◆たぶん週1エッセイ◆
映画「恋するナポリタン」
死んだシェフの記憶が移った別人が現れて、長年友達関係を続けてきたシェフをあきらめきれない女との間で愛と思い出と不審と葛藤を繰り広げる恋愛映画「恋するナポリタン」を見てきました。
封切り5週目土曜日午前中の上映は2〜3割くらいの入り。観客層は若めのカップルが多数派でした。
独立してイタリアンレストランを構えた若手実力派のシェフ田中武(塚本高史)と中学時代から友達関係を続けてきたフードライターの佐藤瑠璃(相武紗季)は、取材で知り合った武の元師匠の腕利きシェフ水沢(市川亀治郎)にプロポーズされ、武に相談の電話をした。遅れて伝言メッセージを聞いた武は、瑠璃の元へと走るが、水沢と並んで水沢のレストランから出てきた瑠璃の左手の薬指には指輪が。それを見て、瑠璃に話しかけた武の頭の上に、ピアニストの槇原祐樹(眞木大輔)が落下してきて、武は死に、奇跡的に生き残った祐樹の頭の中には武の記憶が蘇った。末期癌で明日をも知れない命だった祐樹の体で蘇った武は、武のレストランを再開させ、自分は武だと瑠璃に料理をつくり、思い出を語るが、信じられない瑠璃は拒絶し、二度と自分の前に現れるなと怒鳴りつける。失意の武は・・・というお話。
頭と頭を強くぶつけて記憶が移るという荒唐無稽な設定は、問わないことにしましょう。そこで引っかかったら成り立たない映画ですから。
中学時代から瑠璃の笑顔を見るのがうれしくて料理に励んだ武と、武の家に入り浸って武に料理を作らせておいしそうに食べ続けながら一度も「おいしい」って言わない恋多き乙女瑠璃、他の男とつきあう様子を見せながら武に相談したり武の家に転がり込んでアプローチを待つ瑠璃と、今の関係がいいという姿勢を崩さない武。武を思う気持ちを見せながら揺れの大きい瑠璃と、友達関係を踏み越えない姿勢ながら他の女性とつきあわず瑠璃一筋の武。この2人の関係を軸に、恋愛映画というよりも、異性間で恋愛関係にならない友情関係は持続できるかということがテーマになっているような感じがしました。この2人の関係、私の年代では、中島みゆきの「ミルク32」を思い起こしてしまいます。実は学生時代、そういう関係に少し憧れていたんですが。
2人が本当に友情の方を求めているのか、ということには疑問のある関係ですが、明日をも知れぬ命の体を持った武が、瑠璃の前でそのそぶりも見せずに、最後に見せた立ち居振る舞いは見事だなと思います。武が死ぬ日に言いかけた言葉の再現は、本当かなと疑問に思いましたが、それはむしろ武の優しさを示す芝居と見るべきかも。
中身が武だと考えざるを得なくなっても、瑠璃は外見の違いから拒絶してしまうわけで、眞木大輔のおじさんぶりが塚本高史の若々しいイケメンぶりに負けているという設定です。でも、この映画の荒唐無稽ぶり、瑠璃の苛立ち・癇癪、うまくいかない武の絶望・悲しさなどあらゆる暗めの要素を、眞木大輔のおっとりのんびりした笑顔が救っていると、私には思えました。容姿で負けるおじさんに味方してしまうのは、私のひいき目でしょうけど。
それにしても水沢と瑠璃の披露宴、スピーチも新郎新婦の紹介もなく、ただ料理を食べ続けるだけって・・・
その料理、一番最初にオムライスから入るって・・・
武と瑠璃の中学生時代の思い出の海。設定は当然に日本なのに、日本とは思えない(日本だったら沖縄の離島でないと、というレベルの)青さ。大人になってから立つ海辺のシーンとかぶらせて、こちらはいかにも日本の海の青さで、違いが歴然としています。十数年の違いでこんなに海の色が違うということはないと思うのですが(70年頃の設定で高度経済成長期の汚染で色が変わったということを主張したいのならわかりますけど)、どうしてこういう対比映像を作ったのか、ちょっと意図がわかりませんでした。
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