たぶん週1エッセイ◆
映画「ひまわり デジタルリマスター版」
ここがポイント
 戦争が生んだ悲劇・悲恋の映画だが、アントニオの掌を返す態度には、むしろ村の娘がかわいそう
 丘いっぱいの墓標に語られないその数だけの悲劇を思い涙ぐむ

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 1970年のイタリア映画の名作のニュープリント再上映「ひまわり デジタルリマスター版」を見てきました。
 封切り4週目祝日、全国3館東京で2館の上映館の1つ新宿武蔵野館の3番スクリーン(84席)午後2時20分の上映は9割くらいの入り。

 徴兵前のバカンスでナポリに来ていたアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)と恋に落ちたジョヴァンナ(ソフィア・ローレン)は、アントニオの召集を延ばすために結婚し、さらには病気を装うが、詐病がばれたアントニオはロシア戦線に送られる。終戦後、帰国した戦友から、アントニオが極寒の雪原の行軍から倒れて動けなくなり取り残されたことを聞いたジョヴァンナは、現地で写真を持ってアントニオを捜し歩き、ついにアントニオを発見するが、アントニオは瀕死の状態を助けてくれた村の娘と結婚して子どもも産まれ記憶もなくしていた。ジョヴァンナは失意のうちに帰国し、工場で働いていたが、記憶を取り戻したアントニオが訪ねてきて・・・というお話。

 愛し合う2人が戦争で引き裂かれ、男は戦地で瀕死の状態を救助された上に記憶を喪失して、救助した娘と結婚し、残された女(妻)は男(夫)の生存を信じて探し歩き、見つけたがその時には男は娘と結婚して子どももいた。実に悲劇的でありつつ当事者は誰も悪くないという、シンプルで悲劇の王道ともいうべき設定です。ジョヴァンナの執念と、この力強い設定が、泣かせます。
 雪原で死にかけている敵国の兵士を見つけたうら若い村の娘が動けない兵士を自ら引きずって自宅に連れ帰り助けるか、むしろ敵地の雪原で倒れた兵士にはとどめを刺そうとしたり装備品を引きはがそうとする村人に襲われるという運命か誰にも見つけられずに凍え死ぬという運命がふつうだろうと思いますが。また、何年も前の写真1枚を手がかりに聞き込みだけで探し当てられるか、それよりも当時のソ連で外国人が当局者の監視を逃れて自由に住民に接触できたかというあたりもかなりの疑問を感じますが。
 それはさておき、村からの引越の途中で記憶を取り戻したアントニオの掌を返したような態度にはあきれました。命の恩人であるもう何年も連れ添った妻に「引っ越してから私と口をきいてくれないのね」「私を愛していないの」とまで言わしめ、しかもそれに対して慰めの言葉もかけず、イタリアへの単独の帰国を申請し、「私は待っています」という妻へのいたわりや感謝の姿勢さえ見せず、ジョヴァンナに再会するや、妻のことは愛していないというアントニオ。ジョヴァンナとアントニオの愛とそれを引き裂く戦争の不条理を描いた映画とはいえ、確かに記憶を失っていたというアントニオには致し方ない条件はあるにせよ、そこまで身勝手になれるかなと思います。どちらかというと、私は後半は、アントニオを支えてきた村の娘の側で、そのけなげさとアントニオの身勝手さ・軽さを比較して、村の娘の悲恋ものとして涙を禁じ得ませんでした。そういう意味で、アントニオの不誠実で軽い態度のために、ちょっと興ざめし、ジョヴァンナと村の娘を襲った悲劇・悲恋という見方をしてしまいました。

 丘いっぱいのひまわりの花が冒頭、ジョヴァンナのさすらう場面、エンディングで登場し効果的に使われて印象に残りますが、エンディングではアップになったひまわりがいずれも花が下を向いていて(実るほど頭を垂れるということかも)咲き誇る引いたシーンとは違うイメージがあり、そういったところにも巧さを感じました。
 そして私には、丘いっぱいのひまわり以上に、丘いっぱいを埋め尽くす墓標のシーン(実際の墓標なのか、セットとして作ったとしたらCGもない時代にかなり大変だったと思いますが)が印象的でした。映画では2人のあるいは3人の悲劇・悲恋ですが、語られないそれだけ多数の人々の悲劇が累積していることを思い涙ぐみました。

(2012.1.9記)

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