庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「レ・ミゼラブル」(2019)
ここがポイント
 現代フランスにおける犯罪と暴力の蔓延する環境で育つことの不幸と悲しみがテーマ
 しかし、他者を、また異文化を理解し共存することの困難さにこそ考えさせられる
    
 ビクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」で幼いコゼットがテナルディエ夫妻の下で働かされていたモンフェルメイユの街を舞台に現代フランスが抱える問題を描いた映画「レ・ミゼラブル」を見てきました。
 公開2週目コロナ自粛最中の日曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前10時20分の上映は2〜3割の入り。

 サッカーワールドカップ優勝に沸くパリ郊外の町モンフェルメイユに赴任してきた新人警察官ステファン(ダミアン・ボナール)は、クリス(アレクシス・マネンティ)、グワダ(ジェブリル・ゾンガ)とチームを組んで、犯罪多発地区をパトロールしていた。法的な手順を無視して高圧的に振る舞うクリスに対して、ステファンは反発し、クリスとの間で感情的な対立が生じていく。アフリカ系の移民が集住する団地で「市長」を自称する男(スティーブ・ティアンチュー)のところへ、ロマのサーカス団長が、アフリカ系の少年がサーカスのライオンの子どもを盗んだと抗議して押しかけ、抗争になりかけたところに割って入ったクリスは、犯人を探し出すと約束し、情報屋を通じて、ライオンの子を盗み出して得意げにしている少年イッサ(イッサ・ペリカ)を探し出す。クリスらを見るなり逃げ出したイッサを追い、追い詰めたクリスらはイッサに加勢する少年たちに囲まれて動揺し、グワダが逃げようとしたイッサに至近距離からゴム弾を撃ち重傷を負わせてしまう。その光景をドローンで撮影していた少年がいたことを知ったクリスは、救急車を呼ぼうとするステファンを制してドローンの持ち主の少年を追うが…というお話。

 ラストの問いかけがとても重い作品なので、以下、ネタバレで書きます。

 作品のテーマは、「レ・ミゼラブル」というタイトル、移民が集住する犯罪多発地区という舞台、ラストでの「悪い草も、悪い人間もない。ただ育てる人間が悪いだけだ」(字幕の訳は正確にはこうだったか、よく覚えていませんが)というユーゴーの言葉の引用などからしても、犯罪と暴力の蔓延する環境で育つことの不幸と悲しみということだと思います。冒頭に、イッサらアフリカ系ムスリムの少年たちが、パリに繰り出して、白人たちに交じって、フランスのワールドカップ優勝(2018年)を喜び酔いしれる映像、イッサらがフランス人としての帰属意識とある種の愛国心を感じている象徴的な映像からも、そのテーマが重く、またアイロニカルに感じられます。

 しかし、私は、この作品を見て、他者との、あるいは異文化との相互理解と共存の困難さ(だから共存できない/しなくてよいというのではなく、共存しなければならない/避けられないにもかかわらずそれが困難であることの認識と苦悩)を考えさせられました。
 まずは警察チーム内でのクリスとグワダ、ステファンの溝。クリスはかなり強権的で横暴な態度を取っています。しかしそれは犯罪多発地域で相手に甘く見られては秩序を守れないしさらにいえば警官自身に身の危険が及びかねないからで、私欲のためではありません。同じく新人警察官がベテラン警察官と組んでパトロールする「トレーニング・デイ」のアロンゾ(デンゼル・ワシントン)とはその点で大きく違います。象徴的なシーンとして、街角で女学生がハシシを吸っていたのを見とがめたクリスが、女学生の手を掴み匂いを嗅いでハシシの匂いがする、誰から買ったか吐け、尻の穴に指を突っ込むこともできるんだぞを怒鳴りつけ、友人がクリスがそういうのをスマホで撮影したのを見てそのスマホを奪って道路に叩き付けるという場面がありました。もちろん、女学生側からすれば、クリスの行為は違法ですし、暴力行為で権限濫用です。しかし、クリスは、そこで女学生に対してわいせつ行為には及びませんし金品も要求しません。ただ立ち去り際に「タバコは体に悪いぞ」と告げるだけです。クリスからすれば、女学生がここで嫌な思いをすることでタバコや薬物をやめてくれればという思いでやっているということになります。クリスが移民たちが集住する団地の「市長」とサーカス団の抗争を避けるために、ライオンの子を盗んだ犯人を24時間以内に探し出すと何の得にもならない困難を買って出るのも、クリスが私欲ではなく行動していることの表れでしょう。また、クリスもうちに帰れば2人の娘の父親として、やはり不器用な愛情表現をしていますが、家族思いの一面を覗かせています。もちろん、クリスが正しいと評価するべきではないでしょうし、この作品もそういう主張ではなく、しかしものごとはそう単純ではあるまいといっているのだと思います。
 次に、イッサとクリスたちあるいは観客の私たちの認識・文化のギャップ。序盤で、イッサがニワトリを盗んで警察に捕まり、親が呼ばれて、親がイッサを見放した言動をする場面が描かれています。そしてイッサは続いてライオンの子を盗み、クリスらに捕まってサーカス団長のところに連れて行かれ、サーカス団長にライオンの檻に入れられて辱めを受け、クリスらに対して激しい憎悪を抱くことになります。ここで、確かに至近距離でゴム弾を顔に向けて発射したグワダ/警察の行為はやり過ぎですし、救護よりもドローン探し/証拠隠滅を優先した対応は卑怯なものですし、ライオンの檻に入れたサーカス団長の私刑もやり過ぎですが、元はといえばイッサがライオンの子を盗んだことに起因するもので、ある程度は自業自得・因果応報という面があるのでは、と私(たち:たぶん)は思ってしまいます。「庶民の弁護士」といいながら貧困階級の心情に寄り添っていないではないかといわれるかもしれませんが、まぁ「弁護士」なんで、ある程度世の決まりごとは守ってもらいたいと思うし、悪いことをしたら反省はして欲しいという気持ちはあります。盗み、あるいは子どもにとっては悪ふざけに重罰で臨むなということなんでしょうし、「盗人にも3分の理」ということわざを残した近世の日本人の鷹揚さから私たちは大きくかけ離れてしまったということかもしれませんが、イッサとその友人たちの激しい怒りには、どうも自分のことを棚に上げてそこまで…という意識を持ってしまうのです。
 そして私にとって最も衝撃的というか最も考えさせられたのは、終盤、ラストシーンに至るまでのイッサと友人たちの目に映る、クリスとステファンの差異です。この作品が、基本的にステファンの視点で描写されていることもあり、私たちには、強権的に振る舞うクリスと、それに反発し、少しでもフェアネスを守ろうとするステファンの行動・生き様の違いが印象に残ります。イッサとの関係でも、イッサが撃たれたときステファンは救急車を呼ぼうとし、クリスがそれを制します。倒れたイッサを放置してクリスらがドローンを追う間にステファンはイッサを連れて薬局に行き応急手当をします。しかし、イッサと友人たちの目からは、ステファンもしょせん警察の一味に違いなく、倒すべき敵と評価されます。ラストシーンでステファンの説得が功を奏するか、あえて描かれていないので、究極的に同視されているのか最後の一線で分かれるのかは観客の解釈に任されますが、ある意味で体制内で良心的な行動を取ろうと心がけているという位置づけの者の1人としては、相対的に良心的な行動など外部には理解されない自己満足でしかないのか、という非常に重い問いかけに戸惑い心をかき乱されます。
(2020.3.14記)

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