たぶん週1エッセイ◆
映画「ナイト・トーキョー・デイ」
ここがポイント
 白人男の日本人女性に対する幻想/妄想に満ちた、都合のいい「ラブ・ストーリー」

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 スペイン人監督が東京を舞台に撮ったラブ・ストーリー「ナイト・トーキョー・デイ」を見てきました。
 封切り2週目祝日、全国で2館、東京で唯一の上映館新宿武蔵野館の午後の上映は6〜7割の入り。観客層は、男性一人客が多数派。げっ菊地凛子ファンってこういう構成?確かにR15+指定だけど、なんか待ってる客だけ見てたら場末のポルノ映画館に迷い込んだかと錯覚しそう。

 高齢の録音技師との静かな枯れたつきあい以外には友人もなく自分の内側にこもって生活を続けるリュウ(菊地凛子)は、何も考えずにすむようにと築地の魚市場で働いていたが裏の顔は殺し屋だった。そのリュウの元に、娘が夫に愛されていないと鏡に血で書いた恨み言を残して自殺した会社経営者長良(中原丈雄)の落胆を見かねた部下の石田(榊英雄)から、長良の娘の夫ダビ(セルジ・ロペス)を暗殺する依頼が来た。ダビが経営するワインショップを訪れたリュウは、ダビと話し一緒にラーメンをすするうちに心を開き、ダビにラブホに誘われて応じ、性交の後に眠りこけるダビに銃を向けたが撃てずそのままラブホを後にする。その後もリョウとダビは同じラブホで逢瀬を重ね肉体を重ね続け、ダビが生き続けていることに苛立つ石田に対してリョウは契約の解消を申し出るが・・・というお話。

 やっぱり最後まで違和感が残りました。「西洋人から見たエキゾチズムは慎重に回避されている」とかいう映画評もありましたが、私にはそうは思えませんでした。冒頭の「女体盛り」は西洋人が好む日本の虚像だと自分はわかってるよと誇示していますが、単に「女体盛り」レベルの誤解・妄想が、「ツキジ」「ラブホ」「ケンシン(献身)」といった別のステレオタイプの虚像・妄想に置き換わっただけじゃないかと。
 文化の違い、なんでしょうか。娘が自殺してうちひしがれる父親に「自分はミドリ(妻の名)を愛していました」と言い切り、リュウに対しても自分は努力したと言い続けるダビは、自分に対して愛してくれなかったと恨み言を残して自殺した妻の喪も開けないうちに、自分のワインショップを初めて訪ねてきた一見の客リュウにその場で言い寄りその夜のうちにラブホに誘い肉体関係を持ちます。スペインに帰ったら帰ったですぐに別の女と一緒になりますし。こういう節操のない軽薄男が、主観的には自分はまじめに愛し努力したと思い込んでいて、そういう人物のために犠牲になる人物がいて、それをその軽薄男が美しい思い出として振り返るなんて映画は、なんともやりきれない。それをラブ・ストーリーと思って作って、そう紹介している(公式サイトでは「珠玉のラブ・ストーリーが誕生した」だって)のを見るにつけ、文化の違いを感じるわけです。
 さらに言えば、日本の女は白人に弱くて肉体関係を持ってしまえば命がけで尽くしてくれる、そういう考えを軸にした映画のように感じられました。

(2010.9.20記)

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