庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「エレジー」
ここがポイント
 ストーリーのほとんどはスケベオヤジの妄想という感じ
 ラストの解釈は両様:女性監督のスケベオヤジへの逆襲かも
 映像はとても美しい

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 50代男の老いらくの恋を描いた映画「エレジー」を見てきました。
 封切り3週目祝日でしたが、新宿武蔵野館は新宿駅前の立地の勝利か、満席立ち見ありでした。

 50代の売れっ子大学教授デヴィッド・ケペシュ(ベン・キングズレー)は、かつての教え子で現在は実業家のキャロライン(パトリシア・クラークソン)と20年以上も体だけの関係を続けながら、30歳年下の教え子コンスエラ・カスティーリョ(ペネロペ・クルス)を誘惑して肉体関係を持ちます。デヴィッドは、年齢差にコンプレックスを持ちコンスエラがいずれ若い男に奪われることを予期し(自分もかつてはその若い男の役回りだった)、コンスエラを独占しようと嫉妬に駆られ、コンスエラの過去にまで嫉妬し続けます。デヴィッドの嫉妬に呆れながらも(なぜか)関係を続けるコンスエラも、「自分と一緒の未来を考えたことがあるか」という質問にも答えられず、ことあるごとに家族と会う機会を設定しているのにあれこれ言い訳して訪れないデヴィッドに嫌気が差し、行くと約束した卒業パーティーを当日になってデヴィッドがキャンセルしたことを機会に2年にわたる関係を絶ちます。しかし、2年後、乳癌に冒されたコンスエラが再度デヴィッドに連絡し、かつて「完璧な」乳房に惹かれたデヴィッドが乳房をなくした自分を愛せるかという問いかけをすることになります。

 前半というか終盤を除く全編が、スケベオヤジの妄想という感じ。自分がスケベオヤジになりきって見れば快感、第三者の目で見たら「何このおっさん?」という感想でしょう。
 大学教授(っていっても、この人、専門はよくわかりません。著書はアメリカ快楽主義、講義ではトルストイを取りあげ、論じる美術はゴヤ(の着衣のマハ)とベラスケス(のラスメニーナス)と、どこの国の文化が研究対象なのかもはっきりせず、これで大学で教授としてやっていけるのか・・・)で、セクハラの通報先が掲示板に掲示されるようになって単位認定前に女学生と個別に会うことをやめた(それまではそうしていた)とか、現に少なくともキャロラインとコンスエラの2人の教え子に手を出し、関係を持った女性は少なくとも50人以上であることは間違いないが数える気になれないというデヴィッドが、(今時セクハラで解雇されることもなく)売れっ子の大学教授としてやっていけて、その正体を知りながらキャロラインもコンスエラも別れようとせず関係を続けているという設定自体、あまりにも都合のいいスケベオヤジの妄想と言っていいでしょう。キャロラインは、自ら、自分はセックスしか求めていない都合のいい女と明言し、それなのにあなたは別の女を連れ込んでいると非難しますが、それでもキャロラインは別れようとしません。しかもデヴィッドは、コンスエラには過去にまで嫉妬して独占欲をむき出しにしていながら、キャロラインにもコンスエラの存在を否定し嘘をつき続けます。コンスエラと関係を持ち続けながらキャロラインとも関係を持ち続けようとしそのために騙しさえするのです。デヴィッドはコンスエラに最初から、コンスエラを「芸術品」と呼び、完璧な乳房、美しさを讃え、コンスエラから言われた2人での将来を考えたことがあるかとか家族と会って欲しいとかいうことには、決して言質を与えまいとするように沈黙します。この態度を見るだけで十分、デヴィッドがコンスエラの肉体だけが目的で今自分の欲望がある間のことしか考えてなくて将来を誓う気などさらさらないことがわかりますが、それでもコンスエラが2年も関係を続けたことも信じがたいことです。デヴィッドの態度に不信を感じたコンスエラがなぜ関係を続けたかは描かれておらず、物語の都合か妄想の都合よさと感じます。まぁ、数え切れないほどの女性の多くはやはり教え子でコンスエラ同様の問いかけをして言質を与えないデヴィッドに体だけが目的とわかって愛想を尽かし去っていき、そういう問いかけをしない都合のいい女キャロラインと、わかっても2年付き合ったコンスエラが残った、数え切れないほどの女の中にはいろいろな女がいるさの「大数の法則」ということかとは思いますが。
 デヴィッドの小ずるさ、身勝手さ、冷酷さをむき出しにせず、むしろデヴィッドがコンスエラを愛し愛故に執着しているというイメージを出すために、デヴィッドの親友の詩人ジョージ(デニス・ホッパー)が、遊びと割り切れ、早めに別れろとデヴィッドにアドヴァイスをし続けます。このジョージとの掛け合いが、ユーモラスで、あるいはウィットに富み、デヴィッドのただのスケベオヤジイメージを辛うじて救っています。
 終盤、乳癌に冒されたコンスエラが、2年間連絡しなかったデヴィッドに連絡して会いに来るところで、様相が変わります。デヴィッドが惹かれ讃えた完璧な乳房が乳癌の手術により切除されてしまい、コンスエラからそれでもあなたは私を愛せるか、抱きたいかという問いが発せられます。スケベオヤジに初めて訪れた本格的に都合の悪い問いです(家族に会ってくれというのも都合の悪い要求ですが、それを断ることで被害を受けずに別れられるのは、結局は都合がいいできごとの範囲ですし)。ラストシーンでその問いかけに対して無言でコンスエラを抱きしめるデヴィッドをどう解釈すべきでしょうか。逃げなかった/逃げられなかったと読むべきか、この期に及んでまだこのスケベオヤジは言質を与えずに済まそうとしていると読むべきか、両様の解釈が可能なところです。終盤に至るまで、女性監督がどうしてこういうスケベオヤジに都合のいい妄想物語を撮るのだろうという疑問を持ち続けた立場からは、最後は女性監督のスケベオヤジへの逆襲と読んでおきたいところですが。

 映像の美しさ、着衣のマハを見せて「似ている」という口説きから当然に予想される裸体のマハになぞらえたコンスエラのヌードシーンも悪くないですが、海辺のシーンのコンスエラの表情とか、それをモノクロ写真で再現した暗室のシーンとか、光っています。「悲恋」「純愛」とは、私には解釈しにくい展開ですから、ストーリーよりもそういう映像の美しさで見せる映画かなという気がします。

(2009.2.11記)

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