◆たぶん週1エッセイ◆
映画「ホモ・サピエンスの涙」
オチのない断片的なシーンの羅列に耐えて、全体で人間という存在の寂寥感等を味わえるかが大きなポイント
身勝手なユーザーを専門家が放り出すシーンに、専門家側に身を置く者としては痛快感と後ろめたさを感じた
2019年ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作品「ホモ・サピエンスの涙」を見てきました。
公開3日目日曜日、メイン上映館にして現時点で全国4館、東京で2館の数少ない上映館の一つ、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前11時35分の上映は、3割くらいの入り。
丘の上の公園のベンチに座り街を眺めるカップル、妻のために料理をすべく買い物をして階段を上るうちにかつての友人に出会って声をかけるが無視される男、給仕中にボォーッとしてワインをグラスから溢れさせるウェイター、窓の外を眺める広報担当の女、ベッドに貯めた金を隠している男、十字架を担いだ男を吊せ吊せと囃し立てむち打ち蹴飛ばす群衆、手に釘を打たれた夢を見て精神科医に神の存在に自信が持てなくなったと相談する牧師…といった具合に、あまり脈絡ないシーンをつなぎ合わせた実験的な映像作品。
冒頭の丘の上の公園のベンチに座るカップル、これには予告編では「やっぱり、愛がなくっちゃね。」という字幕がかぶるのですが、これが、「もう9月ね」「うん」というだけで終わった(「やっぱり、愛がなくっちゃね。」という台詞もない)時点で察すべきですが、ただ様々な状況を示しただけで、大半は何が起こるでもなく、何かが起こった場合でもオチは付けられずに次のシーンに移るということが繰り返されます。信仰を失った牧師と、その相談相手の精神科医、友人に無視された男は複数の場面で登場しますが、ほとんどのシーンは別のシーンとは関係づけられず、そのまま終わります。群像劇として最後には1つの物語に収斂していくことを期待してみていると、完全に裏切られます。進行からして、見ていてふつうはそういう期待を抱くに至らないとは思いますが。そういう作品ですので、ストーリーがあるのが当然と考える、アメリカや日本のふつうの観客、ましてやオチがない話など考えられない関西人が見ると「なんやねん、これ!」と思うでしょう。
ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞と、予告編等で使われているいかにもシャガールの絵のような廃墟となった街の上空を漂うカップルの映像につられて見に行くと、期待はずれに終わります。
各シーン自体に意味があるというよりは、人の行為、特に意味があったりおかしかったりするわけでもない言動を端から眺めて、人間という存在と人生の倦怠感、徒労感、寂寥感などを漠然と味わう、そういう作品として受け止めるべきものです。
一つ一つのシーンにさほどの意味が持たされていない中で、信仰を失った/信仰に疑問を生じた牧師の一連のエピソード以外では、終盤に、診療時間終了時に牧師がアポなしで精神科医を訪れて今すぐ診てくれとゴネ続けて追い返されるシーンと、歯医者にかかって注射はイヤだと麻酔を拒否して歯医者が仕方なく麻酔なしで治療を始めると痛いと叫ぶ患者に歯医者が嫌気がさして帰ってしまうシーンが続くのが印象的でした。身勝手なユーザーがなんとかしろと無理を言う場面で、いずれも専門家が拒否をしてユーザーを放り出しています。プロならなんとかしろと甘えてわがままを言うユーザーは、どの業界にもいる(そういう人は客と言えないと評価してもいいんですが)ので、専門家側に身を置く者としては、この場面、ある種、痛快に思えるとともに、他方で、客観的にはともかくその人の主観面では追いつめられてわがままなことを言っていると思われるユーザーに、プロとしてサポートしなくていいのかというどこか後ろめたい気持ちも感じてしまいます(そう思ってしまうことが、クレーマーにつけ込まれたり、自分の健康を害する原因となるのですが)。
(2020.11.22記)
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