◆たぶん週1エッセイ◆
映画「ナミビアの砂漠」
特に事情があるわけではないけど不満と不機嫌を漂わせるカナの表情を通じてZ世代の鬱屈を描いているのだと思う
カナの暴力を病気とレッテル張りしなければならないとすれば、それは私たちの社会が昔より寛容を失ったということではないか
山中瑶子監督の本格的な長編第1作(公式サイトの紹介)「ナミビアの砂漠」を見てきました。
公開3日目日曜日、シネマカリテスクリーン2(78席)午前10時の上映は満席(館員のアナウンスでは)。
観客の多数派はおっさんの一人客、次いでカップル。若い女性の生きづらさがテーマの映画でなぜ?
脱毛サロンで施術者として勤める21歳のカナ(河合優実)は、飲んで遅く帰っても文句も言わず、食事も作ってくれる不動産業者勤務のホンダ(寛一郎)と暮らしつつ、脚本家のハヤシ(金子大地)とも関係を持ち、ホンダと過ごす休日にもハヤシから電話があると、友だちが泣いているからなどといって嘘をついてハヤシに会いに行ってしまう。ホンダが札幌出張から帰ってきて、上司に無理やり風俗に連れて行かれたが勃たなかったと告白して謝った後、カナは黙って出て行き、ハヤシと暮らし始めるが、ハヤシから執筆中は1人にして欲しいと言われて…というお話。
おそらく多くの観客、特に男性からは、カナは、暴力的でないことはもちろん支配的でも圧迫的でもなくむしろ優しい男たちに二股をかけながら、それでも満足できずにいるわがままな女と位置づけられるでしょう。
カナに追いすがるホンダが、僕はカナのことを理解していると言い、ハヤシが、カナとならお互いに高め合って行けると思うと語るのを聞いて、特にリアクションは見せませんがたぶん内心うんざりしているカナをどう見るかというところかなと思いますが。
カナについては成育上の問題の描写は特になく(父親を最低の人と言っている、母親は中国人というくらいでそこは掘り下げられません)、職場の人間関係も特に軋轢がある様子も陰口を言われている様子もありません。
そういう中で、どこか不満や不機嫌を漂わせつつもどちらかと言えば無表情に近いカナの鬱屈に何を感じるかというあたりが、たぶんこの作品のテーマであり、評価の分かれるところだろうと思います。一般化すれば、Z世代の鬱屈を描いているのだということでしょう。
さらに、終盤、暴力的になるカナをどう評価し、この作品の描き方をどう見るかは、たぶんあえて多義的な解釈の余地を残していると見えます。
カナをそこに追い込んだ現代日本社会の病理を見るか、病気というレッテルを貼ってある種排除ないし無視し理解の外に置く現代の日本社会とマスコミの風潮の問題を見るか。登場する医療関係者を少しうさんくさげにあるいは頼りなく描いているのは後者かなと感じましたが。
しかし、さらに言えば、平気で二股をかけるのも(成育歴とか職場とかで)特に事情があるわけでもないのに暴力を振るうことにも共感はできないものの、少なくともさまざまな映像作品上二股をかけて何ら良心の呵責を感じない/恥じない男はごくふつうに登場しますし、かつて、例えば50年前なら若者が理由なく反抗し暴力を振るうことに私たち(社会あるいはメディア)は寛容だったのではないでしょうか。それを病気と描かなければならないとすれば、それは私たちの社会が逸脱を許さない狭量なものに変貌してきたということではないでしょうか。そういう大上段の問題提起がなされているのではないとは思いますが、ちょっとそういうことを感じてしまいました。
タイトルの「ナミビアの砂漠」は本編の中では、カナのスマホの中の動画として2回その映像が登場する(ナミビアとは紹介されませんが)、エンドロールで砂漠で水場にたむろする動物が映るだけで、特に映画との関連はないように見えます。カナの心の中は砂漠だとか、心象風景だというメッセージがあるのかも知れませんが。
(2024.9.8記)
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