庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「箱男」
ここがポイント
 視ること・書くことの権力性を論じているのはわかるが、抜きがたい古さが端々に感じられる
 私には、どうして今この原作でなのかがよくわからなかった
    
 1973年の安部公房の小説を映画化した映画「箱男」を見てきました。
 公開2週目日曜映画サービスデー、新宿ピカデリーシアター6(232席)午前10時35分の上映は、9割くらいの入り。
 観客の主流は中高年、一人客が多い感じでした。

 街中で段ボール箱を被って座り込み前を通る人々を(主として女の脚を)穴から覗いて、自分が透明な存在で一方的に視る存在であることに自己満足を感じている男(永瀬正敏)が、何者か(渋川清彦)に襲われて怪我をしたところに、現れた偽看護師の葉子(白本彩奈)から近くに医者がいるから尋ねるようにメモと金を渡され、そこで偽医者(浅野忠信)と葉子に治療を受け麻酔をかけられ…というお話。

 最初モノクロの写真コラージュが続き、その中で1970年代が語られ、1973年箱男が誕生したとされて、段ボール箱に潜む男が登場するのですが、1970年代の風情ではなく(街行く人の格好から:1970年代にシャツを出して歩いている人なんてほとんどいなかったのにと思いながら)、その後はスマホやノートパソコンも登場しますし、いつの設定か示されませんが、どう見ても現代です。なら、なんで最初に1973年の話をしたのかわかりません。安部公房の原作小説が発行されたのは1973年ですが、その時生まれた箱男というアイディア・概念と、この映画中の箱男がどうつながるのかも説明もないし見ていてわかりません。

 この映画自体から考える限り、他者の視線を遮って自分が一方的に相手を視ることの権力性(現代思想業界では、ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」・パノプティコンを例に挙げて論じるのが常道になっていますね)と書くことの権力性を見出し、自分がプチ権力者になる/なれるという妄執を持つ男たちが、箱男という形態/存在を取り合いつつ、自己完結することができずミューズ(あるいはマドンナ?)を求め、それに一定程度は付き合いつつも乗りきれずに覚めた目で見る女に自己の妄想と現実を示唆されて虚無感に陥るというようなことがテーマであり、ストーリーの根幹であるように見えます。
 男はどうとか女はどうとかの2分論自体、今どきどうよと思いますが、そういう抜きがたい古さが端々に感じられます。
 原作は学生時代に読んだきりで、まったく覚えていない(この映画を見る前に読み返す気力は起こらなかった)のですが、「箱男」ってこんなシンプルな作品でしたっけ?もちろん、映画化する以上、わかりやすくしないといけないのは理解しますけど…

 ラストメッセージも、もうずいぶんと言い古されたパターンで、言い始めたときにもう、ああこういうことをいうのだろうし、それで終わるつもりなのだなと見えてしまいました。

 私には、どうして今この原作で作って発表したいのかがよくわかりませんでした。

【原作を読んで追記】(2024.9.13)
 映画を見た後、原作を再読しました。
 原作では、確かに(私の想定以上に)箱男らの女性への憧れ・欲望・嫉妬が強くありそれが描かれていて、その部分は比較的忠実に描写されているのかと思いました。
 しかし、原作は見る側と見られる側の相対化というか、見られる側への転化にどこか諦念を感じさせているのに対し、映画では見る側になることへの渇望/権力欲や戦闘性が強調されているように感じました。
 そして、原作が断片を多数挿入してそのまとまりのなさをもって相対的な感覚・印象を与えようとしている(たぶん)のに対して映画では特定の流れと指向で説明しようとしているように思えます。映画にする以上そうせざるをえないのでしょうけれども。
 総じて、映画は相当程度原作に対する解釈がなされていると感じられます。
(2024.9.1記、9.13追記)

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