たぶん週1エッセイ◆
映画「偽りなき者」
ここがポイント
 濡れ衣の不条理に対して、悲しみつつも下を向かずに生きてゆくルーカスの姿に静かな感動を覚える
 中途半端な能力の専門家が悪辣な役割を果たす危険性を考えさせられる

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 幼稚園児の腹いせの嘘から性的虐待を疑われ職を失い村八分とされた男の矜持を描く映画「偽りなき者」を見てきました。
 封切り9週目土曜日、現在全国5館、東京では唯一の上映館ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2(63席)午前11時50分の上映は7割くらいの入り。

 離婚と失業を乗り越え、幼稚園に勤め、一人息子のマルクス(ラセ・フォーゲルストラム)に慕われて同居の準備もでき、人生の軌道を回復しつつあった42歳男ルーカス(マッツ・ミケルセン)は、ルーカスを慕う園児クララ(アニカ・ヴィタコプ)がルーカスにキスしたことを注意したことから気分を害したクララが園長(スーセ・ウォルド)に「ルーカス大嫌い」と伝え園長に聞かれるうちにルーカスの性器が硬かったと言い出し、部屋で尋問されるうちにルーカスが園内で男性器を露出し触らせて射精したことにされ、一方的に解雇され、その噂を広められ、警察に逮捕されてしまう。友人(ラース・ランゼ)がつけた弁護士の活躍もあり、ルーカスは起訴されることなく釈放されるが、ルーカスが性的虐待をしたと信じ込む園児の親たちや地域住民はルーカスを閉め出し、嫌がらせを繰り返す…というお話。

 まったく身に覚えがなくても、被害者側の嘘で犯罪、それも多くの人に忌み嫌われる犯罪(とりわけ児童に対する性犯罪のような)の濡れ衣を着せられてしまえば、人生は破壊されてしまう。時間や場所の特定もなくいつかどこか密室で犯したなどという容疑をかけられたら、無実を証明することはおよそ無理(せめて日時場所が特定されるならアリバイ証明がありうるけど)。それなのに弁明の機会さえなく勝手に犯罪者にされてしまい、解雇され、地域で村八分にされ、隠れて石を投げたり脅迫する卑劣な加害者の攻撃にさらされる。実に、いつどこで誰におきても不思議はない被害と不幸と不条理だと感じます。
 ルーカスの場合、それがルーカスを慕う少女によるという不条理が重なり、ルーカス自身がクララを責めることができず、クララのせいで被害を受けているのに終盤でもクララの気持ちを優先した行動を取る姿が感動的でもあり哀しいところです。
 もっとも、クララがルーカスにキスをしたシーンは、ルーカスがたくさんの男子の園児にじゃれつかれマットに倒れ込み、もう死ぬぞ、死んだといって死んだふりをし、園児たちがルーカスをくすぐって起こそうとしている場面だったことを考えれば、クララの気持ちとしては白雪姫や茨姫のように「死んでいる」愛しい人を生き返らせるキスだったと思います。そういうクララの気持ちを考えてあげれば、「王女様のおかげで生き返ったよ。ありがとう」くらい言って、抱き上げてぐるぐる回して、その後で「でも、唇へのキスはやめておこうね」とそっと言うくらいの対応じゃないかなぁ、幼稚園の先生としては。それを厳しい顔して「ダメだ」とか言って問い詰めるから反抗して嘘を言ったんだと思う。
 あと、ルーカスの行動としては、せっかく寄り添ってくれてたガールフレンドを、信じると言っているのに、ちょっと躊躇しただけで信じてないだろと癇癪を起こして追い出したのも失敗だと思う。わざわざ孤独になることもないし、異常な幼児性愛者と疑われていることを考えれば、普通に大人の女性とつきあっていてガールフレンドがまわりに「ルーカスは全然異常じゃないよ」って言ってくれれば疑いも晴れやすいのに、その芽を自ら摘むのは自殺行為。
 そういうルーカスの不器用さも、若干の遠因にはなっていますが、それにしてもルーカスに石を投げたり、嫌がらせをし、買い物に来たのを店から追い出す店長・店員とか、実に卑怯。犯罪を憎む素朴な正義感と、当人は思っているんだろうけど、そういう口実のただのいじめとしか思えない。権力にすり寄って、それを笠に着て弱い者いじめをする人が実に多いということが、暗い気持ちを引き起こします。
 その不条理に対して、悲しみつつも下を向かずに生きてゆくルーカスの姿に静かな感動を覚える作品です。

 弁護士の視点で、特に思ったのが、中途半端な能力の専門家が悪辣な役割を果たすという危険性です。この作品では、園長のグレテとグレテに呼ばれたカウンセラーだかなんだかわからない男。ただでも暗示に弱いから事情聴取には得に慎重になる必要があることが常識の幼児に対して、自分で勝手に想像をたくましくして誘導して行きます。こんな聞き方したら、子どもはそういうでしょと思う。男がルーカスが射精したかという趣旨の質問をしたのを聞いて横で吐くグレテ。そういう質問をする男も論外ですが、吐き気がするのは、このグレテの態度です。およそ専門家としての資質が欠けていると思います。そのくせ虐待児童は被害を忘れようとするとかいう方向での決めつける材料の知識・配慮だけはあって自身とまわりを説得していきます。そういう専門家としての資質に問題がある人物でも、専門家としての資格と一定の地位があれば、その判断が専門家の判断としてまわりに受け入れられてしまう(この場合は、いじめ・村八分の口実になるレベルかもしれませんが)ということは怖いことです。児童虐待問題は全然専門じゃありませんが、様々な分野で世間で専門家と扱われる一人として自戒しておきたいと思います。
(2013.5.11記)

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