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たぶん週1エッセイ◆
映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」

 大学病院の救命救急センター長のリベート疑惑を題材に救急医療の抱える問題を描いた映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」を見てきました。
 封切り初日初回の上映ですが、入りは5割くらい。

 主人公は、血を見るのが怖くて不定愁訴外来に勤める心療内科医師田口公子(竹内結子)と、公式サイトでは「切れ者役人」と書かれている明らかに勘違いしてる偉ぶったわがまま官僚の白鳥圭輔(阿部寛)なんですが、田口公子は絶えずスクリーンに映っているにもかかわらず、静かで腰が引けてて存在感が薄く、白鳥圭輔は声は大きいけどやることなすこと的はずれで見てられません。まわりのスタッフの疲労と困惑を無視して、一方的に命令する、チュッパチャップスを咥えた救命救急センター長速水晃一(堺雅人)の一人舞台に近い存在感に、完全に喰われています。
 何人患者が運び込まれても受け容れを断らない救命救急センター。施設も人材も不足する中でも、思いを実行していく速水の姿は、救急患者のたらい回しが度々報道される現在、外野席からは医師の理想・あるべき姿と見えます。限界まで働き続けるスタッフの疲労を無視して、それでも次々とキャパシティを超えて受け容れを続ける速水に、反発する副センター長佐藤拓馬(山本太郎)の姿も、スタッフの思いを代弁しているはずです。しかし、佐藤の抗議を無視して、次々と患者の救命のための指示を続ける速水にほとんどのスタッフが黙々と従い実行していく姿は、疲労の極みにありながらも人命のために活動し、また速水の行動を正しいものと支持する思いをスタッフが持ち続けていることも示しています。理論的には、倫理的には正しいが、実現のために極度の自己犠牲を強いられる方針を前に、何を選択すべきか、悩みながらも苦しい道を選ぶ人々の着実で地道な活動に静かな感動を覚えました。
 救命救急外来では、自己犠牲をいとわなくても、なお、きれいごとで済まない事態が待っています。この映画が本筋でテーマにしている経営問題も重要な1つですが、それ以前に、近隣の大事故で重症者が大量発生し、しかも断らない方針のために病院中を救命活動に使用しても捌ききれないほど次々と重症患者が運び込まれる中、最初に患者の分類を担当する佐藤が、赤(重症、最優先)、黄(急がない)、緑(軽傷)、そして黒(死亡または救命対象外)の判断を矢継ぎ早にする中、生きてはいるが絶望的でその患者に集中していたらその間に助けられる患者が多数助からなくなるという意味で黒判定したときの苦悩の表情、ましてやその家族から生きているのにどうしてお医者さんが見てくれないのかと叫ばれたときの表情は、それだけでもずいぶんと考えさせられるシーンでした。
 他方、田口公子の不定愁訴外来を訪ねる患者たちや、軽傷でも救急車や果てはドクターヘリを呼ぶ患者とか、救命救急センターで黄色の札を自分で赤に変えようとする患者とか、身勝手な人はどこの世界にもいるよな、こういう人たちに付き合わされるのは大変だなと、しみじみ思いました。

 そういう救命救急医療の現場の大変さ、救命を最優先に理想に向けて行動力を見せる速水と、速水を徹底的に支え続ける花房看護師長(羽田三智子)のかっこよさ、爽やかさが、印象に残る映画でした。ジェネラル・ルージュの「凱旋」なら、速水リベート疑惑への大学病院としての結論は違ってもよいように見えますが、そのあたりは、現実の大学などの現場の落としどころ感覚でしょうね。
 竹内結子も役どころに合わせた味を出していますし、阿部寛も傲慢な勘違い役人を怪演しているとはいえますが、でもやはり堺雅人・羽田三智子コンビの勝利でしょう。一応キーポイントになっていますから、仕方ないでしょうけど、速水(堺雅人)のチュッパチャップスは、ない方がよかったと思うのですが。

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