◆たぶん週1エッセイ◆
映画「英国王のスピーチ」
ヨーク公のプライドと人間味、特にコンプレックスと2人の娘に対する愛情が、共感をうまく引き出している
作品のテーマは、与えられた境遇・宿命の中で努力し成長していく姿の尊さだが、同時に能力のない、またその意思のない者に特定の地位を強要する世襲制の不合理さを強く印象づける
アカデミー賞作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞受賞作「英国王のスピーチ」を見てきました。
封切り4週目土曜日、アカデミー賞受賞のために拡大公開されながら東日本大震災のため1日1回上映となっているヒューマントラスト渋谷の12時20分の上映は4割程度の入り。観客層は若者がやや多数派というところ。
幼少期から吃音に悩んでいた英国王ジョージ5世の息子のヨーク公(コリン・ファース)は、父の病状が悪化し、王位を継ぐ兄のエドワード8世(ガイ・ピアース)が離婚歴2回の人妻シンプソン夫人を離婚させて結婚する道を選んで王位を退き、やむを得ず王位を承継し、ジョージ6世となる。実権を失いラジオ放送技術が進んだために、国民に対する演説が主要な公務となった王位に対して、演説ができない自分が就くことに強い反発と無力感を感じるヨーク公を、妻エリザベス(ヘレナ・ボナム=カーター)は街の聴覚矯正師ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)の下に通わせる。王族に対しても往診を拒み自己の診察場に通わせ対等の態度をとり続けるローグに対してヨーク公はプライドを傷つけられ度々激高してローグの下を去るが思い直して通ううちに・・・というお話。
王族に対しても、へりくだらず往診を拒み自己のやり方に従うように求め、家族にしかそう呼ばれたことがないと激高するヨーク公を「バーティ」と呼び続け、自分をドクターとではなく「ライオネル」と呼ぶように求めるローグの専門家としての矜持と頑固さが、ヨーク公の怒りを買いながらも、結果を出すことで信頼感を得て診療を通じての友情の形成につながっていくということがストーリーの軸になっています。
ローグが、ドクターと呼ばせないことは、実は医師の資格がなかったことのためでもありますが、お互いの呼び名がそれぞれの場面での人間関係や心情をうまく象徴しています。
ヨーク公・ジョージ6世のプライドと人間味、特にコンプレックスと2人の娘に対する愛情が、主人公への共感をうまく引き出しています。
主要な登場人物の愛する人との関係、それが心の支えとなっている様子もしみじみと感じさせるものがあります。ジョージ6世の2人の娘に対する愛情も、妻エリザベスの気遣いと愛情も心を打つものがあります。さりげないキスシーンにもちょっと胸が熱くなりました。
頑固なローグが、妻(ジェニファー・イーリー)の「謝ってきたら」の一言で素直にヨーク公に謝罪に行くくだりも、ローグの人間味を感じさせる小道具になっています。
ストーリーの中で愚かさの象徴と位置づけられるエドワード8世のバツ2人妻への恋でさえ、愛する人の支えなしには生きていけないと宣言して王位を去る姿にある意味での潔さと人間味を感じさせます(もちろん無責任さも)。
この映画自体は、そのような境遇・宿命の中で努力し成長していく姿の尊さを描くものではありますが、同時に能力のない、またその意思のない者に特定の地位を強要する世襲制というものの不合理さを強く印象づけます。またジョージ5世がエドワード8世に王位を譲るくだりでは、読み上げられた文章に何のことかさっぱりわからんがというジョージ5世の手を持ってサインさせるなど、高齢・認知症の者を地位にとどまらせることの問題も感じさせられます。結果的にうまく行ったという描き方ですが、こういう仕組みは、王族にも国民にも不幸というのがふつうの感覚でしょう。
そして、王が幼少期に受けたいじめのコンプレックスから吃音に悩み続けたり(乳母から性の手ほどきを受けたとか・・・)、人妻の尻を追いかけ回したりというようすが平気で描かれているところも、日本の皇室と政府・国民の関係とは大きく違うものを感じさせます。
そういったことも考えさせながら、人間味と愛情の中に爽やかな後味を残してくれるあたりが、地味なテーマと展開のこの作品のよさかと思います。
(2011.3.20記)
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