庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「それでも夜は明ける」
ここがポイント
 絶望的な状況でもあきらめない意志とその尊さがテーマ
 例外的なエリート黒人の物語で、他の奴隷への視点が弱く、他の奴隷特にパッツィーのその後も描かれないことには不満が残る
 解放が奴隷たちの協力や努力によってではなくプロデューサーでもあるブラッド・ピットが正義の味方として立ち現れることでもたらされるのは興ざめ

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 第86回(2014年3月)アカデミー賞作品賞受賞作「それでも夜は明ける」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿武蔵野館1(133席)午前10時の上映は8〜9割の入り。

 1841年、ニューヨーク州サラトガに住むバイオリニストの自由黒人ソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、妻が3週間あまり仕事で娘とともに出張中、バイオリンの興行を誘ってきた白人に連れられて演奏旅行に出る。その終わりに飲まされた酒に酔いつぶれ目が覚めると、ソロモンは鎖につながれ、見知らぬ男たちからお前は南部から逃げてきた奴隷だと言われ、否定すると執拗に殴打された。ソロモンはニューオリンズに運ばれて奴隷として売られ、当初は比較的良心的な白人フォード(ベネディクト・カンバーバッチ)の下で材木の運送などで知恵を出して重宝されるが、現場監督のティビッツ(ポール・ダノ)に言いがかりを付けられ反抗して恨まれ吊されたところを監督官に危うく救われる。フォードからティビッツはお前を殺すまでつけ狙うだろうと言われ、借金返済のために残忍な白人エッブス(マイケル・ファスベンダー)に売られたソロモンは、綿花摘みと、収穫が平均より低い者として鞭打たれる日々を送り…というお話。

 突然理不尽な犯罪によって監禁され、奴隷制度のある南部に送られて12年間奴隷として拘束され強制労働をさせられつつ生き延びて生還したというストーリーで、絶望的な状況でもあきらめない意志とその尊さが描かれています。
 この映画について、ソロモンが人間の尊厳を捨てなかったという紹介がなされがちですが、仲間が殴打されるのを黙認する様子や最後にはパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)を鞭打つ場面からしてそのような評価には疑問があります。生き別れたというかむりやり引き離された妻子との再会のためにも、何としても生き延びるという意志と忍耐がテーマとみるべきで、むしろそのためには尊厳や矜持を捨ててでも耐えようとしたと評価した方が実態に合うと思います。
 自由黒人であり奴隷ではなかったのに理不尽に奴隷として拘束されたという設定は、当時の法律からしても明らかに違法なできごとで、衝撃的なのでしょうけれど、ソロモンはそれ故に12年後とはいえ自由の身に戻れたわけです。奴隷の多くはもともとアフリカで自由の身だった者が拉致監禁されてアメリカに連行され、あるいはその拉致監禁された奴隷の子どもとして生まれた者たちなのに、当時のアメリカの南部の法律では合法的に奴隷と扱われ、ソロモンのようにそこから抜け出すことはできませんでした。自由黒人だったソロモンが、理不尽に奴隷として拘束されたというストーリーからは、他の奴隷たちの理不尽な扱いへの視点が抜け落ち曇ることにならないか、やや危惧感を持ちました。
 実話に基づく作品ということなので、ソロモンと一緒にいた黒人奴隷たちがその後どうなったのかが描かれないのも、作品を見ての感想としては不満が残ります。高圧的で残忍なエッブスの下で生き抜くために綿花摘みに精を出しレイプにも耐え続けつつ、耐えられなくなってソロモンに殺してくれと頼んだパッツィーのソロモンの帰還の際の表情を見るにつけ、パッツィーの境遇の哀しさとそれに対する同情とともに、その後を描かずに終わるこの作品への欲求不満・不完全燃焼を感じます。
 そして、ソロモンの生還は、ソロモンのチャレンジや努力によってではなく、たまたまエッブスに雇われて工事をしに来た開明的なカナダ人のバス(ブラッド・ピット)によってもたらされます。多くの奴隷とは違うエリート黒人の物語で、しかも本人の努力によってではなく解決するという結論が、プロデューサーでもあるブラッド・ピットが正義の味方となって立ち現れるという役どころと相まって、私にはちょっと感動を削いだ感じです。奴隷制度の理不尽さを描くにしても、普通の奴隷が奴隷たちの協力と努力で解放または逃亡を勝ち取るという展開の方が、私には素直に感動できたと思うのですが。
(2014.3.16記)

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