庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「ダーク・シャドウ」
ここがポイント
 制作側に血筋のよい上流階級だけが尊ばれ下々の者やましてや政府に反対する者など踏みつぶしてかまわないという意識が見える
 良かれ悪しかれ、ジョニー・デップの映画ってこういう感じになっちゃうんだよねと私には思える
 

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 1960年代後半のアメリカTVドラマシリーズを映画化したヴァンパイア映画「ダーク・シャドウ」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿ミラノ1(1064席)午前11時の上映は1〜2割の入り。

 17世紀にリバプールからアメリカに移住して水産業で財をなしたコリンズ一族を率いるバーナバス(ジョニー・デップ)は、使用人の娘アンジェリーク(エヴァ・グリーン)と長らく関係を持っていたが、恋人ができるとあっさり振ってしまう。実は魔女だったアンジェリークは、バーナバスが愛した女性の命を奪う呪いをかけるとともにバーナバスを不死のヴァンパイアに変えた上で棺に入れて鎖で縛り埋めてしまう。196年後の1972年、建築作業で発掘されて自由になったバーナバスは、コリンズの邸宅コリンウッドを訪れるが、一族は没落し当主のエリザベス・コリンズ・ストッダード(ミシェル・ファイファー)が娘のキャロリン(クロエ・グレース・モリッツ)、弟のロジャー(ジョニー・リー・ミラー)、甥のデヴィッド(ガリー・マクグラス)とともに広大な荒れた屋敷に住んでいた。バーナバスは、一族の復興を試みるが、コリンズポートの事実上の支配者となっていたアンジェリークが現れ・・・というお話。

 元はといえば財閥の息子が使用人の娘に手をつけたあげくに捨てたのがきっかけなわけで、これを身分の違いであっさり正当化して不問にし、アンジェリークが最後まで悪者扱いというのは、私の感覚では違和感を持ちます。確かに、アンジェリークの復讐は明らかにやり過ぎですが、バーナバス側に全然反省の色が見えないのはいかがなものかと思います。
 このバーナバスが、本能のおもむくままに行動するジコチュウ・わがままで無責任だけど、どこか憎めないといういかにもジョニー・デップらしいキャラ設定で、コミカルなところに目を引かれて何となくバーナバス側の問題点が見えなくなってしまいます。
 しかし、主人公側は財閥の一族で、「血は水よりも濃い」「一番大事な宝は家族」というようなことが強調され、お家復興のためバーナバスが行動するということがストーリーの軸をなし、ヴァンパイアとしてのバーナバスに血を吸われて簡単に殺されるのは何の罪もない建設作業員やベトナム反戦を語るラブ・アンド・ピースのヒッピーたちということですから、制作者側は血筋のよい上流階級だけが尊ばれ下々の者やましてや政府に反対する者など踏みつぶしてかまわないという意識の復古主義者のように、私には見えます。

 他方、娯楽映画として見ても、アンジェリークは捨てられてもなおバーナバスに未練を残して迫る、バーナバスも敵として罵りながらも求められるとセックスはするという、中途半端な関係で、今ひとつすっきりしません。愛憎入り交じる心情というのは、ありだと思いますが、それを描くのなら、こういったコメディ・アクションでバタバタした映画にせずにちゃんと描くべきだと思います。

 クロエ・グレース・モリッツが出てるんだけど、ジョニー・デップの色に塗りつぶされて生彩がない感じ。
 良かれ悪しかれ、ジョニー・デップの映画ってこういう感じになっちゃうんだよねって、私は思いました。
 ここのところ睡眠不足なもので、ふっと意識がなくなることが・・・もちろん目が覚めたら196年経っていたとかではなく、ほんの一瞬ですが。それは、あくまでも私の睡眠不足のせいでしょうね。隣のジョニー・デップファンは最後までばっちり目を開けてみていたそうですから。

(2012.5.27記)

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