庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「首」
ここがポイント
 一番の感想は、こういう連中のためにこんなに人が殺されていいのか、権力闘争というものの虚しさ、でした
 信長にディープな名古屋弁をしゃべらせるのは1つのアイディアだが、それなら秀吉はなぜ名古屋弁じゃないの?
    
 公式サイトの表現によれば「世界の北野武監督が描く“本能寺の変”は戦国史を破壊する超・衝撃作!!」といううたい文句の映画「首」を見てきました。
 開会3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席)午前11時の上映は5〜6割の入り。

 重臣荒木村重(遠藤憲一)に謀反を起こされ1年あまり有岡城を攻めたが村重を取り逃したことに立腹した織田信長(加瀬亮)は、捕らえた村重の一族を皆殺しにした上で、跡目を餌に、羽柴秀吉(ビートたけし)、明智光秀(西島秀俊)らに、村重探索を命じた。落城して死屍累々の有岡城に現れて元甲賀忍者の芸人曾呂利新左衛門(木村祐一)らに捕らえられた村重は、千利休(岸部一徳)を通じて密かに光秀に渡されるが…というお話。

 見ての感想は、権力闘争の虚しさ、でしょうか。制作側の意図がそこにあるのかは、必ずしも定かではありませんが、娯楽映画としてみるにはあまりにも血なまぐさく、兵士のみならず家族や無関係な村人まで皆殺し、殺戮シーンと死屍累々の場面が続きます。そして武将たちは、ただただわがままで偏執的で洞察力を欠く信長、策略家ではあるが短気で小物ぶりを見せつける秀吉、穏健に見えるが私情(恋愛感情)を優先して主君を裏切りさらに愛人も裏切る光秀、したたかではあるが自己保身のため影武者を犠牲にし続ける家康(小林薫)など、いずれも「偉人」などではなく尊敬・共感できない/しにくいものとして描かれ、こういう人たちのために多数の人が犠牲になったのか、と思わせます。

 こういった人物像が、「戦国史を破壊する」というキャッチにつながっているのかもしれませんが、コメディなりパロディとして見るにはあまりに人が死にすぎていてそういう受け止めがしにくい感じです。
 信長にディープな名古屋弁でしゃべらせ続けたのは、(戦国時代の尾張弁が、現在の名古屋弁と同じイントネーションなのかは知りませんが)あぁそういう描き方もあるのだなと最初の方でやや感心しましたが、それもすぐそれならどうして秀吉も名古屋弁をしゃべらないのかと思ったところで止まりました。

 本能寺の変を描くというキャッチにしては、本能寺の変自体はずいぶんとあっさりした描き方で、そこを期待していると拍子抜けします。戦国時代全体についての見方・評価がテーマだと考えた方がいいでしょう。

※原作を読んで追記
 原作では、信長は標準語で話している、荒木村重の男色の相手が違う、曾呂利新左衛門の運命が違うと、この映画で特徴的な部分が違っています。
 作者自身が監督の映画なのに、変えて見せ場にしているのは、原作ではうまくない/おもしろくないと本人が感じているのでしょうか。
(2023.11.26記、2023.11.28追記)

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