◆たぶん週1エッセイ◆
映画「ディファイアンス」
食糧を強奪される農夫は、相手がナチスでもユダヤ人でも、被害者に変わりないと思う
英雄物語よりも、烏合の衆のコミュニティのトップに立つ/立たされたリーダーの苦悩に共感する
ナチス・ドイツ占領下のベラルーシで森の中でユダヤ人のコミュニティを形成して生きぬいたユダヤ人たちのリーダービエルスキ兄弟の闘いを描いた映画「ディファイアンス」を見てきました。
当初は、少人数で森に逃げ込み、協力してくれる農夫から食料や武器を調達しつつ、両親をドイツ軍に売り渡した警察署長を息子たちも一緒に射殺したり、ドイツ軍兵士を襲撃したりしていたトゥヴィア(ダニエル・クレイグ)たちビエルスキ兄弟の元に、次第にナチスの迫害を逃れて逃げるユダヤ人が合流し、トゥヴィアたちも虐殺の情報を得るとゲットーから多数のユダヤ人を逃走させたりして森に多数のユダヤ人が集まることとなり、森で暮らすことを決意します。食料の調達のために農夫を襲ったり、ソ連軍のパルチザンと提携して武器を手に入れて森での生活が続きますが、食糧が尽きることもあり、トゥヴィアへの不満を持ち造反する者も出てきます。ビエルスキ兄弟も、次男のズシュ(リーヴ・シュレイバー)はトゥヴィアと対立してソ連軍に合流してコミュニティを離れていきます。トゥヴィアは悩みながらもコミュニティをまとめ、ドイツ軍の攻撃を受けて森の中を撤退し続けます。河を前にとまどい立ちすくむトゥヴィアを三男のアザエル(ジェイミー・ベル)が叱咤して渡河を主張、ようやく河を渡りきったところで待ちかまえていたドイツ軍と激しい銃撃戦になりますが、素早く横に展開したトゥヴィア、アザエルの攻撃とドイツ軍の背後から駆けつけたズシュの部隊の活躍で勝利を収め多数のユダヤ人がその先の森で生き延びることができたというストーリーです。
絶対の悪であるナチス・ドイツのユダヤ人虐殺から多くのユダヤ人を救った正義の男たちという、ハリウッドお得意のパターンの映画です。その中で、農夫に銃を突きつけて食料を奪うシーンが食料調達の必要性から仕方ないように描かれ、ドイツ軍が同じことをやっても正当化されるのに自分たちがやれば強奪かなどと言ったりするのはちょっと辟易します(ドイツ軍との比較はともかく、奪われる農夫からは、ユダヤ人がやってもやはり悪であり犯罪であることに変わりないと思いますけどね。チェ・ゲバラ2部作「28歳の革命」「39歳別れの手紙」では、チェの部隊は必ず農民から食料を調達するときは買ってましたし)。コミュニティの中での造反者についても、武器を持たない相手をいきなり射殺するのもどんなもんでしょう。そのあたり問題提起するつもりなのか、大義の前には小さな悪は許されると言いたいのか、私には後者のように見えましたけど。
私はどちらかというとユダヤ人を救った英雄とか政治的なテーマより、烏合の衆のコミュニティのトップに立つ/立たされたリーダーの苦悩の描き方に興味を引かれました。
コミュニティの中でトップに立ち、リーダーシップを期待されるトゥヴィアは万能の存在ではなく、むしろ普通人として描かれています。トゥヴィアの方針のぶれ(そういうこともあってズシュが反感を持ち出て行ったりもするわけです)や妻となるリルカ(アレクサ・ダヴァロス)への想いや優遇なども描かれています。そして、その普通人のトゥヴィアが、食料が入手できない状況や自らの病気の際でさえも、決断をし窮状を打開することを、当然のように、求められる重圧などが、苦悩の表情とともによく描かれていたなと想います。初期の殺しまくるトゥヴィア(「慰めの報酬」のジェームズ・ボンドとイメージがダブってしまいます)よりも、森で生きることを決意しコミュニティを守ることを選びそのために苦悩し続けるトゥヴィアの方が、人間的にも魅力的に思えました。
ラスト近くで、掟に背いて子どもを産んだ女性についての方針をリルカに諭されてすぐ変えたり、ドイツ軍に追われて逃走しているときに前に立ちはだかる河に茫然として方針を出せず三男のアザエルに叱咤激励される様も、強いリーダーシップを取れなかった姿ですが、むしろ人間らしくていいともいえます。
ラストの作りも、ビエルスキ兄弟の兄弟愛が浮かび上がるようになっています。
「歴史」よりも「人間」を描いている映画なのだと想います。
(2009.2.28記)
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