◆たぶん週1エッセイ◆
映画「インターステラー」
幼い娘を残しての宇宙への旅立ち、早く帰りたい気持ちと、宇宙船からは答えられない一方通行の通信というシチュエーションは、父親には厳しい
ベースとなる宇宙論は、リサ・ランドールの理論と思われる
滅び行く地球からの移住先を求める宇宙飛行士の冒険を描いたSF映画「インターステラー」を見てきました。
封切り2週目日曜日、新宿ミラノ2(588席)午前11時50分の上映はたぶん2〜3割くらいの入りだったかと:4週間半前なので…
砂嵐に浸食され、生き延びられる作物も次第に減少し、生命を育む力を失って滅びに向かう近未来の地球で、事故に遭って引退した元宇宙飛行士のクーパー(マシュー・マコノヒー)は、父と息子のトム、娘のマーフ(マッケンジー・フォイ)とともに農場で暮らしていた。本棚の本を落とす幽霊の存在を伝えるマーフに、何者かのメッセージを読み取ったクーパーがモールス信号を解読して示された地点に向かうと、厳戒態勢の秘密基地の中で地下組織化したNASAが、限られた予算の中で移住可能な惑星を探すプロジェクトを続けていた。ブランド教授(マイケル・ケイン)から、既に探査に向かった数人の宇宙飛行士からの信号を追って、居住可能な惑星から先発の宇宙飛行士を連れて戻るミッションを託され、人類を救うためと説得されたクーパーは、幼い娘を残して宇宙へ旅立つことに戸惑いためらうが、娘に必ず帰ると言い残して宇宙へと旅立つ。最初の惑星では、クーパーはアメリア(アン・ハサウェイ)らとともに、1時間が地球の7年に相当する中で先発した宇宙飛行士を探すが宇宙船の残骸しか見つからず、巨大津波に襲われて仲間を1人失い、失意のうちに帰還すると留守番の宇宙飛行士は既に壮年に達していて…というお話。
予告編では、幼い娘を残して宇宙に出る決断部分が強調されていますので、そこがポイントかなと思いましたが、どちらかというと宇宙に旅立ってからの家族(娘)への思いも含めて、仲間たちとの間の思惑の違いなどの人間的な感情をテーマとし、それをマシュー・マコノヒーがやや抑え気味に、しかし抑えきれないというニュアンスで見せる、そういう作品という印象です。
幼い(設定は10才くらい)娘と離ればなれになり、2度と会えないかも知れない旅立ちを、人類を救うため、君が行かなければ娘も生き延びられないなどと説得された場合、私なら、行かないと思う。わずかな望みがあったとしても、助からない可能性が大きいのであれば、そばにいてともに滅びたい。自分ならしない決断をする主人公が活躍するからこそ、映画であり、見る気になるのではありますが。
通信が一方通行で、宇宙船からは答えられない、そうして地球側で家族が、娘が絶望し、愛想を尽かせていく様子だけが伝えられるというシチュエーションは、父親側には残酷。しかし、クーパーの側にも、滅び行く地球での手詰まり感、自分の居場所はここではない、活躍の場を求めたいという気持ちがあったことも否定できず、その意味では、見捨てたという側面がないともいえず、やはり自業自得か…
この映画の宇宙観/宇宙論は、5次元世界が我々の住む3次元空間に隣り合って存在し、低次元側からはそれを認識することができず、それぞれの宇宙はブレーン( brain ではなく brane )と呼ばれ、日本語では「膜」と訳されて、その間を行き来できるのは重力波だけという、7年ほど前に、ちょっと流行って、私も読んだリサ・ランドールの理論(ワープする宇宙は2007年8月の読書日記07.で紹介)によるものと思われます。いろいろと疑問に感じる点もありますが、本で読んだ時には複素平面がどうだこうだでけっこう頭が痛かった議論が映像で見せられると、ふーん、こんな感じ、と理解できるのは、やはり百聞は一見にしかず、映像の強みといえましょうか。
(2014.12.31記)
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