庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「天使と悪魔」
ここがポイント
 謎解きはもう少しじっくりして欲しいし、ヴィットリアのイメージはもう少し原作に近づけて欲しかった
 この作品でかなり象徴的な意味を持つ焼き印の跡が、いかにも画材で書いた感じなのが安っぽい

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 興行サイドでは「ダ・ヴィンチ・コード」シリーズ第2弾とされている「天使と悪魔」を見てきました。
 封切り3日目日曜日午前で半分くらいの入りでした。満員かと思ったのですが・・・

 原作は、ダン・ブラウンのラングドンシリーズ第1作で、シリーズ第2作の「ダ・ヴィンチ・コード」の前作にあたります。
 原作を読んでから映画を見ると、概ねストーリーは原作を追ってはいますが、ラングドンのアクションシーンをほとんどカット(そこはむしろより現実的)、ラングドンとヴィットリアの恋愛感情部分を全部カット(エンタメとしてはちょっと寂しい)、登場人物の入れ替えや性格の変更が目につきました。
 ヴィットリアは、原作ではもっと知的でユーモアがありラングドンとともに謎解きをしていくのですが、映画では明らかに添え物です。原作では、南方での調査から戻ってきたヴィットリアが父親で共同研究者が殺害されたことを知らされそのままバチカンに急行することになってショートパンツ姿であることがスイス衛兵との感情的摩擦を引き起こしていますが、映画ではチームで実験に成功した直後に反物質が目の前で盗まれその後時間をおいてバチカンに呼ばれてダークスーツっぽい服装で摩擦も引き起こさないし、表情も硬いし、今ひとつ魅力を感じません。
 原作では冷酷非情な暗殺者が、映画ではどこか罪の意識を持ち良心の呵責を感じているようなのも、黒幕だけが悪いということにしたいのでしょうけど、意外。
 コンクラーベ(ローマ教皇選挙会)の監督役のモルターティ枢機卿(映画では違う名前でしたが)は、原作では教会の規則や先例に忠実で頑固ではありますが、威圧的な物言いはせず謙虚な人柄のはずですが、映画では高圧的で自らが教皇になる野心も見せるいかにも悪人っぽい役柄に変えられています。
 原作では、最終的にモルターティ枢機卿が満場一致で新ローマ教皇になりますから、このあたりでえっ?と思いましたが、原作の重要なストーリー進行を変えてまで最終的な新教皇が変更されました。たぶん、事前には候補として全く顧みられなかった者が教皇になることへのバチカンやカトリック信者への配慮なんでしょうね。
 登場人物でより困惑したのは、CERN(ヨーロッパ原子核研究機構)所長のコーラーを登場させなかったことです。原作では、ヴィットリアの上司でラングドンを呼び寄せて事件に引き込んだコーラーが、ラングドンらが暗殺者から黒幕が自らカメルレンゴ(前教皇侍従。新教皇選出まで教皇の権限を持つ)に焼き印を押すと聞いた後に、バチカンに登場してカメルレンゴに面会することが衝撃のどんでん返しの引き金となっています。ですからコーラーがそもそも登場しない、そしてコンクラーベの監督役が悪役ふうになっていると、映画では最後のどんでん返しがないのか?という思いを持ちながら見ました。もちろん、コーラーの役を別の登場人物にやらせて最後のどんでん返しはありましたが。

 反物質のバッテリー切れで対消滅したときの爆発の威力が、原作では半径半マイルの消滅だったのに、「1つの都市が消滅」とか「バチカンだけでなくローマも道連れ」とド派手になっています。でも、そうしたら、退避にどれだけの時間がかかるかという質問に警備隊長が30分と答えているのはなぜ?
 反物質トラップのバッテリーについて、原作ではCERNに持ち帰らないと対応できない(だから1時間前までに発見する必要がある)のが、映画では予備のバッテリーと交換するから5分前までに見つければいいとなっています。それはいいんですが、最後になって、バッテリーを切り替えるときに浮力がなくなるからダメといいだしたのはビックリ。それだったら時間が十分あってもダメでしょ。

 この作品でかなり象徴的な意味を持つ焼き印の跡が、いかにも画材で書いた感じなのが安っぽく感じました。あまり生々しいケロイドを作られても気持ち悪いとも思いますけど。最後の焼き印がデザイン自体かなり手抜きなのも残念でした。

 ラングドンと暗殺者のスーパーアクションぶりは、原作を読んでいてもちょっとやり過ぎの感があったので、この映画程度でもいいと思うのですが、謎解きはもう少しじっくりして欲しいし、ヴィットリアのイメージはもう少し原作に近づけて欲しかったなと思います。

(2009.5.18記)

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