庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「顔のないヒトラーたち」
ここがポイント
 正義を貫くことの苦悩を描いているところが、この作品を重厚なものにしている
 日本人にこそ見て欲しい作品だが、上映館はあまりに少ない

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 敗戦18年後にドイツの戦争犯罪人が起訴されたフランクフルトのアウシュビッツ裁判に至る検察官らの苦悩を描いた映画「顔のないヒトラーたち」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国3館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時の上映は8〜9割の入り。

 1958年のフランクフルトで、強制収容所で妻子を失い生き残ったユダヤ人シモン(ヨハネス・クリシュ)は親衛隊の伍長だったシュルツが規則に違反して教職に就いていることを発見した。それを聞いたドイツ人記者のグニルカ(アンドレ・シマンスキ)は検察庁にシモンとともに乗り込み、告発するが、検事正(ロベルト・ハンガー=ビューラー)を始め検事たちは関心を示さない。交通違反事件担当の駆け出しの検事ヨハン・ラドマン(アレクサンダー・フェーリング)がその事実を調査して報告したところ、検事正は文部省に確認すると言い次いでシュルツは免職になったと言うが、実際には免職になどなっていなかった。そのことを知って落胆するラドマンの調査記録を盗み取ったグニルカはその経過を新聞ですっぱ抜き、ラドマンは検事総長フリッツ・バウアーに呼ばれ、政府機関には多くのナチスが潜んでいること、きちんとした証拠がなければ裁くことはできないことを注意された。グニルカに招待されたパーティーで酔いつぶれたシモンを送ったラドマンは、シモンのスーツケースからアウシュビッツの親衛隊の名簿を発見し、バウアーに示し、捜査開始を求め、自分も手伝いたいと申し出た。バウアーは、ラドマンに「ダメだ」と言い、「君が捜査を率いるんだ」と命じた…というお話。

 1945年に行方不明となった父親の正しいことを行えという言葉を座右の銘にして法律を貫くことに邁進する(60マルクの罰金の求刑に対し所持金がないという被告人マレーネ(フリーデリーケ・ベヒト)について裁判官から25マルクでどうかと提案されても拒否して、自分が残りを立て替えても60マルクを支払わせるとか)ラドマンが、上司や周囲から当時は誰もがナチスだった、命令に従っただけだ、父親世代に子どもたちからお前は犯罪者かと問い詰めさせたいのかと、考え直すように言われながら、嘘と沈黙をやめさせると宣言して、バウアー検事総長、バウアーから追加で担当を命じられた先輩検事のハラー(ヨハン・フォン・ビューロー)、秘書(ハンシ・ヨクマン)ら数少ない理解者とともに、数々のハードルを乗り越えて捜査を進めてゆく様子がストーリーの軸になっています。
 その中でも繰り返し、父親世代の多くがナチスの党員であったこと、罪を犯したのはごく普通の人たちであり命令に従っただけだということ、そのことをめぐる被疑者や関係者の怒り、検察当局の戸惑い、他方で被害者の悲痛な告白が示されます。ラドマンが、慕い続ける父親が親衛隊員であったことを知ったときの落胆は、言ってみれば、ハリー・ポッターが、敬愛するダンブルドアがヴォルデモート出現前の闇の魔法使いの頂点にいたグリンデルバルトの親友だったと知った時の驚きにも匹敵するものでしょう:ハリポタオタクにしかわからないこと言うなって?\(^_^;)。それはさておき、そういった正義を貫くことの苦悩を描いているところが、この作品を重厚なものにしています。
 被害者の特定、犯罪行為の特定、殺人罪以外はすでに時効という時効の壁、加害者の特定と現住所の探索といった、捜査の実務的なポイントをていねいに潰していく作業が描かれていることも、作品のリアリティと説得力を高めています。
 捜査の過程での、バウアー検事総長の支持と抑制、ハラー検事の飄々としつつ落ち着いた作業、秘書の示す涙と怒りが、実にいい演技で、捜査チームの一体感と着実な仕事を印象づけています。

 ドイツでも戦争犯罪人は、日本の東京裁判に当たるニュルンベルグ裁判で戦勝国により起訴されて裁かれましたが、この作品で描かれているアウシュビッツ裁判は、それに加えて、ドイツ人が自らの手でナチスの犯罪を起訴して裁き、ナチスの犯罪を許さないという姿勢を示したもので、ドイツの指導者は、現在の保守政治家の代表というべきメルケルまで含めて、繰り返しナチスの犯罪はドイツの恥であり許さないと言い続け、被害者への謝罪を繰り返しています。
 そういった姿勢が、ドイツがEUの中心として近隣諸国の信頼を勝ち得ていることへとつながっているのだと思います。
 この作品で、ラドマンが訴追にこだわったメンゲレがシモンの幼い娘に対して行った残虐行為は、日本でいえば731部隊が中国で行った人体実験や九州大学の生体解剖事件と類似するものです。この作品はあくまでもドイツの自省の一環として制作されていて、日本のことは特に意識していないと思いますが、過去の誤った行為への対応の決定的な違い、ドイツが取り組んだ問題と苦悩を認識し学ぶために、日本人にこそ見て欲しい作品だと思います。そういう作品でありながら、この上映館の少なさは、とても悲しい。
(2015.10.11記)

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