◆たぶん週1エッセイ◆
ヒンギス復活
2003年1月に引退したマルチナ・ヒンギスが2006年に現役復帰、1月のオーストラリアン・オープンでいきなりベスト8入りした上、2月4日東レ・パンパシフィック準決勝でマリア・シャラポワとの「新旧女王対決」を制してみごとな復活を遂げました。感慨深いドラマですね。(決勝はデメンティエワに負けちゃいましたけど)
(2007年11月1日、また引退発表がありましたけど・・・→追伸その3)
私が女子テニスの中継を見始めた頃、チャンピオンはマルチナ・ナブラチロワでした。1987年、新星のごとく現れてそのナブラチロワを破りランキング1位に輝いたのがシュテフィ・グラフでした。グラフはあれよあれよという間に1988年年間グランドスラム(4大大会全部優勝)、ついでにオリンピックでも金メダルと、圧倒的な強さを見せつけました。
1997年、そのグラフからランキング1位の座を奪ったのが、当時16歳のマルチナ・ヒンギスでした。ヒンギスの名前「マルチナ」は、ヒンギスが生まれたときのチャンピオンのマルチナ・ナブラチロワにちなんだものでした。マルチナ・ナブラチロワにちなんで名付けられたヒンギスが、マルチナ・ナブラチロワを追い落としたグラフを追い落としたわけです。ここからして、もうドラマですね(ただし、ヒンギスがグラフと直接対決で勝ったのは1996年のイタリアン・オープンと1999年の東レ・パンパシフィックだけで、4大大会では4回対戦してグラフが全勝していますけど)。
ヒンギスはオーストラリアン・オープンの優勝、世界ランキング1位、ウィンブルドンの優勝などで次々と史上最年少記録を塗り替えながら、1997年は4大大会でフレンチ以外すべて優勝して、新時代の到来を感じさせました。
でも実は、私は、当時ヒンギスが嫌いでした。ゲーム中のひたむきさの感じにくい態度とか、インタビューでのかわいげのなさ(ウィリアムズ姉妹に対するコメントとか、まあお互い様でしたけど、いやな感じでしたね)もありましたが、TV観戦者の立場で言うと、ヒンギスのプレーって華がないんです。ナブラチロワのサーブ&ボレーとかグラフのパッシングショット(特に美しいダウン・ザ・ライン)とかのような、特にこれっていうのが、ヒンギスの場合、ありません。例えて言えば「野村野球」のような、通はうなるけど、素人の観客にはあまり面白くない、いつのまにか相手がミスに追い込まれて負けている、そういう感じなんですね。そういう選手がいるのはいいんですが、チャンピオンがそれでは、TV観戦者としては面白くなかったんです。
しかし、ヒンギスの時代は長く続きませんでした。ウィリアムズ姉妹(ヴィーナス・ウィリアムズ、セリーナ・ウィリアムズ)やリンゼイ・ダベンポートらのパワー・テニスが次第に女子でも主流となり、ヒンギスはランキング1位は守りながら(時々落ちながらですが)4大大会では勝てなくなっていきます(でも、4大大会で勝てなくなったヒンギスが、それでも相当長期間ランキング1位を守り続けた時期、WTAのランキングってこれでいいのかなあと不思議に思った人は少なくなかったと思います)。
1999年6月5日、左膝の手術・休養から復活してきたグラフとフレンチ・オープンの決勝で「新旧女王対決」が実現します。元々復活劇のグラフに同情的な観客の前で、ヒンギスは審判の判定に執拗に抗議し、観客を完全に敵に回しました。伝説ともいえるローラン・ギャロスでのウェーブ(サッカーじゃないんですからね!)の声援を受け、グラフが逆転勝利しました(でも、グラフは結局その後すぐ引退してしまいましたけど)。ヒンギスは、第1セットを取り、第2セットも5−4でサーヴィング・フォー・ザ・チャンピオンシップにまで追い込みながら、ついにフレンチのタイトルを取れませんでした。そして、1999年6月22日、ウィンブルドンの1回戦、世界ランキング1位のヒンギスは、招待選手でさえない予選勝ち上がりの世界ランキング129位の16歳、エレナ・ドキッチに6−2、6−0のストレート負けを喫します。このときのドキッチのゲームは、TV観戦者としては、非常に胸のすくものでした。単に無名の選手が世界ランキング1位に勝ったからというだけではありません。ドキッチのストロークのほとんどがベースラインいっぱいやコーナーいっぱいをねらい、しかも思い切り振り抜いたものでした。通から見れば、リスクが大きいし振り回しているだけかも知れませんし、現に私がその後見た限りではドキッチ自身その後あれほどのゲームはできていないようですけど、素人のTV観戦者としてはこれぞテニスって感じの気持ちいいストロークでした。ヒンギスのゲームスタイルとは対照的ともいえるドキッチの快勝に、私は、しばらくの間、あちこちに「ドキッチってかっこいい」と言って回りましたから。
さてヒンギスは、結局、1999年1月のオーストラリアン・オープンの優勝以降は4大大会のタイトルを取れないまま、2002年のUSオープン4回戦でモニカ・セレスに敗けた後、2002年10月のモスクワ(クレムリンカップ)で1回戦負け、フィルデルシュタット(ドイツ:ポルシェ・グランプリ)で2回戦負けして、2002年11月以降ツアーのゲームには出場せず(ラストゲームが今回東レの決勝でも負けたディメンティエワ相手の負けゲーム)、2003年に引退を発表していました。
ちなみに、その間、ドキッチは2002年に一時世界ランキング4位になったのを最後にその後は低迷しています。マリア・シャラポワは、2003年のウィンブルドンの3回戦でそのドキッチを破ったのを機にブレイクし、2004年のウィンブルドンで4大大会初優勝、2005年2月に東レ・パンパシフィックで優勝、8月に世界ランキング1位となり、現在はランキングを少し下げて4位で東レ・パンパシフィックにディフェンディングチャンピオンとして臨んだというわけです。
さて、3年のブランクを経て、まだ25歳でありながら今度は「旧女王」として「新旧女王対決」に臨んだヒンギスは、今度は観客の暖かい声援の中、18歳のディフェンディング・チャンピオンに勝利しました。素人にはわかりにくいところは相変わらずですが、こころなしか以前より配球の妙に目を見張らされることが増えたように思えます。私の見方が変わっただけかも知れませんが。
ヒンギス後、パワーテニス全盛の感がある女子テニスの世界で、ヒンギスが反射神経と読みと配球で復活しようとする姿には、好感を持ちます。多少態度が悪くても(今のところインタビューは抑制がきいているようですけど)。まあベテランとか復活組を応援したくなるのは私が年をとっただけとも言えますが。それにしても、25歳がベテランになってしまう業界って、ちょっと悲しいですね。(2006.2.5)
追伸その1:ヒンギスのフレンチ2006
5月のイタリアン・オープンで復帰後初優勝して、ランキングも14位まで上げ、これまでに唯一優勝していないグランドスラム大会のフレンチ・オープンに意気揚々と乗り込んだヒンギスでしたが、オーストラリアン・オープンに続き、クォーター・ファイナル(準々決勝)でキム・クライシュテルスに負けてしまいました。フレンチ・オープン開始前にフランスの観衆はなかなか許してくれないし忘れてもくれない
( French crowd were slow to forgive and slow to forget ) と語ったと報道され、ヒンギスには1999年の決勝の悪夢が忘れられなかったようでしたが、観衆は暖かかったようです。私も温かな目でヒンギスの今後のチャレンジを見守りたいと思います。(2006.6.6)
敗戦後のインタビューでは、ヒンギスは日程上連戦となって休めなかったことを理由に挙げています。グランドスラム大会が好きな理由として休息日があることを挙げたくらい。今回は4回戦がサスペンデッド(日没中断)で2日にわたり、同じ日に予定されていたミックスダブルス2回戦(なんとマルチナ・ナブラチロワと当たる予定だったんですが)は棄権し、翌日すぐクォーター・ファイナルとなりました。今後はシングルスに集中するためにダブルスはエントリーしないとのことです。私はもう17歳じゃない(シングルスとダブルスを並行してやれるほどタフじゃない)って。歳の話は悲しいですね。フレンチ・オープンでのインタビューを見ていると、ヒンギスは「私は成長(成熟:mature)した」と繰り返していますが、私はそのあたりにまだヒンギスの若さを感じてしまいましたけどね。(2006.6.8)
追伸その2:ヒンギスのウィンブルドン2006
1回戦はNo.2コートでストレート勝ち。記者団もゲーム内容には関心がなかったのか、記者会見の最初の質問は、昨夜ペナルティ・キックを蹴ったらよかったのでは・・・(サッカーのワールドカップでスイスがPK戦で敗退したことを受けて)というもの。さらにNo.2コートの感想を聞かれたヒンギスは、小さくて(観客と)親密な雰囲気がいいから気に入っている、No.1コートは大きすぎて好きじゃない、いい想い出がないと答えていました。
2回戦はそのNo.1コートでやはりストレート勝ち。
3回戦は、杉山愛とセンターコートで。終了後センターコートの感想を聞かれたヒンギスはとてもよかったと答えつつ、No.1コートよりずっと好きと付け加えました。第1セットはヒンギスに余裕が感じられました。ヒンギスの配球を見ていると、厳しいところに一発で決めようというよりも、走れば取れるところに打ち込んで振り回して疲れさせているような感じ。それを杉山がまじめに拾って行くのを、打ち気に行ったらロブやドロップショットでかわして、メンタルにも疲れさせているのかなって、そんなゲーム運びに見えました。でも、杉山がけっこう調子がよくて崩れず、第1セットを取ってしまうと、第2セットはあまり遊びがなく角度を付けたショットで決めに行って、ヒンギスが取りました。第3セットも初めはそのまま行きましたが、フルセットを戦う体力がまだないのでしょうか。3ゲーム連取(2ブレイク)して1ブレイクされた後の第5ゲーム、ヒンギスのショットのアウトの判定にクレームを付けたあたりで集中力が切れた感じでした。まだ1ブレイクアップのサービスゲームでダブルフォールトを続けて自滅、ボールを叩きつけました。その後は2度も脚を滑らせて転んだり、いいとこがないまま敗北。予想外に早くヒンギスのウィンブルドン2006は終わってしまいました。(2006.7.1)
追伸その3:あぁ2度目の引退
その後ヒンギスは、全米オープンは2回戦止まりでしたが、2006年は復帰1年目にして年間ランキング7位まで上昇させました。このあたり、4大大会でオーストラリアンオープンベスト8、フレンチオープンベスト8、ウィンブルドン3回戦敗退、全米オープン2回戦敗退でどうして7位で終われるのか、昔の女王時代にも感じたランキングの不思議を感じさせるのも、さすがヒンギスというところでした。
ところが2007年11月1日、ウィンブルドンでのドーピング検査でコカインの陽性反応が出たことを理由に(コカイン使用疑惑は全否定した上で)ヒンギスは再度の現役引退を発表。ヒンギスの再挑戦は、意外なところであっけなく終わってしまいました。とても残念です。まあ、マリファナ所持で逮捕されたカプリアティが2年後に復帰したということもありますから、2度目の復帰もあるかも知れませんが・・・(2007.11.3)
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