◆たぶん週1エッセイ◆
映画「ジミー、野を駆ける伝説」
声高に論じるのではなく、人々が楽しんで集えるような活動が、人の心を打ち力になるというのが示唆的
財界の利害を代表して労働者いじめに邁進する偏狭な人々が跋扈する今、多くの人に見て欲しい
アイルランドの活動家ジミー・グラルトンの生き様を描いた映画「ジミー、野を駆ける伝説」を見てきました。
封切り2週目日曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)正午の上映は、3〜4割の入り。
アイルランド内戦の際逮捕を免れてアメリカに渡った民衆活動家ジミー・グラルトン(バリー・ウォード)は、1932年、内戦後10年を経て表面上安定したアイルランドに戻り、年老いた母(アイリーン・ヘンリー)の農場を手伝って静かに暮らそうとしていた。しかし、ジミーが以前開いていたホールでのダンスや詩、木工技術やボクシングなどの教室を懐かしみ、ジミーにホールの再開を求める旧友たちがジミーの下に押しかけ、ジミーはホールの再開を決意する。地主たちの利害を代表し労働者の団結と共産主義をきらい恐れるカトリック教会のシェリダン神父(ジム・ノートン)は、ジミーのホールを訪れた村人をチェックし、ジャズやダンスを退廃した文化と断じ、ジミーを教会の敵と指弾した挙げ句、ジミーのホールを訪れた村人の名前を読み上げて非難し…というお話。
ジミーの活動は、集会所を作り、そこで音楽をかけダンスをし、集う人たちが自分の得意なもの、詩や絵画や木工技術やボクシングなどをお互いに教えあうというもの。終盤にある演説でも、ただ生存するためではなく喜びのために生きようと述べています。
横暴な地主に家を追い出された家族を住んでいた家に戻すために、民衆を率いて乗り込む場面が2度あり、2度目はIRAから協力を求められて迷いながらも友人たちの意見を聞いて先頭に立つことになり、その場面ではシェリダン神父の危惧するような政治性も見られますが、ジミーの基本的な姿勢は集うことの喜び、学ぶことの喜びにあり、またそこに止まっているように見えます。
追われるジミーを、教会・地主側がチャップリンにたとえています。チャップリンを共産主義者と呼ぶほどに、カトリック教会と地主勢力が極端で偏狭な人々だったというところでしょう。アイルランドの伝統文化の正当性を強調し教会の「正しいダンス」以外は退廃したものと決めつけるシェリダン神父の姿は、「アーリア民族」の優位性を主張し「退廃芸術」というレッテル貼りを好んだナチスのようでもあります。
地味で村人に喜ばれる活動をしていたジミーが人々に慕われる姿は示唆的です。声高に論じるのではなく、人々が楽しんで集えるような活動が、人の心を打ち力になるということでしょう。庶民の弁護士としては、共感するところでありますし、同時に「論」を前面に立て、「論」を武器としている身には心しておくべきところでもあります。同時に、そういった活動が、横暴な地主たち権力者の怒りと恐怖を呼ぶということについても。
(2015.1.25記)
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