たぶん週1エッセイ◆
映画「レオニー」

 彫刻家イサム・ノグチの母レオニー・ギルモアの生き様を描いた映画「レオニー」を見てきました。
 封切り4日目祝日、シネリーブル池袋の午前11時からの上映は7割くらいの入り。観客層は中高年が多数派でした。

 フィラデルフィアの女子大を卒業したレオニー(エミリー・モーティマー)は、編集者求むの新聞広告を見て日本人詩人ヨネ・ノグチ(中村獅童)を訪ね、英文を添削し出版社と交渉してヨネ・ノグチをアメリカ文壇の寵児に押し上げた。ヨネ・ノグチはレオニーを妻にするとの一筆を入れてレオニーと関係を持つが、気ままに家を空けて帰ってこない日々が続いた。レオニーがヨネ・ノグチの子を身籠もったことを知った日、日露戦争の開始で日本人排斥の風潮が高まったことから、こんな差別の国にはいられないとヨネ・ノグチはレオニーを置いて日本に帰国してしまう。母の暮らすカリフォルニアの原野で男児を出産し、母子で暮らしていたレオニーの元にヨネ・ノグチから来日を促す手紙が届き、レオニーは母の反対を押し切って来日する。しかし、ヨネ・ノグチは日本では女は黙って男の後ろを歩けとアメリカでは見せなかった態度を取り、正妻がいることを告白する。レオニーは怒ってヨネ・ノグチの下を去り、ヨネ・ノグチが用意していた英会話の生徒たちに英会話を教えながら日本文化を学ぶが、拝外意識の高まる世情の下、生徒たちは次第に去ってしまう。そんな中、レオニーは2人目の子を孕み、引っ越すことにして、イサムと名付けられた息子に家を設計させ、イサムは大工の棟梁(大地康雄)に技を習う。イサムはアメリカの学校へ行くことを望み、レオニーはヨネ・ノグチの反対を無視してイサムを単身アメリカに送る。しかし、戦争の中、イサムからの手紙は届かなくなり、イサムの学校は廃校となり・・・というお話。

 学生時代から、凡人は退屈と言い放つ我の強さ、頑固さを見せ続けるレオニーと、気ままで卑屈な日本男児ぶりを示すヨネ・ノグチの対照が鮮やかです。
 日本に5年滞在しても日本語を覚えないことや、娘アイリスの父親を明かさないことにも象徴されるレオニーの頑固さは、運命に翻弄される薄幸の女性という悲劇のヒロインのイメージを消し、異国でも自分流のやり方を貫きたくましく生きた人という印象を持たせます。
 差別の国と批判しここにはいられないと言いながらアメリカでの出版は続け、レオニーの話のうちレオニーが果たした役割は訳さずにレオニーを自らの信奉者のように紹介したり、妻を持ちながらレオニーとの関係を続けたりやり直そうと持ちかけて拒否されるヨネ・ノグチのわがままさと卑屈さが、レオニーの姿を引き立てています。ヨネ・ノグチはレオニーの住む家を用意し、英会話の生徒と称してレオニーに日本文化を教えるとともに経済的に支える相手を用意するなど、彼なりの善意でレオニーを経済的に支える準備はするのですが、まさしく文化の違いでレオニーには受け入れられません。
 そういうレオニーの、正義の人とか偉人という感じではなく、ある種我を張ってたくましく生きた様の描き方、またヨネ・ノグチの本人は善意でもどこか卑屈な姿が、むしろ現実感と親近感や共感を得やすくなっていると思います。

 後半、話が端折られていて、レオニーとアイリスのアメリカ行きあたりから、ちょっとストーリーが追いにくい感じになります。西海岸で家族と住むってアメリカに行って、大学にいるイサムとの関係がわかりにくかったり、アイリスのその後も切れ切れすぎてわかりにくい。
 冒頭の老彫刻家(当然、これがイサム・ノグチだと思うのですが)が母親に向かって母親の話を聞かせて欲しいということから始まったのですから、そこに戻ってくるかと思いきや、その前にレオニーが死んでしまうのは、あれっと思いました。では、最初の呼びかけは幽霊相手?思い出相手?それなら自分が知らない話は聞かせてもらえないでしょ?って・・・

 アメリカの平原や日本の海などの、特に夕暮れ時の光を用いた映像が美しい映画です。

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