庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「黒い司法 0%からの奇跡」
ここがポイント
 裁判についての描き方はやはりさすがだなと思う。
 弁護士としていろいろと思うところはあるが、できるだけ多くの人に見てもらいたい
    
 黒人死刑囚の弁護人として冤罪事件に取り組む若き人権活動家の黒人弁護士を描いた映画「黒い司法 0%からの奇跡」を見てきました。
 見たのはもう1月くらい前です(緊急事態宣言を受けて、今日はもう東京では上映している映画館はないようですしね)が、原作本を読んでから書くことにしましたので、今頃になりました。東京では映画館で見ることができない時期の紹介になり残念です。

 パルプ材の伐採・運搬に従事していた黒人ウォルター・マクミリアン(ジェイミー・フォックス)は、1987年6月、仕事帰りに待ち構えていた警官たちに逮捕され、身に覚えのない殺人罪で起訴され、死刑判決を受けて収監されていた。ハーバード・ロースクールを出た若き黒人弁護士ブライアン・スティーヴンソン(マイケル・B・ジョーダン)は、黒人が不当な扱いを受けている司法の現状を許せないと考えて、アラバマ州で黒人死刑囚らを弁護する事務所を作り、ウォルターと面会し、ウォルターの無実を証明するために調査を開始し、ウォルターを有罪とした証言が虚偽のものであることやウォルターのアリバイを証言できる者が多数いることなどを確認し、ウォルダーの無実を確信するが…というお話。

 ブライアンが、法廷での尋問で、有罪判決の際の目撃証人のマイヤーズから証言は司法取引で軽い判決を得ることや死刑囚監房から出してもらうためにウソを言ったものだという証言を得、それだけではなく、殺人現場に駆けつけた元警察官から被害者の死体が仰向けだったかうつ伏せだったかについて目撃証言は事実と反対だという証言などを得たにもかかわらず、裁判所が請求を認めないという場面は、やはり無力感を持ちます。有罪判決の証人マイヤーズの証言は、映画では、前の裁判での証言はウソだったというひと言しか出てこなくて、見ていて、いやそこで終わっちゃダメだろうと思いましたが、原作を読むと、当然にかなり詳しく一つ一つ確認して丁寧に証言させています(「黒い司法 黒人死刑大国アメリカの冤罪と闘う」226〜229ページ)。そこは、映画だからそこに時間をかけてられないということと理解しましたが、弁護士の感覚では、裁判所はマイヤーズにウソだと言わせるだけでは簡単には認めないだろうと思います。本来の理屈では、有罪判決の最重要証言が覆れば裁判所は無罪を言い渡すべきですが、弁護士として実務をしていれば、裁判官がマイヤーズが何らかの事情で今ウソを言っているのではと疑うことを予測してしまいます。しかし、殺人事件の現場に現実に駆けつけた警察官が、被害者の死体の状況が違うということを明確に言ってくれているという事情(あと記憶が定かでなくなっていますが、ウォルターの乗車していたトラックの改造が殺人事件の6か月後に行われており殺人事件があったクリーニング店からウォルターのトラックが出て行くのを見たという証言もあり得ないという証言も、ウォルターのアリバイの証言の他にあったかと思います)があれば、マイヤーズの有罪判決の際の証言はウソだろうと、ごくふつうに思えるのです。そういうあたり、裁判での立証の描き方について、やはりアメリカ映画はきちんと丁寧に考えられていると感じました。しかし、それでもなお、実話に基づくストーリーで、裁判所は請求を認めないのです。
 ブライアンが証人尋問をした手続は、映画を見ていた時にはまったくわかりませんでした。再審請求はすでに棄却されていて、再審請求ではないという説明ではありましたが、それでは何の手続か、アメリカの司法制度がよくわからず、死刑囚の執行を回避するために人権派の弁護士がどんな手法を編み出しているのかと思いながら見ていましたが、原作を読むと、刑事訴訟法第32条請願という手続で、証拠開示請求手続のようです(原作191〜193ページ、219〜220ページ)。検察側の未提出証拠の開示を受けるために、弁護側でその必要性(ウォルターが無罪である可能性が相当程度あること)を示す手続ということでしょうか。その手続での請求を認めない郡の巡回裁判所の裁定に対する刑事上訴裁判所への上訴で、裁定が覆されたのを受けて、ブライアンは証拠開示手続に戻るのを待たず、地方検事に起訴の取り下げを求め、この申立に対する審問手続で、ウォルターの裁判での最終決着が図られます。日本とアメリカで刑事司法手続が違うためですが、手続に関しては、日本の弁護士が想定するのとは違うものが続き、やはり司法制度は国によりずいぶん違うのだなぁと感じました。

 ブライアンのように、まさしく正義のために、被告人からは費用・報酬を取らずに尽力する弁護士の姿は、美しいのですが、弁護士としては、それを求められても現実には無理と言わざるを得ません。ブライアンがそういうことができるのも、刑事弁護人について行政(連邦、州、郡)が公設弁護人事務所(パブリック・ディフェンダー・オフィス)を開設して弁護士を税金で雇用していること、社会的に意義のある活動への寄付が一般に根付いていることがあってのことですし、もちろんアメリカでもブライアンのような活動をしている弁護士は極めて例外的なごく一握りです。
 行政からの補助金はもちろんのこと、労働事件で心置きなく企業と闘えるように企業からの事件依頼も受けていない私にも、「庶民の弁護士」を名乗ること(企業側に立たないということで、その意味はあると私は考えていますが)から社会的に意義がある事件は当然に受けるべきだとか、無償あるいは低額の費用で受けるべきだと言ってくる方が時々いますが、私はそういうリクエストには到底応えられませんし、そういう物言いの方と議論するのも嫌なので早々にお断りしています。プロボノ的な活動というのは、自分がやる気になった事件でするべきで、他人からそれを言われたくないというのが率直なところです。

 原作では、ウォルターがブライアンの申し出に否定的な態度を取り、なかなか事件依頼をしないという場面はありませんが、映画ではそういう場面があります。映画化に際して原作では書いてないけど実際はそうだったという話があったのかも知れません。私は、どんな事件であれ、自分から積極的に「やりたい」と思うことはありませんから、依頼者が依頼を渋ったり、ましてや「やりたいか?」などと言ってきたら、まず受けませんが、ブライアンは無報酬の事件を、依頼者が乗り気でないのに自らやろうとします。そういう姿も、美しいかも知れませんが、それで弁護士はそういうものと誤解する人が出るのはいやだなと思ってしまいます。
 法廷での元警察官の証言が、原作では被害者の死体のあった場所が違う、実際にあった場所はマイヤーズが目撃したという場所と違うというものでした(原作230ページ)が、先ほど述べたように映画では死体が仰向けかうつ伏せかの違いに変えられています。ここはどうして変更したのか全然わかりません。
 また、上訴裁判所で裁定が覆された後の起訴取下の申立に対する審問期日の描写も、原作では開廷前の打ち合わせまでに結果は確認されていた(原作294〜298ページ)のに、映画では開廷して初めて地方検事が表明するという形になっています。それもチャップマン検事は特に劇的な形ではなく述べています。ここも原作の方が現実的だと思えますし、映画が劇的な効果を狙って変えるのならもっと劇的にやればいいのにと思いました。

 弁護士としては、違和感がある点もありますし、思うところはいろいろありますが、やはり裁判、司法制度についての描写の迫真性と現実性、弁護士としての生き様ややりがいなども含めて、見ていて感動しました。宣伝では、オバマ前大統領が2019年でいちばんの作品だと述べているということですが、そこは納得できる気がします(オバマは黒人で弁護士ですからね)。私としては、多くの人に見てもらいたい作品だと思っています。
(2020.4.8記)

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