◆たぶん週1エッセイ◆
映画「はなちゃんのみそ汁」
余命が少ないと知った親が子に何を残すか/託すか、考えさせられる
しかし、女の子だから炊事ができるように、命の危険があっても子どもを産めと言っているようにも見える
癌と闘いながら娘に食べることの大切さを教えた母とその家族の姿を描いた映画「はなちゃんのみそ汁」を見てきました。
封切り4週目日曜日、メイン上映館テアトル新宿(218席)午前11時の上映は2割くらいの入り。観客の年齢層は高め。
声楽科の学生時代に知り合ったバツイチの新聞記者安武信吾(滝藤賢一)と交際していた松永千恵(広末涼子)は、左胸に悪性腫瘍が見つかり、乳房全摘手術を受け医師から子供は諦めるよう宣告された。信吾は孫が欲しい両親の反対を押し切って千恵と結婚し、妊娠した千恵は、出産で女性ホルモン分泌が活発すると癌の再発リスクが高まるという医師の説明から出産を躊躇したが、膠原病治療を続けてきた父(平泉成)からお前が死んでも産めと言われ、妊娠を聞いて喜ぶ信吾の様子も見て出産を決意する。生まれてきた娘(赤松えみな)ははなと名付けられ、すくすくと育つが、千恵の癌が再発する。千恵は、4歳のはなに、食べることの大切さを説き、ちゃんと食べるためにちゃんと作ることが必要として、これから毎日はなが味噌汁を作ると約束させる…というお話。
余命が少ないと知った親が子に何を残すか/託すか、まだ幼い子が自分が死んだ後どうやって生きるかを思うとそれだけで涙ぐむテーマではありますが、考えさせられます。
そこでこの作品では/原作となった実話の母は、子どもが自活する能力とその考えを育むべく、炊事とその他の家事能力を付けさせることを選択したというわけです。
それはそれでいいとはいえますし、本人が自分の結婚、出産、子どもの成長を前向きに捉えているだけに、微笑ましくもあり、美談でもあります。
しかし、4歳とか5歳の娘に炊事等の家事を教え込むという選択は、もしその子が息子であったとしてもそうしたのでしょうけれども、映画作品となると、なんだか女の子だから炊事の能力が必要だと言っているのではないかと感じます。父親は俺がやると口ではいいながら炊事らしきシーンは母親が死んだ後で味噌汁をついでいるくらいで母の生前は出てこないし、4歳の娘が調理している間黙って座って待ってるだけというシーンもあり、それはそれで自分でやった方が早いけど手を出したら娘が覚えないから我慢していると見るべきなのでしょうけれども、また、はなちゃんがあまりにもけなげにまっすぐに育ち嫌がっているふうがほとんど見えないので鼻につきにくくはなっていますが、それでもどうも家事は女性がやるものだという匂いがしてならない。
そして、癌の再発リスクが高まるから「産めない」と言っている千恵に、父親が「お前が死んでもいいから産め」という、信吾は千恵の前で妊娠に浮かれはしゃぎエコーで見る胎児に赤ちゃん、赤ちゃんと愛おしそうにつぶやき続ける、医師も「産んでみたらどうか、あなたと同じ病気で出産できない人はたくさんいる、あなたが産んだら多くの人が希望を持てる」と出産を勧めるというのはいかがなものか。本人が産みたいと言っているときに、それを理解し励ますのはわかるし、いいと思う。しかし、本人が癌の再発リスクが高まると言って「産めない」と言うのに、まわりが寄ってたかって産めというのは、女は子どもを産む機械だとか言った政治家レベルの感覚ではないか。せめて身内は、千恵の命が、千恵の身体が一番大切だ、それを第一に考えようと言えないのか、実話ベースではどうだったかわからないし現実にはいろいろなやりとりや事情があると思いますが、映画作品としてこういう設定で行くことには、私はちょっと唖然としました。本人が振り返って「私はついていた」と前向きな言葉を残しているからそれを錦の御旗にしている感じですが、こういうことが一般化されると怖いなぁと思います。
福岡が舞台の作品で、博多湾(海の中道-志賀島)を遠くに望む百道一帯の住宅・ビル街や大濠公園の風景が繰り返し写ります。30年あまり前の実務修習期間1年4か月をそのあたりで過ごした私とそのあたり出身のカミさんは、その映像だけでもなんか懐かしく得した気持ちで見ていました。
(2016.1.10記)
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