庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「ダンスウィズミー」
ここがポイント
 ダンスシーンは、爽やかに美しい三吉彩花の世界と、その後周囲から見た現実のギャップで2度楽しめる
 自由に歌い踊ることもできない社会の息苦しさへの疑問が、たぶん、テーマになっている
 音楽を聴くと歌い踊り出さずにいられないカラダになったOLの困惑を描くコメディ・ミュージカル映画「ダンスウィズミー」を見てきました。
 公開初日お盆の金曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前10時40分の上映は、8割くらいの入り。

 無理をして一流企業に入社した鈴木静香(三吉彩花)は、同僚OLの憧れの的の先輩村上涼介(三浦貴大)に頼まれて月曜の会議のプレゼン資料を持ち帰り残業でようやく仕上げ、日曜に預かった姪を連れて訪れたイベントで、学芸会でミュージカルをやるのでミュージカルがうまくなりたいという姪に引っ張られて入った小屋で催眠術師マーチン上田(宝田明)の催眠術を受け、音楽を聴くと歌い踊り出さずにいられないカラダになってしまう。村上のプレゼンの最中に新企画のデモ音源が再生されると静香は踊り出して職場を大混乱に陥れるが、会議ではそれがウケて企画が通ってしまい、感心した村上は静香を村上のチームへと引き抜く抜擢を決める。職場から逃げ出して医師の診察を受け、結局かけた催眠術師に解いてもらうしかないといわれて失意のうちに帰宅した静香は、家の前で待ち伏せしていた村上から抜擢を告げられ、1週間の余裕を求め、その間に催眠術を解いてもらおうと考えるが…というお話。

 三吉彩花がバックダンサーらを従えて踊るシーンの爽やかな美しさ、軽快さに加えて、通常のミュージカルでは見られない、自分だけの世界に入り込んでいる(よそにイッちゃってる)妄想の美しいダンスと、周囲からの覚めた目で見た現実のギャップで笑いを取る場面が見せ場になります。
 象徴的な場面で使われている「狙いうち」の音声が、随所でひずんでいる(「心臓めがけ」の「めがけ」とか、「パァッと狙いうち」の「ち」あたりとか…)のは、手元にあるひずんだLP盤に愛着があるとかの事情でしょうか。
 それにしても、「狙いうち」(山本リンダ、1973年)、「年下の男の子」(キャンディーズ、1975年)、「ウェディングベル」(シュガー、1981年)などに、1996年生まれの三吉彩花が反応して歌い出すというのは、無理があるように思います。

 キャッチや予告編からは、ダンスシーンがもっと多いのかと思えましたが、後半は、むしろ自分探しのロード・ムービーへと展開し、予想とは違うイメージでした。
 繁忙期に3日間有休を取っただけでいたたまれずにやめざるを得なくなるような会社(そこでもあくまでも批判しているのは同僚のOLで、会社がクビにしたとか退職に追い込んだとかいうような、企業を悪者にするような表現は慎重に回避されているのですが)に背伸びして勤め続けるべきか、自由に歌を歌ったり踊ったら白眼視されるような息苦しい社会、それを周囲の者が録画して投稿/告発して、メディアがそれを取り上げネタにして非難するような社会(ここでも非難・監視しているのは周囲の一般市民とメディアで、権力による監視・圧力は描かれていないのですが)でいいのかという疑問が、静香の自分探しを題材に呈されていて、たぶん、そちらがテーマになっているのだと思います。
 老いて力が衰え、自信も失い、しかし過去の栄光を忘れられずにサクラを使いながらインチキ催眠術の興行を続けるマーチン上田/コーチン名古屋の小狡さと哀れ、自信を回復したときの一瞬の輝きを合わせた生き方も、特におじさん世代には、ちょっと考えさせられるテーマになっているように思えます。 
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(2019.8.16記)

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