庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「青くて痛くて脆い」
ここがポイント
 人と距離を置き消極的な自己認識と自己中で攻撃的な現実の言動のギャップがテーマ
 原作からの変更点は、映画の方がわかりやすいが、若干肌触りの違いも感じられる
  
 サークルを離脱した学生がサークルの「変質」に憤り潰そうとするという青春サスペンス映画「青くて痛くて脆い」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター6(232席/販売112席)午前11時25分の上映は、70人くらいの入り。観客の多数派は1人客、次いで女性の2〜3人組、カップルが数組というところ。

 大学の授業で質問と言って「この世界に暴力はいらない」「みんなが武器を捨てれば戦争はやめられる」などの意見を繰り返す秋好寿乃(杉咲花)から声をかけられて行動を共にするようになった田端楓(吉沢亮)は、いろいろなサークルに顔を出しては雰囲気が違うという秋好と2人で「秘密結社」モアイを立ち上げる。「世界を変える」「なりたい自分になる」ことを掲げて、秋好と田端はフリースクールでの慰問等のボランティア活動を続けるが、秋好の活動を評価して近寄ってきた院生脇坂(柄本佑)のサポートでモアイのメンバーが増え、さらに秋好と脇坂が付き合い始めたことを知り、田端はモアイを去った。3年後、就活を続け内定を取った田端は、友人の前川董介(岡山天音)に、就活サークルとして巨大化したモアイはもともと自分と友人が作ったが、その友人は死に、モアイは変質した、モアイを潰して元のモアイを取り返したいと言い、前川の後輩のポンちゃん(松本穂香)を利用してモアイの内情を偵察し始めるが…というお話。

 「人に不用意に近づきすぎないこと」「誰かの意見に反する意見をできるだけ口に出さないこと」を人生のテーマにし、自分から誰かを不快にさせる機会を減らし、不快になった誰かから自分が傷つけられる機会を減らしたいという行動原理をとっているという自己認識の田端楓が、当初は自分にちやほやしてくれつきまとってくれていた秋好がかまってくれなくなると拗ねてサークルを離脱した挙げ句、自分の手を離れて相手が大きくなったことが気に入らないと陰湿な攻撃を試みるという、本人の自分は消極的でまっとうな人物という主観と、身勝手で自己中なかまってちゃんが逆ギレして攻撃するという客観的行動のギャップがテーマであり、見せどころなのだと思います。共感はできませんし、見ていて愉快ではありませんが。

 冒頭からラストシーンまで、基本的には原作どおりの点が多いのですが、重要な変更も見られます。
 原作では、秋好について「この世界にはいない」と繰り返し、「死んだ」という言葉は慎重に避けられているのですが、映画では「もうこの世界にはいない」という原作どおりの表現もされてはいますが、田端がモアイを一緒に作った友達は「死んだ」と明言しています。「この世界にはいない」と「死んだ」は同じだと映画制作サイドはみなしたのでしょうけれど、作者は、ここ、こだわりを持っていたんじゃないかと思います。「君の膵臓をたべたい」でも「僕」の名前を終盤まで隠し続けたのと同様、観客/読者からはさしたる意味が感じられないところにこだわっているという感じではありますが。
 それに関連して、モアイの現在のリーダーについて、原作は「ヒロ」というあだ名で紹介し、実名での記述を可能な限り遅らせようとしていますが、映画ではそういう配慮はなく、わりと早い時期に登場します。
 原作では、田端と秋好が2人でやっている頃の活動は、世界中のスクープ写真を展示した展覧会に行ってみたり、ヘイトスピーチへの反対を訴え続ける作家の講演会に行ってみたり、戦争についてのドキュメンタリー映画を観に行ったり(42ページ)ということで、秋好の発言と合わせて反戦志向が表現されていますが、映画では原作にはまったく登場しないフリースクールの慰問に差し替えられて、政治的な色彩が削除されています。
 秋好の交際相手は、原作では「モアイ関係で僕の知っている人間だった」(137ページ)とはされていますが、それが誰かは書かれず、もうすぐ2年生になる頃に「食堂に行くと、時々秋好と脇坂が一緒に食事しているのを見ることがあった」として8行空けて「秋好はモアイに恋に勉強にと忙しそうだった」とされて(187ページ)ほのめかされているとも言えますが、脇坂が登場する場面で秋好の恋人とか元彼という記述はなく、明言はされません。映画では脇坂が秋好の交際相手だと秋好が認め、脇坂も秋好と1年間つきあったと述べています。
 田端がモアイを去ったきっかけは、原作ではモアイの集会で出た意見を秋好が「現実的には厳しい」と、現実を持ち出して理想を否定したことに驚き、その日を最後に参加しなくなったとされている(189〜190ページ)のに対し、映画では秋好と脇坂が交際していることを知ったのがきっかけと示唆されています。
 原作では、田端はモアイの部室があるのかどうかも知らない(284ページ)というのですが、映画では部室の前に何度か現れ、夜間に忍び込みます。
 モアイ攻撃についても、原作にはないモアイについてのビラまきが追加され、田端の反省の弁が、原作では5年後にモアイの交流会に呼ばれた場で語られるのに対し、映画ではリーダーによる報告会直後にネットの書き込みでなされます。
 総じて、原作では踏み込まずにぼやかした設定・展開をしているところを、映画ではまぁこういうことの方がわかりやすいよねって解釈で作っている感じで、実際、映画の方がわかりやすい(原作での作者のこだわりに意味を見いだしにくい点も多い)のですが、原作と映画で少し肌触りの違いを感じました。
(2020.8.30記)

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