2016年7月号)にフクロモモンガさんの短編(証人ただいま滑空中)が掲載されたところで、書籍化はしばらく先になりそうです。

03.ダチョウは軽車両に該当します 似鳥鶏 文春文庫
 「午後からはワニ日和」の続編の動物園ミステリー。
 今回は、市民マラソンでのダチョウの暴走、鴇先生の前職をめぐり、事件と謎が展開します。
 主人公の桃本、ミステリアスな獣医鴇先生、桃本に思いを寄せる楓ケ丘動物園のアイドル七森さん、不思議で不気味な服部君らのキャラが、前作より書き込まれこなれてきた感じで、のびのびとした筆致が読み心地がよい。桃本がひそかに思いを寄せている様子の鴇先生がますますかっこいい。
 ミステリー部分は前作よりも陰謀のスケールが大きくなり、面白いともより荒唐無稽感が強まったともいえます。
 基本は、登場人物のキャラとそれぞれの人間関係の絡みを楽しむ作品とみた方がよさそうです。

02.午後からはワニ日和 似鳥鶏 文春文庫
 楓ケ丘動物園の「アフリカ草原ゾーン」の動物たちの飼育係の桃さんこと桃本らがイリエワニの盗難、ミニブタの盗難と続く事件に遭い、その謎を解くというスタイルの動物園ミステリー。
 不安が募ると折り紙を折り続ける楓ケ丘動物園のアイドル七森さん、年齢不詳で武闘派の獣医鴇先生、爬虫類館担当で変態趣味の不気味な服部君らのキャラクターと、それぞれが桃さんに寄せる微妙な思いと思惑・人間関係で読ませています。
 動物と動物園トリビアも織り交ぜられ、その方面からも興味深く読めます。
 もっとも、ミステリー部分は、ちょっとなんだかなぁという感じ。
 あと、初出「別冊文藝春秋」294~297号と記載されているのに「本書は文春文庫オリジナル作品です。」ってどういう意味なんでしょう。

01.その〈脳科学〉にご用心 脳画像で心はわかるのか サリー・サテル、スコット・O.リリエンフェルド 紀伊国屋書店
 fMRI(機能的磁気共鳴画像法)により得られた脳スキャン画像に基づいて、被験者が一定の思考等を行ったときに脳が活性化する(酸素消費量が増える)部分を特定し、それにより一定の思考等を行う脳の部分を割り出して、脳スキャン画像から被験者の思考等を評価判断するという脳科学の試みについて、現時点での科学的評価を行うとともに、脳科学を標榜するビジネスの問題点を指摘する本。
 fMRIの脳スキャン画像の評価では、人間の心理的作業の複雑さを正しく分解・解析できているか疑問があり、ニューロン(神経細胞)の活性化から酸素消費量の変化までのタイムラグなどもあって、一定の心理的作業をつかさどる脳の場所の特定自体容易ではないこと、実験の統計的な評価での問題もあり、死んだ鮭の脳のスキャン画像で統計処理をして評価すると脳の小領域が活性化したかのような結果が出た(47~56ページ)などの指摘があり、なるほどと思いました。
 この本の表題からは、以上のような理系的な(科学的な)説明がテーマかと思ったのですが、それは第1章までで、あとは、脳科学を標榜するビジネスへの警鐘と裁判での利用への批判が中心となっています。そういう意味では、自然科学系の本ではなく、社会科学系の本と分類すべきかなとも思いました。
 終盤は、特に、「脳科学」の成果を利用して刑事裁判での減刑や無罪(自由意思がなかったのだから責任を問えない)の主張をする弁護士への批判が中心となっています。それも脳スキャン画像の解釈に誤りがあるとか、脳スキャン画像に関する現在の科学技術水準からそこまでを読み取ることはできないという科学的な指摘に基づく批判ではなく、刑事責任のあり方というような哲学的な観点からの批判に相当程度踏み込んでいるように思えます。私が弁護士だからかもしれませんが、精神科医と心理学者がする批判としては、専門知識に基づくものを超え、価値観が先行したものと思えます。著者の専門性からは第1章までにとどめるべき本ではなかったか(でも著者はむしろその後を書きたかったんでしょうけどね)と思います。

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