庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「ノマドランド」
ここがポイント
 ひとり放浪する生活に自由と誇りを持つ生き様を描いた作品
 しかし、キャンピングカーで生活するアメリカ人の多数派はそういう人たちなのか?
    
 アメリカ西部をキャンピングカーで流浪する女性労働者を描いた映画「ノマドランド」を見てきました。
 公開2週目日曜日、グランドシネマサンシャイン池袋シアター8(79席)午前11時15分の上映は、6〜7割の入り。

 夫ボーに先立たれ、勤めていた大企業が倒産してその企業城下町だった街が閉鎖されることになり、キャンピングカーで放浪しながらそこここで働くという生活を選択したファーン(フランシス・マクドーマンド)は、国立公園(清掃業務)や、厨房、アマゾンの物流センターなどで働きながら、出会った人たちと交流しては、美しい光景に感動し、姉やファーンを見初めた男からの定住の勧めを拒んで我が道を行き…というお話。

 不安定雇用に従事し、十分な蓄えはなく、ときにタイヤのパンクや車の故障に苦しみ、ひとりの夜の不安と寂しさを感じつつも、自らの意思で定住を拒み放浪を選択した者の自由と誇りを描き出すという作品で、ほぼそこに尽きると言ってよいでしょう。
 底辺労働者にも自由と誇りはある…それは見落としてはならないことで、また映画作品としてそのテーマはありなのだとは思います。
 ファーンの不安と諦念を感じさせながらも強い意志を秘めた表情が印象的で、それがこの作品のトーンを決定づけていると思います。
 老後をひとりで誇り持って自由な生活を切り開いて行く、そういう生き方を肯定し、そういう生き方をし、またそうしたいと思う人たちに勇気を与え、力づける作品と評価することもできるかも知れません。

 しかし、ファーンは、自身が大企業に勤務していたことから見ても、社会の底辺層でもマイノリティでもなく、姉が同居を求め、ファーンを見初めた男が同居・再婚を求めていて、その気になれば定住ができるという、言わば恵まれた条件の下で、自らの意思で放浪生活を選択したものです。キャンピングカーでの放浪生活に積極的な意味を見いだすグループの会合も描かれていますが、アメリカでキャンピングカーでの生活を続ける人たちの多数派はそういう人たちなのでしょうか。
 労働者派遣法が制定されたときには「多様な働き方」がもてはやされました。かつては「フリーター」が拘束を嫌がる若者の新たな生き方だと喧伝されました。非正規労働、企業がいつでも切り捨てられる安い労働を拡大しようとする勢力は、実際にそれを求めているのは企業・経営者なのに、労働者自身がそれを求めていると言いたがるものです。現実には多数の者ができることなら回避したいが仕方なくキャンピングカーでの生活に追い込まれているのだとしたら、そのときに、一握りのそれを自己の意思で選択し自由を謳歌している恵まれた条件の人に焦点を当て強調することは、何を結果するでしょうか。
 ケン・ローチが口当たりのいい個人事業主の体裁に騙されて経済的にも時間的にもまったく余裕のない状況に追い込まれていく労働者を描く「家族を想うとき」を想起すると、アマゾンの物流センターでの労働を肯定的に描く(少なくとも過酷な労働というニュアンスはまったく感じさせずに描く)ディズニー作品を、底辺労働者やマイノリティを力づける作品だという無邪気な評価をすることには、私は抵抗を感じます。

【追記】
 原作では、著者は、「私が何ヵ月にもわたって取材してきたノマドの人々は、無力な犠牲者でもなければお気楽な冒険者でもなかった。真実は、それよりはるかに微妙なところに隠されていた」(233ページ)と、ノマドの人たちの選択を尊重し誇りを描きつつも、車上生活へと追い込んだ原因を見据えるべきことも強調しています。
 また原作では、アマゾンでの労働の過酷さ、アマゾンでの労働への嫌悪感が、繰り返しストレートにも揶揄的にも語られています。
 映画では、著者のそういった社会派的な批判的な視点が薄められ、アマゾン批判に至ってはほぼ削り取られています。
 それがアカデミー賞作品賞受賞に繋がったのかも知れませんが、それでいいのかなぁと、私は疑問に思いました。
(2021.4.4記、6.26原作を読んで追記)

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