庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「源氏物語 千年の謎」
ここがポイント
 現実の世界と、源氏物語の世界が交互に展開し、映画として一本全部充てても展開を追うのが難しい源氏物語部分はかなり簡略化され、登場人物もずいぶんと端折られている
 恋愛を描いた映画のはずだが、今ひとつ恋愛の情というか、幸福感の感じられない、恨みの方が前に出た作品

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 源氏物語の執筆の経緯を描いた映画「源氏物語 千年の謎」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、封切り2日目にもかかわらず7週目の「ステキな金縛り」、名画座上映のユスフ3部作を優先してシアター3(40席)を充てたキネカ大森の午前10時25分の上映は6割くらいの入り。

 帝に娘彰子(蓮佛美沙子)を嫁がせた藤原道長(東山紀之)は、彰子付きの女官紫式部(中谷美紀)と関係を持った上、帝を彰子の元に長くとどまらせるために恋愛物語を書くように求める。式部はこれに応じて、道長が逢瀬の際に名乗った「光」の君を主人公として、身分が低いものの帝の寵愛を得て懐妊したが出産時になくなった桐壺更衣(真木よう子)の子源氏(生田斗真)が左大臣の娘葵の上(多部未華子)を娶りながら、六条御息所(田中麗奈)、夕顔(芦名星)と逢瀬を重ね、粗略にされて恨みを持った六条御息所の生き霊に夕顔も葵の上も呪い殺され、六条御息所も都を去り、源氏は幼い頃から慕っていた帝の後妻藤壺(真木よう子)と関係を持ち、藤壺は源氏の子を孕み帝が源氏の子を東宮の跡継ぎに指名して世を去ると藤壺も仏門に入ってしまうという物語を書き続ける。物語の初期に彰子が懐妊し、藤原の子を後の帝にするという目的を果たした道長は、式部にもう物語は必要ないというが、式部は書き続け、いつしか道長もその物語に惹かれていく・・・というお話。

 道長と式部らの現実の世界と、源氏物語の世界が交互に展開していく形が取られています。
 その結果、映画として一本全部充てても展開を追うのが難しい源氏物語部分はかなり簡略化され、登場人物もずいぶんと端折られています。内容的にも第10帖の「賢木」の途中までですが、その範囲でも空蝉も若紫も末摘花も朧月夜も出て来ません(若紫と朧月夜は関係を持つのは賢木の後半以降だから省いたのでしょうけど)。生田斗真のそれぞれの女性の前で語る愛の言葉の軽々しさというか白々しさは、この簡略化して同時進行を感じにくくした設定でさえ、むしろ見どころかなとさえ感じましたが、源氏物語の展開を忠実になぞっていたらもっとこの人物の誠意のなさが際立ったと思います。
 他方、六条御息所の怨念は、源氏物語以上に強調されています。源氏物語では夕顔を呪い殺したのが六条御息所かははっきりしていなかったと思いますし、葵の上については源氏物語では車争いが前段にあり必ずしも正妻に対する愛人の怨念だけからではないはずなのに、この映画ではものすごくシンプルに六条御息所が正妻であれ愛人であれ源氏の寵愛を受けるものを次々と呪い殺すという描かれ方になっています。夫と死別した子持ちの年増女は怖いみたいな偏見につながらなければいいのですが。

 現実世界の方の式部と道長の関係も、なにかレイプ+いやよいやよも好きのうちみたいな感じで、見ていていやな感じがしました。
 そういうことも含めて、恋愛を描いた映画のはずなんだけど、今ひとつ恋愛の情というか、幸福感の感じられない、恨みの方が前に出た作品だなぁと思いました。
 それは、恋愛の場面だけのことではなくて、道長が例の「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」という歌を詠むシーンですら満足感よりも虚しさの方が感じられてしまいました。
 映画のテーマの源氏物語執筆の動機という点でも、文学・歴史研究の立場だと細かい違いも争われるのでしょうから、謎に挑むということになっているのかもしれませんが、ごくふつうの素人の立場から見る限り、紫式部と道長に関係があったとか光源氏が道長をモデルにしているとかいう説は昔からいわれていることで特に新味は感じられません。
 時間を半分にして源氏物語を浅くし過ぎていることとあわせ、中途半端さが強く感じられました。

(2011.12.11記)

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