◆たぶん週1エッセイ◆
映画「FLOWERS」
1930年代、1960年代、そして現在を生きる3世代の女たちを描いた映画「FLOWERS」を見てきました。
封切り初日パルコ調布キネマ午前10時20分からの初回上映は、なんと観客11人!土曜日の午前中だし、マイナーな映画館だし、という事情はあるけど(そういう事情ですいてると思ってあえて行っているんですが)、それにしても封切り初日でこれは・・・私とカミさんが行かなかったら観客1桁ですよ。
1936年、親の決めた結婚相手との祝言の当日、父親に反発して白無垢姿のまま逃げ出した凜(蒼井優)、1960年代から70年代初期、男性社会で男女平等を正面から主張して出版社にパンツスーツで出勤し続け、仕事なんか辞めて一緒になろうとライターにプロポーズされて悩む次女翠(田中麗奈)、幸せな結婚生活を送っていたが新婚早々夫が交通事故で死に夫を忘れられず一人暮らしを続ける長女薫(竹内結子)、2人目の子を身籠もり医師から危険を告知されるが生まれてくる子どもに何も見せずに終わらせることはできないと自らの命を賭して出産する三女慧(さと:仲間由紀恵)の凜の娘たち、そして現代、ピアニストを志望したが果たせず妊娠して男に去られ悶々と悩む長女奏(かな:鈴木京香)、幸せな結婚生活を送り笑顔を絶やさない次女佳(広末涼子)の慧の娘たちの3世代の女たちの各人各様の生き様と決断・・・というお話。
序盤で、高圧的な父親と凜の対立、結婚当日の凜の逃走、男社会の出版社の中や結婚したら女は仕事は辞めるものと決めてかかる男との間での翠の反発や大立ち回りが描かれ、自立と自由を求める女たちの物語かと思わせます。しかし、この点では、まず翠が上司の説得、プロポーズしてきたライターへの思い、担当作家の懐柔、姉の意見などを経て、方針を変えてスカートをはいて出社し、柔軟な路線に転じます。これを翠は「本当に強い女になる」と言っていますが、前半の翠の硬直した物言いの戯画的な描き方とあわせて、男社会に反発する女の屈服をよしとしているように感じます。これだけならそういう志向でないと読み取ることも不可能ではないですが、終盤で凜が母親に説得されて結局は父親の敷いた路線に戻りそれでよかったと笑顔になるに至り、女の反旗は許さない、女は少なくとも表では男を立てて波風たてずに生きなさいという路線が明確になります。
田中麗奈の青臭くも愚直な反発は周囲の反感を買いやすいし、担当作家(長門裕之)とのかけ合いも味があるのですが、田中麗奈の成長と読ませるには、もう少ししたたかさも描いておく必要があると思います。この映画の描き方では、エンドロールで結婚式の写真が入ってその後どうなったかが示されない(仕事を続けるのか専業主婦になってしまうのかもわからない)扱いとあわせて、田中麗奈が信条を捨てたか屈服したかというイメージに終わると思います。
この映画でもう一つ軸になっているのは、3世代のつながりであり産む性としての女です。自らの命を賭して出産することを自ら決意する慧への賞賛、そして職業的にも挫折し男にも去られながら産むことを決意する奏。少子化が問題とされている時代ではありますが、かなり露骨なメッセージかなと思います。
他方において、独身生活を続ける薫や出産した奏がどうやって生活していくのか、仕事はしないのかという点はまったく描かれません。
「自分らしく生きる」ことを決意した「美しい日本」の「美しい女性」を描いているということですが、それは結局、女は社会に反発をあらわにせず、誰かに依存して子どもを産み育てていけというメッセージに読めてしまいます。
1969年が描かれる際にも全共闘や70年安保の世相も描かれることなく終わりますが、この映画が60年代や70年代に制作されていたら女性団体から相当な反発を受けていたと思います。
映像的には、1930年代はモノクロ、1960年代から70年代はややピントを甘くして原色っぽいカラーを入れたレトロな映像が使用され、そのあたりが見どころかもしれません。ただ1960年代でも田舎の屋外は今風だったり、逆に現代の映像でも一部70年代と似たような風合いの映像があったりして、ちょっと混乱しましたけど。
個人的には、田中麗奈の愚直さにシンパシーを感じ、また笑顔を絶やさない広末涼子の笑顔の裏の心情に切なさを感じました。
全体のテーマについては共感できませんでしたが、田中麗奈と広末涼子を見直した映画でした。
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