庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

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  司法試験

 どうして弁護士になろうと思ったのですか、という質問をよく受けます。この質問は、私の場合、なぜ司法試験を受けようと思ったのか(法律実務家になろうと思ったのか)と、なぜ(裁判官でなく)弁護士になろうと思ったのかの2段階に分かれるわけですが。
 質問をする人が、私の経歴ややってきた事件から考えて何か高尚な理念を語ることを期待していることが見えていますので、失望させて悪いなぁと思いながら本当のことを言うか、はぐらかすかしています。

 私は2回生までは、司法試験を受けようと思ったこともありませんでしたし、法律の勉強なんてほとんどしていませんでした。何をやっていたかは、別の機会に書くでしょうけど、サークルや自治会の活動、コンパや麻雀などに明け暮れていました。
 2回生の夏に知り合いつきあっていた年上の彼女がいました。後で司法試験の本番でお世話になった先輩が、受験生時代に通っていた道すがら時々見かけて憧れていた「古手川祐子似」の人がいると聞かされ、その家の場所を聞いて肝を冷やしました。その家に出入りする姿をよく目撃されなかったものだと。その彼女が3月に遠方の郷里に戻ることになり、会えなくなりました。
 それで3回生の春から、心機一転して法律の勉強をしようという気持ちになりました。有り体に言えば、失恋の痛手から逃げるように、心の空白を埋めるように法律科目の授業を受け始めました。
 そして法律の勉強を続けるうちに、それ以前から企業に入って企業のために働くことに、自分は向いていないと感じていたこともあり、まわりの多くが受験することもあり、受験しようという気持ちになりました。当時の司法試験は、2万数千人が受験して4百数十人が合格する、合格率2%の試験でしたが、わりと簡単に考えていました。

 当時の京都大学法学部では、「さつき会」という学生のサークルが、その年の司法試験合格者にチューターをお願いして週1回程度の勉強会を開いていました。私は、司法試験の必須科目で方向としてはあまり馴染まない商法科目で参加しました。商法の中で特に手形・小切手はほとんど形式論理で詰めていく科目なので、中身に関心は持てませんでしたが、理屈の展開だけは得意な私はチューターから君は司法試験に向いてるよとおだてられ自信を持ちました。
 3回生の時は、申込みの時期も知らずに受験できなかった私は、4回生の択一式が、初めての司法試験受験でした。私は、自分の受験集中力が持つのは3ヵ月と踏んでいましたので、2月はじめから択一試験用の受験勉強を始めました。当時は、受験科目(憲法・民法・刑法の3科目)の模範六法(判例付き六法)を周囲に大きく白い余白が出るようにコピーし(そのためのコピー用の型紙もコピー屋さんにありました)、余白に過去問(中央大学真法会発行)や応用、関連項目を書き込んでいく方法がオーソドックスでした。ほぼ下宿にこもって一日14〜5時間はそういう作業と憲法・民法・刑法の基本書の読み返しに明け暮れました。
 択一が終わると2ヵ月あまりで論文になります。当時は必修科目が憲法・民法・刑法・商法と訴訟法1つ(刑事訴訟法か民事訴訟法)で法律選択科目1つと教養選択科目1つの7科目受験でした。私の選択科目は刑事訴訟法、国際私法、社会政策です。何の脈絡もない選択がなぜなされたかというと、刑事訴訟法は、もともと関心がある科目でゼミも刑事訴訟法ゼミですから、これは当然。国際私法は、当時の京都大学では3回生後期から4回生前期の1年間のゼミの前に、半年間「予備ゼミ」というカリキュラムが用意されていました。私は、法律の勉強を始めた直後でもあり、やはり一番勉強が大変な民法をいろいろな機会を捉えてやった方がいいだろうと思い、「民事法」と書いてあった溜池先生の予備ゼミを選択しました。溜池良夫先生は、国際私法(国際的な民事紛争にどこの国の法律を適用すべきかを判断する学問です。念のため)の重鎮で、国際私法科目の2人しかいない司法試験委員の1人でした。集まった学生はみんな司法試験のために受講していて、初回に「え〜っ、ここ民法じゃないんですかぁ」なんて言ったのは私だけでした。実に失礼な話ですが、例によって、始めてしまえば一生懸命やるタイプの私はその半年間でしっかり国際私法をマスターしました。他方、教養選択の社会政策は、はっきり言って科目の内容もよくわからないまま、一番楽だといわれていたので選択しました。これが後で落とし穴となるのですが。
 それはさておき、憲法・民法・刑法だけに集中した3ヵ月の後、論文試験までの2ヵ月あまりの間に商法、刑事訴訟法、国際私法を頭にたたき込まねばなりません。一番不安なのは商法でした。私は、刑事訴訟法ゼミで司法試験に受かりそうな同期生に声を掛けて勉強会をすることにしました。5人で憲法・民法・刑法・商法・刑事訴訟法の1科目ずつを担当してレジュメを作ってレポートすることにして、私は商法を担当しました。自分自身を商法を全部勉強しなければならない状況に追い込むことに主眼がありました。
 論文試験は、京都会場はなく、関西大学まで受験しに行きました。夏の暑い盛りに冷房なしで、汗っかきの私は汗をだらだら流し、答案にも汗がしたたり落ちたり汗まみれの腕や肘と接触して答案がにじんだりして、答案はぐちゃぐちゃでした。ああいうのを偉い先生が読んで採点すると思うと申し訳ない気持ちになります。1回目の論文試験は、ただ暑かったなぁということぐらいしか記憶に残っていません。
 論文試験後発表までは、5人の勉強会で来年に向けて勉強を続けていましたが、論文試験の発表があり、その勉強会から青山吉伸君と私が受かってしまったので、私の商法と青山君の刑事訴訟法までやったところで、事実上勉強会は流れ解散になってしまいました。京都大学全体では、4回生では西村健君とあわせて3人が論文試験に合格しました。
 司法試験の最後の口述試験については、当時、概ね1割が不合格となっていましたが、世間では多数回受験している高年齢者を落としているのだと言われていました。ですから、まわりからは、4回生21歳(私は早生まれなもので誕生日がまだ来ていません)が落とされることはあり得ないと言われていました。
 私は、東京に行くのが初めてで不案内ですし、ホテルに泊まるのもほとんど経験がなく(たぶん、その前の経験は京大の受験の際で、その時は慣れなくて寝付けず最悪でした)、当時司法修習生だったさつき会でチューターをしてもらった先輩の新婚家庭(!)に泊めてもらい、そこから試験会場に通いました。ほんの1年前に現実に口述試験を受験した先輩から口述試験の実情を聞きながら受験できるのですから、私としてはベストの選択をしたつもりです。
 しかし、私は口述試験で落とされました。当時、私は後ろ髪を背中まで伸ばし、ボロボロのジーンズやオーバーオールで過ごしていましたから、大学では、伊東は長髪のままで面接に行ったんだろうとかスーツも着ずに行ったんだろうと噂されました。また、新婚家庭で毒気に当てられたんだろうと、特に当の先輩が気にしていました。そういうことではありません。もちろん、東京に行ってすぐ散髪もしましたし、スーツを着てネクタイをして面接しています。では、どうして不合格となったのでしょう。口述試験は、いわゆる面接ではありません。挨拶をして座ったらすぐに法律問題を聞かれるのです。論文試験では、時間内に答案さえ書ければ、相当長時間悩んでいてもかまいませんし、現に私は考え込んだ挙げ句に一気に書き抜くことが多いのですが、口述試験はすぐに反応しなければなりません。まじめに法律の勉強を始めてからまだ1年半の知識量では無理があったのだと思います。社会政策の口述試験で、社会政策なんてほとんど勉強したこともない私は、試験官から社会保険のことを聞かれてわからず、ビバリッジ報告を読んだことがあるかと聞かれ、聞き覚えはあったのではいと言ってしまい、その後矢継ぎ早に質問されてほとんど答えられず、「すみませんでした」と言って帰りました。後から聞いた話では、当時の口述試験では1科目でも×があると落とされ、試験官は一定の割合で×を付けなければならないので悩ましいということでした。試験官からすれば、質問にほとんど答えられない上に自分ができなかったことを認めて帰った私は安心して×を付けられる相手だったでしょう。私も、1科目×でも落とされると知っていたら社会政策ももっときちんと勉強していったはずですが。不合格後、溜池先生に報告に行った際、溜池先生が本当に驚いた様子だった(もちろん、溜池先生は私の口述試験での国際私法の試験官の1人です。口述試験の試験官は2人ずつ班分けして担当する以上、2人しか試験委員のいない国際私法では必ず当たります)ことからも、少なくとも同期生たちがささやく態度等の話は、関係がないと思います。

 その年、京大で口述試験に落ちた人が6人ほどいました。それまで存在も知らなかった口述試験の過去問(早稲田司法試験セミナー発行)を買って、勉強会をすることになりました。
 また、この年から、京大の学生たちの主催で答案練習会が開かれることになりました。その年の合格者が出題・採点・講評するもので、君は無料にするから来てくれと言われました。論文試験では一緒に合格した人々に採点されるのも・・・という気持ちもありましたが、下宿にこもっているのもくさくさするので参加しました。参加してみると、他人の答案を読めるのが、自分答案を考える機会となりました。私の答案は、トップクラスの点を取ることもあれば平均以下のこともあり波がありました。確実に論点を押さえて無難にまとめるというのが苦手でした。私の答案が参考答案として配られるときも、この答案は説得力があるけどクセがあるのでみなさんはマネをしないようにというような講評付きで、無難な参考答案もあわせて配布されることが何度かありました。今さらスタイルを変える気になれませんし、論文試験はこの自分のスタイルで通っているのだしという思いがありましたが、積極的に書き込みたいことがない問題の時にはこういう無難なことを書けばいいんだなというふうには思いました。
 受験科目の基本書の読み返しと自分で作ったサブノートの充実化、社会政策についてはサブノートの作成と、口述試験の過去問の検討を続け、知識量はけっこうなものとなったと思います。2度目の論文試験で、刑法の問題で偽証罪の性質論が出題されました。私は刑事法は、学生時代は少数派の平野説・中山説でした(弁護士としては、事実上学説は関係なくなっちゃいますので)が、試験委員の東北大学の阿部教授が直近の受験雑誌「法学教室」でその偽証罪についての平野説を批判する新たな根拠を展開していて、こんな生臭い問題出すかなぁと思いました。1度目なら、そんなもの絶対に目を通しておらず何のためらいもなく平野説で答案を作成していたはずです。2度目の私は、その時には仕方ないなぁと思い、阿部説で書く腹を固めて、阿部説を書いてそれに対する平野説の批判を描き、さらに平野説に対する阿部説の再批判を書きました。ここで止めるのが模範答案なんでしょうが、そこまで書いて私はどうもストンと落ちないものを感じてその場で考え込み、阿部教授の批判に対する再批判をその場で展開してしまいました。こういうことをしてしまうのが、私の世渡りのへたなところです。各科目の点数はわかりませんが、それでも2度目の論文試験も合格でした。
 2度目の口述試験は、一緒に勉強していた口述試験不合格グループの人が手配してくれて、試験会場付近のホテルに泊まり、淡々とこなしました。今度は特に失敗もなく、無事に合格しました。

 1度目の時は、司法試験なんて受験しないグループには顔が売れていたけど司法試験受験組の間ではまったく無名だった私の論文試験合格は驚きを持って迎えられましたが、2度目は答案練習会等を通じて受験組の間でも存在が知られ(若手におもろい答案を書くヤツがいる)、司法修習などでの人脈作りにはよかったかなと思います。また、それまでおよそ試験というもので不合格となったことがなかった私が試験の敗者の立場を知ることも、たぶん私の人生の中では肥やしとなったと思います。そう思わないとやってられない1年でもありましたが。

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