たぶん週1エッセイ◆
映画「私の中のあなた」
ここがポイント
 難病と臓器移植という重いテーマに対抗軸を提起しさらりと描く点が新鮮
 サラ(母親)対アナ(次女:ドナー)の対立の構図よりもケイト(長女:白血病患者)の視線で描かれている印象

Tweet 

 白血病の長女の延命治療をめぐる家族の葛藤と愛を描いた映画「私の中のあなた」を見てきました。
 封切り1週目月曜日祝日でガラガラ。いつも空いている映画館を狙って行っているのですが、それにしてもキャメロン・ディアスとアビゲイル・ブレスリンでこんなに空いているのは寂しい。

 小児白血病の長女ケイト(ソフィア・ヴァジリーヴァ)に臓器提供するのに家族でも型が合わないため人工授精で型の合う子供を産むことを決意したサラ(キャメロン・ディアス)とブライアン(ジェイソン・パトリック)夫婦。その下に生まれた、ドナーとして生きることを運命づけられ幼い頃から臍帯血や骨髄等を提供してきた次女アナ(アビゲイル・ブレスリン)が、腎臓の提供を求められ、今後の医療措置を拒否する訴訟をアレグザンダー弁護士(アレック・ボールドウィン)に依頼するところから、ストーリーが展開します。ケイトの命を救うために、弁護士としてのキャリアも捨て、すべてを注ぎ込んで来たサラは激怒し、自ら法廷に立ち戦闘を開始。訴訟を起こしながらもケイトと仲良く過ごすアナ、アナの気持ちも汲みながらサラとの間に挟まれるブライアン、やりきれぬ思いで家出する長男ジェシー(エヴァン・エリングソン)、そして自ら作り続けてきた家族のアルバムを見ながら自分のためにママはすべてを犠牲にしてきた・・・と涙ぐむケイト。危うい均衡の下で家族の行く末は、訴訟の結果は、そしてケイトの命は・・・というお話です。

 キャストとしても、宣伝でも、「キャメロン・ディアスvsアビゲイル・ブレスリン」ですし、冒頭の展開でもケイトを救うためなら何でもするというサラとそれに対するアナの反抗で始まるわけですから、サラ対アナの対立がストーリーの軸となるかと思いきや、この映画は結局、ケイトの視線で作られていると思います。ドナーにするために子供を産むことが許されるのか、そして親にドナーとなることを強制される未成年の子にはそれを拒む自由は、拒む途はないのかという重いテーマが提示されるのですが、その後の展開はむしろ、小児白血病の少女にとっての幸せとは何か、自分のために家族が大きな犠牲を払うことへの思い、延命治療を受け続けることの是非の方に重きが置かれます。
 臓器移植を必要とする重病の子を持った親の選択、生きた(もしくは死にたての)ドナーを必要とする臓器移植のあり方をめぐっては、臓器移植をするという選択と臓器の提供が常に美談として語られがちな風潮にあります。その中で、子どもの命を守る闘いをギリギリまでやり抜く親をサラに演じさせるとともに、その対抗軸を立てて別の途を描き出したことには、新鮮さを感じました。当事者となっている親からは、反則技だと感じるかもしれませんが。建前としては反論しにくい一つの主張があるとそれ一色になりがちな日本のメディアに見習って欲しいなと思いました。
 そして延命治療を続けて病院で余命を延ばすことと短期間でも好きなことをして死んでいくことの選択についても、やはり考えさせられます。

 映画が進むに連れてテーマの大筋からは外れていく訴訟ですが、それなりに法廷シーンにも時間が割かれています。その中で、アナが依頼した「勝訴率91%」のアレグザンダー弁護士は自らも持病があることからアナの訴訟を700ドルあまりで引き受け、デ・サルヴォ判事(ジョーン・キューザック)は12歳の娘を交通事故で失って6か月休職した後に復帰したばかりでアナの聞き取りにやさしく接しケイトの病室まで聞き取りに出向いたりと、アメリカ映画には珍しく登場する法律家がすべて人間味に溢れています。こういう映画を見ると、同業者としては、ホッとします。
 自分の飼い犬(介助犬)に「ジャッジ(判事)」と名付ける弁護士には、気持ちはわからないでもないですが、ちょっとセンスを疑いますけど。

 映像的には、家族団らんやケイトと話すシーンでのアビゲイル・ブレスリンのきらめくような愛らしさ、最初のトランポリンのシーンや終盤でのビーチでの家族の幸せそうな笑顔、そして治療で脱毛した頭を恨めしく言うケイトの前でキャメロン・ディアスが自らの手で頭を丸めるシーンあたりが売りでしょうか。
 提起されているテーマはとても重いのですが、ストーリー展開でそこが少しいなされ、映像の明るさもあって、重苦しくはならずにしみじみできる映画かと思います。

【原作を読んでの追記】
 原作では、アナが起こした訴訟の展開が最後までストーリーの軸となり、キャンベル・アレグザンダー弁護士と裁判所がアナの訴訟後見人に任命した弁護士ジュリア・ロマーノとの過去の恋愛とその焼けぼっくいとも言える愛憎にも相当な紙幅が割かれ、デ・サルヴォ判事が男性であること、そして何よりも結末がまったく異なることなど、映画とは相当な違いがあります。
 原作の毒やシニカルさを洗い流した方が一般受けすること、アビゲイル・ブレスリン演じるアナへの共感を強めるであろう観客には原作の結末は受け入れがたいと思われることを考えての変更かなと思います。また、原作で紙幅を割いているキャンベルとジュリアの関係やジェシーの非行が、読んでいて冗長感があるので、これをカットするのは正解に思えます。
 私には、原作よりも映画の方が終わった後の印象がいいように思えます。

(2009.10.12記、2016.3.13追記)

**_****_**

 たぶん週1エッセイに戻る

トップページに戻る  サイトマップ