庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「マダム・イン・ニューヨーク」
ここがポイント
 家族の日常の中で、敬意、感謝、愛情をどう表していくか、家族の間での人間関係・距離感を考えさせられる
 ラストシーンと、シャシとローランとの関係が、現代インド社会での女性の状況を象徴しているのだと思う

Tweet 

 英語にコンプレックスを持つインド人主婦のチャレンジを描いた映画「マダム・イン・ニューヨーク」を見てきました。
 封切り16週目月曜日祝日、キネカ大森シアター3(40席)午前10時20分の上映は3割くらいの入り。
 (1週間前に見た映画の記事を書いてるところに、私の現在の状況が示されているような…)

 インドの中・上流家庭の主婦シャシ(シュリデビ)は、料理上手でインドのお菓子ラドゥを贈答用に販売していたが、忙しいビジネスマンの夫サティシュ(アディル・フセイン)に会議中に電話してすげなくされたり、英語がうまくしゃべれないために娘サブナ(ナビカー・コーティヤー)には学校での面談に来るのも恥ずかしがられ馬鹿にされることに不満を持っていた。ニューヨークに住む姪の結婚式の準備のために家族に先だってニューヨークを訪れたシャシは、英語が聞き取れないためにカフェでコーヒーを頼むにもパニックを起こして大騒動を引き起こしてしまい、ますます自信を失ってしまう。「4週間で英語が話せる」という英会話学校の広告を見て、飛びついたシャシは、陽気なゲイの英語教師デヴィッド(コーリー・ヒップス)のクラスで、さまざまな国から来た生徒たちに囲まれて英語の勉強を始めるが…というお話。

 家族の間での人間関係・距離感を考えさせられる映画です。主人公のシャシの英語コンプレックスをストーリー展開の中心に据えていますが、シャシが求めているのは英会話力ではなく、家族に敬意を払われる(リスペクトされる)こと。家族の日常の中で、敬意、感謝、愛情をどう表していくか、どう受け止めていくか、現実には行き違い・思い違いを生じやすい問題です。
 シャシが英語をうまくしゃべれないことを露骨に蔑んでいる娘は論外として、夫サティシュの言動はちょっと考えさせられます。サティシュの主観としては、シャシが英語を苦手としていることに気遣っての言動と見られることが多く、結婚式での「シャシはラドゥを作るために産まれてきた」という発言も、ストーリーの流れからはいかにもシャシにはかちんとくる言い回しで観客からは場を読めないヤツと見えますが、サティシュ自身はほめ言葉で言っているつもりであることも明らかです。フェミニストの視点からは上から目線のパターナリズムオヤジと評価することになるのでしょうけど、でもきっと善意の夫がこういう発言しそうだよねとも思ってしまう。それが主婦側からこう見えるというところ、肝に銘じておけということなんでしょうね (^^;)

 公式サイトのストーリーで、シャシは「インドのごくふつうの主婦」と書かれていますが、私には中流以上、むしろ上流家庭の生活に見えます。家庭内で十分尊重されていないという気持ちを持つ点で主婦層を代弁しているのでしょうけれど、生活の不安はなくお菓子作りに専念できて、夫からあっさりニューヨークに5週間行ってきていいと言われるような暮らしをしていて、英語がうまく話せないことが悩みというのは、贅沢な悩みと感じられるのではないでしょうか(インドで英語が話せないということは、日本で英語が話せないことより相当厳しいだろうとは思いますが。でも、JAZZを「ジャーズ」と読んだくらいで笑い転げるかなぁ)。
 ラストシーンは、私は、シャシがニューヨークタイムズを拡げて一瞥し微笑んで、サティシュがホホォという顔をするという形にした方が、ストーリーとしても画としてもよかったと思います。この映画のラストシーンと、シャシと英会話学校の生徒ローラン(メーディ・ネブー)との関係の落とし方が、よくも悪しくも現代インド社会での女性の状況を象徴しているのだと思いました。
(2014.10.21記)

**_**区切り線**_**

 たぶん週1エッセイに戻るたぶん週1エッセイへ

トップページに戻るトップページへ  サイトマップサイトマップへ