庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2017年6月

08.真夜中の秘密 リサ・マリー・ライス 扶桑社ロマンス
 SEAL(アメリカ海軍特殊部隊)で最後の作戦の最終日に爆弾で吹き飛ばされてリハビリ中のジョー・ハリスが、隣に引っ越してきた何かつらい過去の体験に打ちひしがれている謎の美女の手伝いをしたりして見守るうちに、その美女イザベルが絶品の手料理を家の前に置いていくようになり、いつしか想い合うようになるが、ジョーは、前作、前々作の「真夜中の復讐」「真夜中の約束」の主人公ジャッコ、メタルと同じ会社ASIに迎えられ彼らと親友で、他方、イザベルはアメリカ大統領候補で当選確実と言われていたが大統領選挙出馬発表の場で一族郎党皆殺しにされたアレックス・デルヴォーの娘できわどく殺戮を逃れてワシントンから遠く離れた西海岸のポートランドに転居してきたもので、ジョーがイザベルと恋に落ちるやアメリカ合衆国転覆を狙う陰謀がイザベルを巻き込もうとし、ジョーと友人たちがそれに対抗するというアクション陰謀官能小説。
 前々作の「真夜中の復讐」以来、元SEALメンバーによる最先端の装備を持つ警備会社ASIとその本拠地ポートランドを舞台に、毎度、新たな元SEALの兵士と新たな能力ある美女を登場させてカップルにし、巨大な陰謀が女性を付け狙い、ASIメンバーがそれを阻止するために完璧に見える計画を立てるが、相手が予想外の秘密兵器を繰り出して作戦が狂い、元SEALの兵士がズタズタになりながら女性を救い出すというパターンが繰り返されています。そして、お決まりの激しくエンドレスのように繰り広げられるセックスシーンも・・・
 ある種、テレビドラマの「水戸黄門」のような、展開が予想できる安定感があるシリーズといえましょうか。

07.場所 マリオ・レブレーロ 水声社
 目が覚めたら見知らぬ真っ暗闇の室内にいた男が、ドアを見つけて開けてもさらに別の部屋が続き、行けども行けども同じ構造のドアと部屋が続いているという状況で、困惑し、行く先々の部屋で出会う言葉の通じない人々と摩擦を起こしたり不安・不快感をぶつけながら、先行きの見通せない焦燥感と絶望・諦念、日常と非日常の相対化、確固たるものと思っていたこれまでの人生と不条理な現状の相対化、変転の常態化に身を任せつつも、神経をすり減らし疲弊し衰弱していく様子を描いた第1部、疲労困憊の末、建物から出て一部開いた空間で数人の同様の運命にある人々と過ごし、回復するとともに、関係になじめず対立と散開に至る第2部、喧噪と混乱の都市を経てかつての住処/日常と閉じ込められた徘徊の日々を錯綜させ相対化する第3部からなる不条理系小説。
 第1部は、私が高校生から大学生の頃に読んだ「砂の女」「箱男」「密会」の世界を思い起こさせ、懐かしさと新鮮さを感じました。
 しかし、第1部の終盤あたりから、主人公が漂流しているのではなく作者が持って行く先を見失って漂流している感じが漂い第3部は不必要にドタバタさせ(安部公房で始まり筒井康隆で終わるのかとさえ感じさせ)ラストはよく言えば哲学的内省的なまとめかもしれませんが、不条理劇をノスタルジーで回収している感じで切れがなく収まりが悪いように思えます。
 第1部で終わるか、第1部から別の方向へ持って行った方がよかったんじゃないかと思います。

06.日中漂流 グローバル・パワーはどこへ向かうか 毛里和子 岩波新書
 日中国交正常化(1972年)から40年あまりが過ぎ、友好関係から険悪な力による対抗へと変化した日中関係を分析し、今後の日中関係について提言する本。
 近年、中国との関係は(北朝鮮との関係もそうですが)いつの間にここまで悪化してしまったのだろうと、改めて思うことが多くなりました。
 この本では、中国側の事情については、日中国交正常化交渉に当たり中国政府側は台湾問題(「1つの中国」)での成果(日本政府が中華人民共和国を中国の唯一の正統な政権と認め、中華民国/台湾の政権を承認しない)をとるために、ごく少数の軍国主義者と犠牲になった一般国民を分け日本人民は中国人民と同じ被害者と位置づける「二分論」をとり、賠償請求権を放棄したが、中国の大国化に伴い若者や中間層に排外主義的民族主義意識が広がり、権力基盤の不安定という情勢の下ポピュリズム的な民族主義が力を得、インターネットと携帯電話という新たな情報手段で飛躍的に増幅した、それが1990年代半ばと2010年頃に顕著になったと分析しています。
 米中関係では国交正常化(1979年)以降様々な領域における政府間の大小のチャネル(定期協議の場)が設けられており、2006年以降毎年大規模でハイレベルの定期協議(戦略経済対話:S&ED=外相もしくは副首相級等)が開催され、関係が「制度化」されており、ソ連崩壊後のロシアとの関係でも同様の定期協議が続いているのに対し、日本とは、首脳間の個人的な関係が重視されがちで定期協議(日中総合政策対話)は2005年にスタートし2012年までは続けられたがその後途絶えていると説明されています。考えてみれば、アメリカと中国は、朝鮮戦争で1950年代に直接戦った間柄で、それでも閣僚をはじめ多段階の定期協議が継続されているのに、戦闘がそれ以前の日本と中国が尖閣諸島をめぐる対立があるというだけで定期協議もできないというのは哀しい/大人げない話だと思います。中国の外交政策は利益を第一に追求するので、領土がネックになって日中経済関係が停頓しそれが国内経済に強いマイナス影響をもたらせば原理を引っ込めて実利へと舵を切ることはあり得るが、日本の対中外交は一貫性を重視するので中国外交と違って日本は豹変できないと指摘されています(106ページ)。
 外交(継続的な関係がある/関係を絶てない相手との交渉)では、冷静さと寛容さが大事だと思いますし、隣国が「外敵」と強調されるのはきちんとした内政ができない独裁的政治家が権力の座にある時だというのが歴史の教えるところだと思うのですが。

05.くすりをつくる研究者の仕事 薬のタネ探しから私たちに届くまで 京都大学大学院薬学研究科編 化学同人
 京都大学大学院薬学研究科の教授・准教授ら研究者が、薬の製造に関する各分野の研究の現状と難しさなどを解説し薬学研究の魅力を論じた本。
 多数の研究者の分担執筆のため、執筆者により、基礎研究に没頭する人から製薬ビジネスに近い人、薬学を志す学生を勧誘すべくわかりやすく語ろうとする人から自分の研究紹介に徹しかみ砕こうとしない人、など章ごとの読みやすさ・読後感が様々ですが、薬学研究の魅力を語ろうというところではスタンスが統一されているように感じられ、学者さんの分担執筆した本としては、読み通そうという意欲があまり落ちずにすみました。
 前半の薬効を有し医薬品となる化合物やその候補の発見、選別、製造、デザインなどの話が、メインなのでしょうけれども、私には、生体のリズムにより(1日の時間により)病気の症状や薬の効き方も変化するという第9章、同じ薬でも効く人と効かない人がおりそれは薬に対する生体の感受性の個人差のほかに薬の吸収・分布・代謝・排泄の個人差による(後者の影響の方が強い)という第12章の5、そして薬をどのようにして薬が作用すべき場所に届け適切な濃度で適切な時間保つかというデリバリーコントロールが重要だという第10章、そして薬の併用や食物との相互作用に関する第12章の8、9が大変興味深く思えました。最後の食品との食べ合わせでは、高血圧の薬や免疫機能を調節する薬など様々な薬の体からの消失(代謝)をグレープフルーツジュースの成分が遅らせ、その結果薬の効果を増強するとともに副作用も増強する(その成分は、グレープフルーツの「皮」に含まれているので、グレープフルーツを食べても摂取されないが、機械絞りのジュースだと含まれるのだそうだ)とか、血栓を防止する薬ワルファリンの効果は納豆やクロレラを食べると弱まる(後者は、聞いたこともあった気がする)とか(279~282ページ)、人間の体だから簡単でも一律でもないとは思うけれども、難しいものだなと思いました。
 解熱・鎮痛薬の代表ともいえるアスピリンは、柳の樹皮や葉に含まれ、古代中国では歯が痛い時に柳の小枝で歯の間をこすっていたようで、これが「楊枝」の起源だって(14ページ)・・・ふ~ん。

04.定年認知症にならない脳が冴える新17の習慣 築山節 集英社
 脳神経外科専門医の著者が、「脳神経外科医としての30年以上の経験をもとに脳の取り扱い方法を書いた」(13ページ)という本。
 「はじめに」で、「皮膚や肝臓と同じように脳も再生します」「大事に使えば、人間の脳は、一生枯れることがなく成長し続ける、驚異の臓器なのです」と書かれており、魅力的な文句で釣り込まれます。ビジネス書張りの見事なキャッチといえるでしょう。
 そのために、第1に、生命の中枢の脳幹には負担がかからないように、質のよい睡眠を確保する(「夜は寝ないと脳が壊れる」なんて記載も:69~70ページ)、体温を保つ、水分補給を怠らない、毎日一定量歩く、太りすぎないようにする、第2に大脳辺縁系を制御する(欲望と感情を暴走しないように制御する)、第3に大脳新皮質を「育てる」ために新しい情報を与えほどほどに休ませながらも脳を使い続けることが大切だとしています。
 人間は周りの目があるから感情をコントロールできている、組織を離れると感情を抑えなければならないと感じさせてくれる社会的な枠組みから外れてしまい暴走しやすくなると著者は論じています(95~96ページ)。70にして心の欲するところに従えども矩を超えず、というわけにはいかないものか・・・
 第1章で、「どんなに優秀な脳でも、必要な鍛錬をいつも続けていなければ、こと第三層の理性中枢に関しては、あっというまに急坂をすべり落ちてしまうのです」という説明の例として、半年間外国に赴任していた超多忙の弁護士が帰国したら日本語で数が数えられなかったというエピソードが語られ(21ページ)、業界人としては引き込まれて読み続けましたが、「定年認知症にならない」というタイトルの本が最後に推奨する対策が「転職力を鍛えていつまでも仕事をやめない」(193~196ページ)っていうのは、いやそれはそうなんだろうけど腑に落ちない。

03.ゆうじょこう 村田喜代子 新潮文庫
 明治36年に熊本の遊郭に売られた鹿児島の南の島で海女の母の元で育った15歳の娘青井イチと、遊女の教育をするとして楼主組合が出資して創立した学校「女紅場」の教師赤江鐵子の視点から、遊女の暮らし、身上、運命を描いた小説。
 イチの視点は、花魁候補として比較的大事にされ相対的には恵まれた環境で、花魁の東雲の教養・器量・あしらいなどへの敬意、同僚たちとの対抗心、日常のできごと、やりとりなどを軽妙に描き、その中で一部、下級娼妓の悲哀・苦悩が淡々と出てくるという感じです。冒頭で、熊本の楼閣に着いたイチら少女たちが、直ちに楼主に「検分」と称してレイプされるシーンが描かれていますが、15歳のイチはそれに動転したとは書かれていますが、それに傷つき気に病む様子は描かれず、イチの涙は母と引き離されたこと、そして父に売られ見捨てられたことに限られます。その描写方法が、より哀れを感じさせるか、冷淡に感じられるか、読者により受け止め方が違ってきそうです。
 イチも含めた遊女たちの哀れは、赤江鐵子の視点で語られています。遊女たちが少しでも知識を得て自分を守れるようにと願う赤江鐵子の思いが、一見万人の平等を説いているようでありながら、「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」として労働者のストライキなどの貧者の闘いを非難し「貧人に教育を与ふるの利害、思はざる可らざるなり」などと貧者を蔑視/恐怖し(「貧富痴愚の説」より:310~312ページ)、「芸妓の事は固より人外として」「芸妓など言う賤しき女輩」などと娼婦をあからさまに蔑視し(「新女大学」より:242~245ページ)、芸妓から「成揚がり出世して」良家の夫人となった女もいるがこれらはすべて人間以外の醜物で淑女貴婦人が交わる者ではない、しかしたしなみ深い淑女はその感情を顔に表してはいけない、密かにその無教育破廉恥を憐れむのが慈悲である(同)などと論じる福沢諭吉に対する批判を展開しながら綴られます。
 物語は、赤江鐵子が内心で批判する福沢諭吉の言説に対抗するように、遊女たちの決起・闘いへと進みます。遊女たちの境遇の悲哀/不条理の描写は淡々として不足にも感じられますが、そちらよりも虐げられた者が立ち上がり闘う様とその希望の方にポイントが置かれた構成です。その点はまたやや楽観的に過ぎる感じもしますが、読んでいて素直にこみ上げるものもあり、読後感は爽やかでした。

02.読んで楽しむ百人一首 吉海直人 角川書店
 百人一首の各首について、歌の出自、他の歌との関係(本歌取り、類歌)、言い回しの先例、詠み手の運命、当該歌の背景などを解説した本。
 京都新聞での連載50回に加筆して出版したとされています(あとがき)。当然に対で紹介されたはずの平兼盛「忍れど色に出でにけりわが恋はものや思うとひとの問ふまで」と壬生忠見「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」の天徳歌合コンビ。平兼盛の方の記事では「まず左方から忠見の『恋すてふ』が詠みあげられました。当の忠見は秀歌ができたと思って、自らの勝ちを信じていたようです。続いて右方の兼盛の『忍れど』が詠みあげられると、忠見は思わずドキッとします。」(117~118ページ)と、壬生忠見が天徳歌合の会場にいたという前提で書かれています。ところがその続きの忠見の方の記事では、「誤解されているようですが、歌合の場に必ずしも作者本人がいるわけではありません。和歌は講師によって詠みあげられるので、本人は不要なのです』(119ページ)、「なお肝心の兼盛と忠見ですが、二人は身分が低かったので、内裏歌合には参加していないというか参加できなかった可能性が高いようです」(121ページ)とされています。書いた時期がずれている(後日加筆)としても、それくらい調整して欲しい。猿丸太夫「奥山に紅葉ふみ分けなく鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」では、現代語訳(意味)は「奥深い山に紅葉を踏み分けてやって来て、鹿の鳴き声を耳にすると、秋の悲しさが身に染みて感じられます」(27ページ)としています。これだと、紅葉を踏み分けたのは詠み手(人)で、この歌は「紅葉ふみ分け」と「なく鹿」の間で切れることになります。私は「紅葉ふみ分け」は「鹿」にかかると考えていたので、えっと思ったのですが、著者は、記事の中では、この歌が菅原道真の「新撰万葉集」では紅葉ではなく黄葉と表記され「古今集」では初秋に配列されていることから、百人一首以前は「萩」と鹿の組み合わせだったとした上で、百人一首では秋の紅葉に読み替えられているという説明をして「なお萩の場合は落葉しませんから、鹿の踏み分け方も自ずから異なることになります」(29ページ)と、踏み分けたのは鹿だという前提で書いています (-_-;)
 光孝天皇「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ」の君って、光孝天皇を即位させた時の実力者関白「藤原基経のことを指していると解釈できます」(57ページ)だそうな。思い人かと思っていたのですが、興ざめするというか人生の悲哀を感じます。
 ついでにもう一首の「君がため」「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」の藤原義孝、21歳で死んじゃったんですね(138ページ)。人生は儚い・・・

01.情報倫理 技術・プライバシー・著作権 大谷卓史 みすず書房
 近年の情報技術やインターネットとそれに伴うプライバシー、著作権保護のあるべき姿などについて、論じたエッセイ(小論文?)集。
 みすず書房の本にしては、「軽い」本です。第5章以外は「月刊みすず」連載の時事評論的な文章を出版したものでテーマと書きぶりに軽さが感じられ、著者のスタンスも時事のテーマについて鋭く論ずるというよりは困惑と懸念を示し折衷的な対処を示唆するものが多いことから(憂鬱な雰囲気があるものはありますが)重厚な印象がなく、そして紙質の選択のためと思われますが500ページを軽く超える厚さの割に軽くて持ち運びが容易です。
 おそらくは連載時にテーマを絞っていなかったのを単行本化するに当たり分類して章立てしたためでしょうけど、後半に行くほど、章のタイトルに無理がある感じがして、読後感は今ひとつです。連載時以後の事情の変化等について丁寧にフォローして本文の加筆や注記をしている点は好感が持てますが。
 著者の姿勢は、国家による情報統制・規制については慎重に、一私企業が情報のインフラを独占することには危惧感があり、著作権は当然の権利ではなくその保護の範囲は政策的な判断が必要で現在の保護は業界団体の圧力の影響を受けフェアユースを損ねているように思われる、というようなところにあるようですが、いろいろと気配りをするせいか歯がゆさが残ります。
 権力者の行為に対しては、明確な批判がなされない印象を持ちましたが、攻撃からデータを守るために「ウィキリークスは、スイスのドメインを取得するとともに、憲法で定められた通信の秘密を厳格に守るとするスウェーデンの企業にデータを預けた」ということを「国境を越えてデータを移動させることで、情報の自由を守る点では、タックスヘイブンを利用して、自ら居所を転々と変えて資産を守る富裕層と似ている」(425ページ)と、権力に対抗するウィキリークスを不正な経済的利益を得るための多国籍企業の行動になぞらえるというセンスには驚きました。

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