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たぶん週1エッセイ◆
映画「キャタピラー」
ここがポイント
 反戦の描き方として、私は、「ジョニーは戦場に行った」の方が訴えるものがあるように感じる
 あえて原作から変えた妻の心の変化(離反)が、わがままな夫の態度に次第に嫌気がさしてという描き方では、反戦よりも寝たきり老人の介護とかに一般化してしまいそうだし、招集前のDVとかひもじい妻から粥を横取りする姿とか見せられるとこの夫の個人的な問題に原因を求めてしまいかねない

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 若松孝二監督の反戦映画「キャタピラー」を見てきました。
 広島での先行上映(8月6日から)を除いて封切りから6週目土曜日午前中の上映は1〜2割の入り。観客は中高年が多数派ですが、若者の姿もちらほら。

 農村から招集されて中国の戦地に渡った黒川久蔵(大西信満)は、四肢を失い耳も聞こえず言葉もほとんどしゃべれない状態で戻ってきた。妻シゲ子(寺島しのぶ)は、変わり果てた夫の姿が信じられず逃げ出すが、夫はお国のために四肢を失うまで奮闘した、軍神だ、妻が貞節を持って支えていかねばなどといわれて気を取り直し、かいがいしく久蔵の世話をし続ける。しかし、食糧不足の状況でも食事の少なさに不平を示し、農作業で疲れ果ててた妻に夜な夜な性交を求める久蔵に対し、シゲ子は次第に反発を感じていく。他方、久蔵もシゲ子にのしかかられて自らが中国で強姦し殺害した女の姿を思い出し恐怖に苛まれるようになり・・・というお話。

 タイトルからわかるように江戸川乱歩の「芋虫」を原作にしています。江戸川乱歩自身は、反戦のつもりではなく極端な苦痛と快楽と惨劇を描きたかった、反戦よりもののあわれの方を意識して書いた、反戦的なものを取り入れたのはこの惨劇に好都合な材料だったからに過ぎない、しかし戦傷軍人の悲惨を描いて戦意を喪失させる性格を持っているのは争いがたく、左翼からは反戦小説として有効だとほめられ国からは戦争中(江戸川乱歩作品で唯一全文)発禁とされたのはやむを得ないと解説しています。この映画は、「芋虫」をこの左翼のスタンスで捉えて映画化したもののようです。
 原作では、妻は夫の世話をするうちに夫を自らの性欲を満たすための慰みものと扱うという形で態度を変えていくことが描かれ、むしろ妻は夫への執着を強めていくのですが、この映画では、夫の横暴への反発で心が離れていくという進行です。

 「芋虫」とは別に、戦争で四肢を失った軍人を描いた反戦映画というと、否応なく「ジョニーは戦場に行った」を思い起こします。
 「ジョニーは戦場に行った」では、第1次世界大戦で「ジョニーよ銃を取れ」のキャッチフレーズで募られた若者たちの末路として、四肢を失い、さらに目も耳も口も鼻も失い触覚しかない状態で実験観察対象として帰還した軍人の姿と、世話をする看護婦との交流が描かれています。基本的には、戦傷軍人の姿をもって語らせ、戦傷軍人の側での後悔と悲しみ、怒りで、反戦を描いています。
 これに対してこの映画では、妻の元に帰された戦傷軍人を周りから、特に妻の側からの視線で描いています。しかも、戦傷軍人はひたすら食欲と性欲を満たすことばかり求め、乏しい粥を妻の分まで横取りするという醜い欲望の塊と描かれます。さらには、招集前も妻に対して石女と罵って殴るようなDV夫で、戦地では農村の女性たちを強姦して惨殺しと、共感のしようもない様子です。中国での自分の悪行を思い出してうなされるところからは、さらに展開させて自身が変わっていくという進行もあり得ると思うのですが、そうは展開しません。中国での悪行から日本の軍人は許したくないという監督の思いがあるのでしょうけど、この映画では戦傷軍人はあくまでも醜い軽蔑の対象と位置づけられます。
 反戦の描き方として、私は、「ジョニーは戦場に行った」の方が訴えるものがあるように感じてしまいました。特に、あえて原作から変えた妻の心の変化(離反)が、わがままな夫の態度に次第に嫌気がさしていってという描き方では、反戦というテーマよりも寝たきり老人の介護とかに一般化してしまいそうな感じですし、招集前のDVとかひもじい妻から粥を横取りする姿とか見せられると反戦のテーマよりもこの夫の個人的な問題に原因を求めてしまいます。
 また、反戦の思いを、戦傷軍人を取り巻く側、特に妻の目線で描くのであれば、むしろ敗戦後の周囲の態度の変化を入れた方がよかったかもしれません。ちょっと描き方難しいかなという気もしますが。

 玉音放送の際に、現代語訳の字幕が付いているのには、時代の流れを感じました。

(2010.9.19記)

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