◆たぶん週1エッセイ◆
映画「最愛の大地」
戦争を行う側がどのような正義を唱えていても、現場で行われるのは、平時なら許されないはずの、殺人であり略奪でありレイプで、前線にされた地域の弱者たちがいつも最大の被害を被ることには変わりはない。戦争犯罪の、そして不可避的に戦争犯罪を引き起こす戦争そのものの非人道性を訴えた映画
キャッチコピーは「いまこの地で本当の愛が試される」だが、こういう「愛」が成り立つと考えるのは支配側・加害者側の幻想/妄想なのではないか
アンジェリーナ・ジョリー長編初監督作品「最愛の大地」を見てきました。
封切り初日土曜日、全国10館東京2館の上映館の1つ新宿ピカデリースクリーン4(127席)午前11時50分の上映は7割くらいの入り。
出産したばかりの姉レイラ(ヴァネッサ・グロッジョ)の住むサラエボに帰ってきた画家アイラ(ザーナ・マリアノビッチ)は、恋人の警官ダニエル(ゴラン・コスティック)とナイトクラブでデートしていて爆弾事件に遭う。4か月後、セルビア軍がレイラらムスリムの住むアパートに踏み込み、男性はその場で射殺し、若い女性は兵舎に連行し、次々とレイプした上で監禁した。アイラもレイプされそうになるがセルビア軍の隊長が交代だといってアイラをレイプしようとした兵士を押しのけた。アイラが振り向くとその隊長はダニエルだった。夜ごとに女たちは兵士に引き出されてレイプされ、アイラも兵士に連れ出されるが連行された先は隊長室で、ダニエルはアイラは自分のものだから手を出すなと兵士に伝えたので大丈夫だという。セルビア兵から嫌がらせを受けたのを機にアイラはダニエルと性交渉を持ち、ダニエルは自分がいつまでも守ることはできないと言いアイラに脱走を勧める。しかし周りのムスリム女性がレイプの心の傷にすすり泣く中アイラは脱走を思いとどまる。ダニエルが去った後のある日、アイラは別の女性たちとともに連行され、セルビア兵がムスリムと銃撃戦を行うときの楯にされ、女性たちを撃つことにひるんだムスリム兵士たちはアイラたちの目の前で惨殺される。アイラはセルビア兵たちの宴会の夜に隙を見て逃走し、姉レイラの下に辿り着くが、レイラはセルビア兵の包囲の中で泣き止まぬ赤ん坊を隣人に投げ出され、セルビア兵からアパートを追われてムスリム兵の基地でセルビア兵への復習の計画を練っていた。ムスリム兵はアイラをスパイとしてダニエルの下へ送り込む計画を立てるが…というお話。
無抵抗の一般人を射殺し、略奪し、レイプする兵士たち。ただ銃器を持っていて、殺人や強姦をすることを躊躇しない人間がいるというそのこと故に、平穏に暮らしていた善良な市民が平穏な生活も財産も誇りも命も奪われる。これが一般市民の生活圏に侵入した軍隊の、戦争の本質なのだと、この映画は訴えているのだと思います。
戦争を行う側の人間は、常にそこに何かしらの正義を掲げるわけで、セルビア軍の将軍ネボイシャ(ラデ・シェルベッジア)も、かつてムスリム軍に母と家族を皆殺しにされたことへの復讐戦だと主張しています。軍隊をつくるときは「防衛のため」といってつくられても、予防戦争も防衛戦争だなどといわれて侵略への道をひた走ることとなる、それが戦争をやりたがる人たちの常套手段でしょう。戦争を行う側がどのような正義を唱えていても、現場で行われるのは、平時なら許されないはずの、殺人であり略奪でありレイプで、前線にされた地域の弱者たちがいつも最大の被害を被ることには変わりはない。戦争犯罪の、そして不可避的に戦争犯罪を引き起こす戦争そのものの非人道性を、この作品は訴えているのだと思います。
リアルタイムでニュースを見ていた頃も、一般市民を高地から狙撃するセルビア兵には吐き気を覚え、怒りに震えた覚えがありますが、しかし、軍が一般市民を平気でなぶりものにすることはイラクでの米軍でも同じことで、むしろ占領軍の通常の姿なのだと思います。そして、ボスニア・ヘルツェゴビナという白人同士の闘いであったから世界の注目を集めましたが、アフリカではこれより遥かに大規模の「内戦」といわれる虐殺が繰り返されながら、何十万人とか何百万人が殺害されたという数字(それもたぶんかなり不正確な)以上にその詳しい事実が紹介されることもありません。
殺人や強姦事件に厳罰を唱える人々が、戦争となると一転して仕方がないなどと言い出すのか、そのあたりもよく考えてみたいところです。
ポスターでも「いまこの地で本当の愛が試される」というキャッチコピーが中央に配され、この作品で、ストーリー上のテーマとなっているアイラとダニエルの「愛」ですが、こういう「愛」が成り立つと考えるのは支配側・加害者側の幻想/妄想なのではないかと、私には思えました。
セルビア軍の戦闘開始前のナイトクラブのシーン、ここでのアイラとダニエルはまさしく恋人同士であり、愛があった、それは問題ありません。しかし、アパートにセルビア軍兵士が乱入し、目の前で男性たちが銃殺され、銃を突きつけられ兵舎に連行され、目の前で一緒に連行した女性が兵士にレイプされ、監禁されて、自分は免除されたとはいえ、その後も周囲の女性は兵士の気の向くままにレイプされ続けるという極限状況の下、逆らえば殺され、またそもそも貞操・処女性を極めて重要視されて育てられたムスリム女性がレイプされ続けて誇りも希望も失い泣き続けたり無気力で投げやりになっている状況の下、よりによってその悪逆非道の限りを尽くすセルビア軍の隊長に対して、それがかつて恋人でありまた現在自分をかろうじてレイプから守っている人物であったとしても、愛情を抱くことができるでしょうか。
被害者側の痛みも恐怖も怒りも見えないデリカシーのない加害者にとってだけ、自分の庇護による恩恵に対して報酬を求める傲った気持ちと相まって、そこに愛があると思えるのではないかと、私には思えます。平時でいえば、セクハラ上司の心情と同じようなものでしょう。
軍隊と戦争犯罪の醜さ・非人道性を強く印象づけられる作品で、アンジェリーナ・ジョリーの語る制作意図は十分反映されていると思います。見終わっての印象は、怒りと、それよりも哀しさと悔しさの方が多めに入り交じった感情で、もちろん、爽快感はありません。
2011年の作品が、ようやく日本で上映されるに至り、しかしその上映館が全国で僅か10館という上映に至る経緯はよく知りませんが、観客の期待とはミスマッチだったようです。封切り初日から小さなスクリーンをあてがった新宿ピカデリーの読みの範囲で7割程度の入場者だったにもかかわらず、本編が始まる前後までうろうろする客が少なからずいて、エンドロールに入るやバタバタと席を立つ客が多く、女性たちの悲嘆を想起させるテーマソングも気が散ってよく味わえませんでした。事前に報道されたアンジェリーナ・ジョリーのインタビューからしてこういう作品だということは当然に予測できたはずですが、こういう人たちは何を期待していたんでしょうか。まぁ、戦争犯罪に怒りも関心も持たない人たちが見に来た方が教育効果はあるんでしょうけどね。
(2013.8.10記)
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