たぶん週1エッセイ◆
映画「ソラニン」
ここがポイント
 貧乏暮らしの若者の閉塞感を描きつつ暴力や破壊、社会への怨嗟・糾弾は登場しないお行儀のいい映画
 心象を示す映像として多用される空の映像が巧い

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 宮崎あおいと高良健吾の青春恋愛映画「ソラニン」を見てきました。
 封切り4週目日曜日午前中は5割くらいの入り。観客層は若者中心。オープニング週末の興行収入は初登場6位ながら公開1館あたりではトップで、上映している館ではかなり混雑。公開3週目の先週土曜日午後にトライしましたが満席のために見られず、今週は日曜午前でリベンジしました。午前の上映は5割くらいの入りでしたが、2回目は満席だったようです。もっとも、同時上映のアニメ「銀魂」の長蛇の列(こちらは午前中から信じられないくらい並んでました。こちらは、当然、もっと若年層)の前には、色褪せて見えましたが。

 大学時代に軽音楽サークルで知り合ったバンド「ロッチ」のヴォーカル種田(高良健吾)と同棲中の社会人2年目の芽衣子(宮崎あおい)は、会社が嫌になり、もともとコピー取りがやりたいことじゃないでしょと言っていた種田に「やめたいならやめたら。俺がなんとかする」と言われて、勢いで会社を辞めてしまう。芽衣子が会社を辞めたことを知って、これから先の生活が不安だと言い出したフリーターの種田は、芽衣子に挑発されて、バイトをやめてバンド仲間と練習に励みレコーディングしてレコード会社に送った。大手のレコード会社から連絡があり、行ってみると、アイドルバンドのバックバンドをやらないかという話。ためらう種田を尻目に芽衣子が断ってしまう。行き詰まって芽衣子に別れを切り出す種田に、芽衣子はいつまでも一緒だと言ったじゃないと泣き種田も思い直すが、その後ちょっと出てくると言ったまま帰ってこなかった。種田の死に悲嘆に暮れていた芽衣子は、バンド仲間を呼び集め、ギターとヴォーカルの練習を始める。芽衣子は種田の書いた新曲「ソラニン」は恋人との別れの歌じゃない、過去の自分との別れの歌だと思うと、「ソラニン」を歌いたいと言い出すが・・・というお話。

 貧乏暮らしの若者の閉塞感を描いた映画は、どこか70年代の懐かしさを感じさせます。しかし、70年代の映画では普通に見られた、鬱屈をはらす暴力や罵り、友情の破壊といったシーンは、この映画では全く登場しません。また社会への怨嗟、糾弾も全く登場しません。この映画の登場人物は、どこまでもやさしく、自分の人生を自分の範囲で捉え続けます。音楽で世界を変えるという大きな物語が、自分がそして恋人が生きていければいいじゃないかという小さな物語に入れ替わりまたそれを納得できないと思うときでも、自分の夢が実現できないことを社会の問題と捉える場面は全く出てきません。
 世代の違いなのか、70年代の若者が感じていたのが「不満」であるのに対して現在の若者が感じているのが「不安」であるということなのか。

 挑発されても、歌の中で以外は居丈高な態度は取れない種田の態度は、ある種現代の若者を象徴しているのでしょう。その種田の物言いとか、ふだんは同い年の恋人芽衣子を「芽衣子さん」と呼ぶ種田が「芽衣子」と呼ぶシーンの挟み方とか、心象表現が巧みだなと思いました。
 心象を示す映像として、空の映像が多用されています。学生の頃の空は遮るものなく広々と青々としているのに、社会人時代の、また閉塞状況の時の空は曇り、建物に切り取られて狭く映っています。このあたりも巧い。
 お金をかけずにそういう細々したところに配慮を積み重ねて見せている映画だなと思います。

 バンド仲間を説得する芽衣子が、居酒屋ではありますが酔っている雰囲気でもないのに、気持ち悪くなって吐きに行くシーン。これって、このシチュエーションで入れたら、妊娠してるぞっていうのがお約束だと思うんですけど。
 種田のお父さん(財津和夫)。子どもが亡くなって遺品整理に来るのはわかりますけど、同棲している恋人がいるのに、一切合切持っていくでしょうか。
 「鮎川」を「さばかわ」と読み続ける大学6年生のベーシスト加藤君って・・・

(2010.4.25記)

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