庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「ステップ」
ここがポイント
 美紀が奈々恵をどう受け容れていったのかわかりにくくそれでいいのかなぁと思う
 ラストシーンの原作との違いは微妙な違いでも作品のコンセプトに影響すると思うのだが
  
 妻に先立たれ残された幼い娘を育てるシングルファーザーの思いを描いた重松清の小説を映画化した映画「ステップ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿バルト9シアター2(137席/販売68席)午前10時50分の上映は20〜30人の入り。

 妻朋子の1周忌を終え、2歳の娘美紀(2歳時:中野翠咲/6〜8歳時:白鳥玉季/9〜12歳時:田中里念)を保育所に預け、残業せずにすむ総務部に異動してもらい復帰した武田健一(山田孝之)は、営業部時代の上司から度々営業部への復帰を誘われながら断り、美紀と2人での生活を続ける。保育所ではケロ先生(伊藤沙莉)からパパの抱っこは忙しいと何でもなくただ抱きしめることの大切さを指摘され、小1では担任から母の日の絵を描かせるように求められて朋子に似たコーヒーショップの店員(川栄李奈)の手を借り、というように周囲の助けを受けながら日々を過ごしていくが、営業開発部で部下となった斎藤奈々恵(広末涼子)と親密になり、美紀と顔合わせをした際、美紀は上機嫌で奈々恵と話すがうちに帰ると吐いてしまうということを繰り返し…というお話。

 シングルファーザーの立場から、あるいはその周囲の親族(義父母、義兄夫妻)から見た幼子を育てともに暮らすことのしんどさ・困惑・喜び、故人を介した人間関係の維持と再構成がテーマです。
 自分の体験から娘が幼かった頃を思い出し投影して見てしまいますので、私だったら娘が無理をしてハイテンションで振るまい後で吐いてしまい、それが繰り返されたところで、もう無理、美紀無理しないでくれパパが悪かった、奈々恵さんごめんなさいとなると思いました。原作でも映画でも、美紀がもう奈々恵とは会えない、2人で会ってくれ、自分は中学に行ったら横浜の祖父母のところに行くから2人で新婚してくれとまで言い、健一が日曜日の朝に奈々恵を呼んで朝食をともにして突破を図り、その後度々訪れる奈々恵に美紀もわだかまりなく馴染んでいるように描かれ、美紀の心の変化、美紀がどう折り合いを付けていったのかはよくわかりません。子どもは日々成長していく、時間が解決するというような理解をすべきなのでしょうか。現実の人生でも子育てでも、よくわからないままに反発することも受け容れることもあり、それが人間ともいえますけど、見ていて今ひとつわからず、またこれでいいのかなぁと思いました。

 原作とは、ケロ先生のパンチラがない(笑)とか、原作では色づく前のあじさいを緑色の花と言っていたのが映画では散った後の桜に変わっているとか、盆に美紀や義父母義兄夫妻とともに義母の郷里を訪れた健一が原作ではひとり東京に戻り見合いをするのに映画では見合いを予め断っているとか、原作では子どもが目を離した隙にベランダから転落死してそれが奈々恵の心の傷になっているのを映画では死産に変えているとか、映画では義父が引退後ボウリングを始める、美紀が病室を訪れた際義父がパジャマでなく背広を着ているなど、いくつかの点で変えられています。
 ラストシーンも、見方によっては大差ないのかも知れませんが、原作では学校へ送る道の途中で美紀は友達とともに先に行っちゃうねと走り去り、娘はいつまでも子どもじゃないと健一は喜び半分寂しさ半分で見送るのに対し、映画では通学路を美紀と健一がかけっこして、これからもずっと一緒だという印象です。どちらも美紀が学校へ駆けていくシーンなのですが、けっこう作品のコンセプトを左右する違いに思えます。
(2020.7.19記)

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