◆たぶん週1エッセイ◆
カミーユ・コロー展
19世紀フランスの風景画家、カミーユ・コローの展覧会を見てきました。
今回の展覧会の目玉はルーブル美術館所蔵の「真珠の女」「青い服の婦人」「モルトフォンテーヌの想い出」の3点で、ポスター類は「真珠の女」を「コローのモナリザ」と題して載せています。私の認識では基本的に風景画家のコローを、まるで人物画の大家のようにイメージさせた売り方には、行く前から違和感を感じていました。あのポスターだけ見てコローのイメージを作った人は、現実に見たら驚くだろうなと。
コローの絵の主流は風景画で、緑−黒系の樹・林・森と水辺にアクセント程度の小さめの人物が配されているというパターンが、最も手慣れた/美しい絵となっていると、私は思います。
人物画では、若い女性が描かれても肉感的でなく、どこか愁いをたたえた物思いの風情の絵が目を引きます。今回クローズアップされた「真珠の女」にしても「マンドリンを手に夢想する女」「もの思い」「身づくろいをする若い女」にしてもそうです。「真珠の女」は、手の組み方こそモナリザですが、その表情は愁いであって謎の微笑みではありません。この絵、悪くないんですが、コローが気に入って何度も手を加え続けたそうで、髪の部分の黒がそこだけ光の反射加減で妙にテラテラするのがちょっと興醒めしてしまいました。照明の配置の問題かも知れませんが。
コローの風景画では、イタリア旅行時やパリでの都会での風景画のように樹がないものもあります。そういうものの中にも、「ドゥエの鐘楼」のようにハッとさせるほどの美しい建物の絵もあります。
しかし、基本的には都会の絵であっても、樹が描かれている作品では樹の方が光って見えてしまいます。例えば、コローの絵としてはかなり初期の「ローマのコロセウムの習作、あるいはファルネーゼ庭園から見たコロセウム(昼)」(1826年)でも、主題の中央にきちんと描かれたコロセウムもいいんですが、右側、下側に描かれた樹々の美しさにうなります。細部まで描き込まれた葉、枝葉の明暗の取り方など、確かな技術に裏付けられた丁寧な仕事を感じさせます。
コローの樹の描写の、樹だけが巧いんじゃないんですが、描写力を特に感じさせるのは、樹の枝が視界いっぱいに広がる構図の絵です。
「ヴィル=ダヴレー、傾いだ樹のある池」が有名ですが、絵のほぼ中央に右下から左上にかけて傾いた樹の枝を張らせ、空の多くが木の枝越しとなっているいくつかの絵があります。構図の取り方として、普通に考えればよくない構図です。この奇抜な構図は他の画家の興味を引いたらしく、展覧会ではそれを真似た他の画家の絵も並べられていましたが、概ね失敗しています。しかし、このような構図でも鑑賞に堪える絵に仕上げてしまうところがコローの腕だと思います。
結果としてそれ自体が名作とは思わないのですが、今回の展覧会で「緑の岸辺」という作品を初めて見ましたが、これがいかにもそういう意味ですごい。森の中に右下に小川のような小さな水辺を配し、左下に小さな人物を配し、そして上部は樹の枝葉に満ちて空はそのすきまに見えるだけ、視界いっぱいに緑の樹という構図です。こういうテーマならば普通、右側の水辺は目につくようにコントラストを付け、上部は空をそこそこの大きさで切り取った構図にしないと描きにくい。並みの画家に描かせたら、この構図では見るに堪えない絵になると思います。この構図で、全体の配色も概ね緑系で描いて、きちんと絵として成立させているところに、コローの力量を感じました。
樹が中心の風景画では、緑系のくっきりした樹、緑系のぼかした樹、黒系のくっきりした樹、どれも樹の美しさにうっとりしてしまいますが、私はくっきり系の樹が好きです。葉も細部まで描き込んだもの、ぼかしたものがあり、現物を近くで見るほどに感心します。
コローの絵の空は、どこか薄暗い印象が強かったのですが、視界の多くの部分に樹の葉が少し描き込まれたりぼかしてあるのが空とともに認識されてそう見えるためで、空の色自体は思ったよりも明るく彩色されていることも、現物を見ての発見でした。
樹、水辺、アクセント程度に配した人物という、コローの風景画の印象に残るパーツがそろった絵としては、今回の目玉の1つ「モルトフォンテーヌの想い出」があります。元々評価の高い絵ですが、目の当たりにすると、樹の暗さと湖の明るさの対比、樹の葉と人物のふわりとしたタッチに魅せられます。
私は、樹が中心の風景画だけ並べてもらってもよかったんですが、都会の風景画や人物画も並べられていて、絵の好みにかかわらず見やすい展覧会になっています(抽象画やキュビズムが好きと言われたら別ですが)。全体に大きな絵が少ないので、混んでいるとちょっと辛いものがあります。平日の朝なら行って損はないかなと思いますよ。
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