たぶん週1エッセイ◆
映画「あの日あの時愛の記憶」
ここがポイント
 純愛・悲恋ものとしてみるには戦後の2人が薹が立ちすぎていることと、観客が最も関心を持つ再会した2人がどうするかが描かれていないという2点で、「ひまわり」「シェルブールの雨傘」と比較するには力不足
 若い2人の命がけの純愛?今どきの感覚でいえば、トマシュの行為はセクハラとか職権濫用というべきでは?

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 ナチスの強制収容所で恋に落ちともに脱走したが生き別れた2人が32年後に再会するというラブストーリー「あの日あの時愛の記憶」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国2館東京で唯一の上映館銀座テアトルシネマ(150席)午前10時30分の上映は8割くらいの入り。観客層は中高年が多数派でした。

 1976年のニューヨーク、夫の研究が報われて賞を受けることとなりそのホームパーティの準備でクリーニング店を訪れたハンナ(ダグマー・マンツェル)は、テレビのインタビューで死んだとされていた戦争中に生き別れた恋人トマシュ(レフ・マツキェヴィッチュ)が話しているのを見て、動揺し、戦後すぐに行方不明者捜しを依頼した赤十字に電話をかける。1944年、ポーランドの強制収容所でトマシュ(マテウス・ダミエッキ)は看守を補助し物資を調達して看守に回しながら強制収容所の実情を写真に撮り、脱走の準備を進めていたが、収容されていたユダヤ人ハンナ(アリス・ドワイヤー)と密かに逢瀬を重ね、ハンナはトマシュの子を孕みつつそのことを隠していた。ドイツ軍の軍服を密かに調達したトマシュは、ハンナを呼びつけて懲罰のために移送することを装って2人で強制収容所を脱走し、追っ手を振り切って、生家にたどり着いたが、そこはドイツ軍に接収され、母親(スザンヌ・ロタール)はユダヤ人のハンナとの結婚に反対する。トマシュとハンナは小屋に隠れていたが、ハンナが高熱を出し、トマシュは強制収容所の写真をレジスタンスグループに届けに行かねばならず、トマシュはハンナを母親に預け、2日後に帰ると言い残して立ち去り、その後2人は再会できなかった。ホームパーティ中も上の空で機嫌の悪いハンナに夫と娘は不信感を持つが・・・というお話。

 戦争にひき裂かれた恋人たちの悲恋ということで、予告編でも「『ひまわり』『シェルブールの雨傘』に続く、切ない恋人たちの物語」と謳い、公式サイトでは「『ひまわり』、『シェルブールの雨傘』。生き別れた恋人たちを描いた名作に続く、切ない愛の物語」というキャッチフレーズを用いています。
 しかし、「ひまわり」も「シェルブールの雨傘」もひき裂かれた期間は数年レベルで、戦中・戦後の境遇の変化はあっても2人の人物像は大きくは変わらないという設定なのですが、この作品では32年が経過して、役者を変えざるを得ないほどの外見上の加齢の問題の他に、ハンナは一途で純朴な失うもののない若さが印象的な少女から成功した研究者の妻の地位を手に入れた不機嫌でジコチュウっぽいおばさんに変貌し、トマシュはレジスタンスの闘士からレジスタンスの事実を歴史から抹殺しようとする政府と闘おうと熱く語る娘を押しとどめようとする志を失ったコンサバ親父に変貌しています。その意味で、戦争と戦後の人生が2人それぞれに残した傷跡はクローズ・アップされているともいえますが、2人の純愛をひき裂いたという運命の過酷さという面はちょっと引いてしまう感じがします。
 「ひまわり」も「シェルブールの雨傘」も戦争によってひき裂かれ、運命に翻弄された後に出会った2人がどうするのかという点がストーリーのポイントになり、それがあってこそ悲恋が浮き彫りになり、ひいてはその原因となった戦争の悲惨さが描き出されるという構造になっています。この作品では、長い年月の経過によって、2人の人物像も相当変化していることから、観客としてはますますその変わってしまった2人が再会したときどうするのかに関心が引き寄せられます。にもかかわらず、完璧にネタバレですが、これは言ってしまいますけど、この作品は、それをネグレクトしています。観客が自身の想像力で勝手に想像しろということでしょうけど、このラストはないだろうと思います。映画館スタッフが、上映前のお願いでわざわざ「照明が点灯するまで席を立たないでください」といっていたにもかかわらず、エンドロールが始まるやバタバタと席を立つ観客が後を絶ちませんでした。
 純愛・悲恋ものとしてみるには戦後の2人が薹が立ちすぎていることと、観客が最も関心を持つ再会した2人がどうするかが描かれていないという2点で、「ひまわり」「シェルブールの雨傘」と比較するには力不足に思えます。

 さて、若い2人の命がけの純愛、の方ですが、こちらも見ていて少し引っかかりを感じました。まず、トマシュの強制収容所での位置づけが、見ていただけではよくわかりませんでした。私が見終わった時点の判断では、看守の手伝いをしていることから、強制収容所のスタッフとして働いているポーランド人というところでした。公式サイトのストーリー解説ではトマシュは政治犯で、そのために特権的な処遇を受けているということになっています。後者だと収容されている側ということになって微妙ですが、どちらにしても強制収容所に収容されているユダヤ人女性と、看守の補助をする特権を持った男性の、収容所内での性的な関係というのは、愛と呼ぶべきものなのでしょうか。収容されている側では、権限を持つ者と通じることで処遇上の配慮を受けたい、看守に殴る蹴るの暴行を受ける(最初の方にそういうシーンがあって迫力というか、ちょっと吐き気がしました)ようなハメになりたくないという思惑が当然に働いているはずで、今どきの感覚でいえばかもしれませんが、トマシュの行為はセクハラとか職権濫用という指摘をするべきものでしょう。
 命がけの脱走にしても、トマシュはハンナがいなくても自分の使命として強制収容所から脱走する予定だったわけですし、ハンナにはレジスタンスのことはまったく知らせていなかったし、脱走後もハンナはレジスタンスに加わろうという姿勢も見せていません。ハンナが加わることで捕まるリスクが高くなること、逮捕されたときにレジスタンスのことを知らない方が懲罰の程度が軽く済むと考えたこと、ハンナが病気で動けなかったことなどの事情で、一応説明されてはいますが、トマシュにとってハンナはともに戦う同志ではあり得ず、家庭を守る女という位置づけにとどまっています。
 そういう事情を認識し、その後の人生を経て図太くなり、また経済的地位も逆転したハンナが、志において挫折しているトマシュをどう見るかという点は、悲恋ものということとは別に、男と女の物語としても興味深いところです。また、トマシュの側では政治志向での共感はなく、若さと容姿か直感かはわかりませんがそういう部分での結びつきだったわけですから、容色衰え初心さも一途さも失いジコチュウさの目立つハンナをどう見るかも、興味深いところです。トマシュの方はバツイチだし政治的にも挫折しているし、男は一般論として元カノをいつまでも美化して忘れないことが多いということからしても、わりと変わっていても過去の残像でノスタルジーに浸るかもしれませんけどね。どちらにしても、先に述べたように、この作品ではこの肝心要のところが描かれていません。

 いずれの意味でも画竜点睛を欠くという言葉が実感される作品かなと思います。

(2012.8.12記)

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