庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「アフターサン」
ここがポイント
 ソフィの振る舞いは、娘を持つ父の視点で見るととろけるように愛くるしい
 示唆されているカラムの内心とのギャップの重さ、フランス映画と見まごうラストを楽しめるか…
    
 11歳の時に父と過ごしたバカンスのビデオと記憶で父を偲ぶ映画「アフターサン」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター5(157席)午前10時35分の上映は8割くらいの入り。

 両親の離婚で離れて暮らしている父カラム(ポール・メスカル)の31歳の誕生日を控えたバカンスを父と2人でトルコのリゾートホテルで過ごす11歳の娘ソフィ(フランキー・コリオ)は、父にビデオカメラを向けてインタビューをしたり、初めてのスキューバ・ダイビングを楽しみ、若者たちを交えたビリヤードや同年代のマイケルとのレースゲームに打ち興じるが…というお話。

 公式サイトのキャッチで「20年前のビデオテープに残る、11歳の私と父とのまばゆい数日間」とあり、予告編のテロップで「20年前 11歳の私 30歳の父」、ナレーションで「20年前、2人で過ごしたまぶしい時間」とされ、イントロダクションで「11歳のソフィが父親とふたりきりで過ごした夏休みを、その20年後、父と同じ年齢になった彼女の視点で綴る」とされているのですが、映画自体には、これが20年前のことだということは明示されていないように思えます。私が見逃しただけかも知れませんが。また、現在、ソフィがビデオを見ながら父を偲んでいるということさえ、終盤にそれを示唆する場面がわずかにあるだけです。
 さらに、ソフィがどうして今父を偲んでいるのか、言い換えれば父がその後どうなったのかも、説明がなく、終盤に近い夜のカラムの単独行動を示唆と見るか、ラストシーンのカラムの向かう先をその示唆と見るかという程度(あとは、終盤に挟まれている「手紙」がいつ受け取ったものと理解すべきかとか、でしょうか)で、観客が解釈してくれというか察してくれという様子です。

 ソフィは、父に反発する場面もないではないですが、基本的にパパ大好きの姿勢で、娘を持つ(あるいは子を持つ)父の立場で見ると実に愛くるしい、とろけるような思いに浸ることができます。観客の立場からすれば、こんなに可愛い娘と幸せな時間を過ごしているのだから、何が不満なのかと思いますが、ソフィがいない場面のカラムは、ひとりでこっそり高価(850ポンド:15万円弱)なペルシャ絨毯に寝そべって思いにふけり、夜の海をさまよい、誕生日を祝ってもらった夜に泣き崩れと、悩み満たされない様子を見せます。カラムがどのような心情にあったのか、その理由は、カラムからの説明がないので、観客の方で察するということになるのでしょう(偲んでいるソフィからはますます見えないところでありましょうけれども)。
 そのあたりのソフィの愛らしさ微笑ましさと、カラムの内心のギャップを見る作品になるので、単純に楽しいという気持ちにはなれず、哀しさが募ることになります。

 ビデオ画像は子どもが撮影しているという設定で乱れていますし、全体のカット割りが、概ね不自然に長めでふつうここで次のカットに行くよねと思うところよりも2テンポくらい遅れて、ここで切らない以上何かが起こるかなという期待を裏切って次に行くところが多く、「余韻」よりは「違和感」を残します。おそらくは、そこにもこのバカンスは見えているとおりの楽しいバカンスではないという感覚を生じさせる狙いがあるのでしょう。
 ラストは、尺も考えるとフランス映画ならここで終わるかもと思った瞬間にそこで終わってしまいました。えぇと、これアメリカ映画だったよねと、説明のなさ、おちのなさに少し釈然としない思いを持ちました。一緒に観た人は、金返せと…。
 そのあたりの、説明はしないけど自分で考え/感じてねというところを、それでいいかと思うか、不親切と思うかで大きく評価が分かれる作品だろうと思います。 
(2023.5.28記)

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