たぶん週1エッセイ◆
映画「レ・ミゼラブル」
 ヴィクトル・ユゴー原作の大ヒットミュージカルを映画化した「レ・ミゼラブル」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、シネマスクエアとうきゅう(224席)午前11時40分の上映は7割くらいの入り。

 妹の子どもたちに食べさせるためにパンを盗もうとして投獄された囚人24601号ことジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は5年の刑期が脱獄の度に延長され19年目の1815年に仮釈放された。危険人物と記載された黄色い身分証を見せる度に宿屋から追い出されたジャン・バルジャンは、司教(コルム・ウィルキンソン)に夕食とベッドを与えられるが、夜中に銀の食器を盗んで逃走し、憲兵に捕まった。しかし、司教は憲兵に銀の食器はジャン・バルジャンにあげたものだ、銀の燭台もあげたのに忘れたのかといって、ジャン・バルジャンに銀の燭台を渡し正直者に生まれ変われとささやいた。司教の許しに戸惑い考え込んだジャン・バルジャンは身分証を破き捨てて身を隠し、7年後モントルイユの町で工場を経営する市長となっていた。工場で働くファンテーヌ(アン・ハサウェイ)は工場長の気まぐれでクビになり悪徳宿屋の主テナルディエ(サシャ・バロン・コーエン)に預けている一人娘コゼット(イザベル・アレン。成人後はアマンダ・セイフライド)への仕送りができなくなり娼婦に身を落とす。クビになったのは市長のせいだとファンテーヌからなじられたジャン・バルジャンはファンテーヌの望みを受け入れてコゼットを連れてくると約束したが、ジャン・バルジャンを追い続けるジャベール警部(ラッセル・クロウ)からジャン・バルジャンを見つけたという報告を受け、悩んだ末に冤罪で裁判を受ける男の法廷に赴き、自分がジャン・バルジャンだと告白する。3日待ってくれという懇願を聞き入れないジャベール警部を振り切ってモントルイユを出たジャン・バルジャンは、テナルディエに大金を払ってコゼットを連れ出しパリで身を隠すが・・・というお話。

 スリと詐欺とゆすりで生きている強欲なテナルディエ夫婦とセクハラ工場長を除いたすべての登場人物がそれぞれの苦悩を抱え苦しみ悩む生き様に涙を誘われます。ジャベール警部でさえ、悪意の権力濫用警察官ではなく、法律に従って正義と秩序を実現するという信念で生きていて、市長をジャン・バルジャンとして告発しそれが間違いだと判断した折には自ら懲罰を求め、ジャン・バルジャンに命を助けられた後目の前を行くジャン・バルジャンの逮捕を自ら断念したとき自らの確信が揺らいだがために生きていけないと判断します。
 同僚にテナルディエからの手紙を見られてもみ合いになり、それを見た工場長の気まぐれな判断で解雇され、解雇されるやたちまちのうちに生活ができず娼婦に身をやつすファンテーヌの哀れさは、アン・ハサウェイの熱演もあり、ただただ涙を誘います。しかし、同時に、労働者の弱みにつけ込むセクハラ工場長やその恣意で簡単に解雇され解雇されると直ちに生活基盤を失う非正規労働者の姿は、現代の日本でも他人事とはとても思えません。
 フォンテーヌとジャン・バルジャンの悲劇はストーリーの軸をなしますが、脇役では、テナルディエの娘エポニーヌ(サマンサ・パークス)の恋が泣けます。どうしようもない悪い親の下でけなげにまっすぐ育ったエポニーヌが、革命を志す青年マリウス(エディ・レッドメイン)に思いを寄せながら、マリウスがコゼットに一目惚れし夢中になるのにコゼットの住まいを探し出してマリウスに教えつつテナルディエには教えず通報もせず、最後はマリウスをかばって銃弾に倒れます。コゼットとマリウスの恋はいかにも未熟な者同士の一目惚れで、それよりはずっとマリウスを見つめていたエポニーヌの恋をこそ成就させてあげたいのが人情というものだと思います。エポニーヌが報われない恋に殉じ、死ぬ間際にようやくマリウスに抱かれてほほえんで死んでいく様はあまりにも切ない。あと脇役では革命蜂起グループの少年ガヴローシュ(ダニエル・ハトルストーン)のバリケード上に立つ姿。コゼットとマリウスはラストでの希望の象徴だからかもしれませんけど、コゼットとマリウスよりこの2人(エポニーヌとガヴローシュ)の方が感情移入できたなぁと思います。

 ジャン・バルジャンについての設定が原作と違っています。まず最初のジャン・バルジャンの釈放が、「仮釈放」というところで、あれ?と思いました。原作では刑期満了での釈放です。脱獄を繰り返した問題児のジャン・バルジャンを仮釈放するか、「危険人物」という評価なら仮釈放するかということも見ていて疑問に思いましたし。そして、ミリエル司教(映画では名前も出て来なかったと思いますが)に許された後、原作ではさらに少年プチ・ジェルベ(プティー・ジェルヴェー)が落とした銀貨を踏みつけて「返してくれ」というプチ・ジェルベを追い払うという行為に出てこれが強盗と評価され、1923年の裁判ではこのプチ・ジェルベに対する強盗が対象となっているのに、この映画ではプチ・ジェルベに対する犯罪は登場しません。その結果、ジャン・バルジャンが市長になった後もジャベール警部に追われる犯罪容疑は(映画中では明確な説明はなかったように思いますが、理屈上必然的に)仮釈放中に逃走したことに置き換えられています。さらに、1923年に別人がジャン・バルジャンと誤認されて裁判中にジャン・バルジャンが名乗り出た後、原作では(いったんは脱走しますが)裁判を受けて無期懲役となって監獄に入る(懲役中に作業していた船が沈没して死んだと判断されるが死体は上がらなかったという設定)のに、映画ではコゼットと逃走して身を隠し続けることになっています。他の人にとってはどうでもいい些細な違いなのかもしれませんが、私は、刑事弁護の必要性を説明するページでジャン・バルジャンのケースを使っていることもあり、ジャン・バルジャンの法的な状態には関心を払っていましたので、そこはかなり気になりました(私の記載が間違いだったかと気になって、原作を再チェックしてしまいました:映画との違いの点以外で若干の勘違いや不明と思っていたことが書いてあるのに気がつき、修正しましたけど)。

**_**区切り線**_**

 たぶん週1エッセイに戻るたぶん週1エッセイへ

トップページに戻るトップページへ  サイトマップサイトマップへ