たぶん週1エッセイ◆
映画「西の魔女が死んだ」
ここがポイント
 まい、まい母、おばあちゃんの台詞のリズムの合わなさに違和感とそういうものかも感
 原作がまいの成長を感じさせるのに対し、映画はおばあちゃんの老いを感じさせる

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 不登校の中1少女まいが山里に住むイギリス人祖母の元で暮らして自分を見つめ直すハートウォーミング青春映画「西の魔女が死んだ」を見てきました。
 封切り後2週間が過ぎ平日の日中だったのにほんとに満員でした。

 緑あふれる山里の情景、おばあちゃん(サチ・パーカー)とまい(高橋真悠:新人)の会話と生活が大部分を占める映画です。
 高原のきれいな緑(息を呑むほどきれいな風景ではありませんが、空気が澄んでいることを感じさせる緑)の映像がふんだんにあり、和みます。おばあちゃんが、原作通りイギリス人で、それが高原の風景と相まって小洒落た印象を持たせます。そういう雰囲気の中では、野いちごジャム作りやシーツの洗濯なんかの家事もどこか楽しそうに見えます。原作が児童文学だということもあり食べるシーンがよく登場しますがそれも映像で再現されていて、やはり楽しい。
 
 最初の方から、台詞は、1字1句変えていないんじゃないかと思われるほど、原作通り。エピソードも、登場人物に郵便屋さん親子が追加されていてその関係部分と、まいが雨の中をさまようシーンが付け加えられたくらいで、かなり忠実に原作をなぞっています。
 
 この作品を見てて最初に感じたのは(原作通りだなというのはちょっと置いて)、台詞の間の取り方。おばあちゃんとまいの会話は普通の会話にしては間が開き、といってじっくり間をとって台詞をしみこませるには短い、ちょっと中途半端な間が最初気になります。台詞が原作の言葉をその通りにやっているせいもあって、棒読みっぽく感じますし。でも、次第におばあちゃんとの会話ってそういうものだという気になってきますし、おばあちゃんがイギリス人だということもあり、それはそれとしてなじみます。まいの母(りょう)の台詞は、母親が子どものことを理解していない・自分のことを優先しているという印象を与えるためわざとやってるのだと思いますが、これがまた、浮き上がった感じで、まいとおばあちゃんともリズムが合わない。前半、この3人のリズムが合わないやりとりを聞きながら、リズムがバラバラでも映画としては成立するんだなって、不思議な感慨を持ちました。

 私が原作を読んで巧さを感じたまいとおばあちゃんの関係の変化を浮き上がらせる2つの会話、どうなってるかと思ってたら、まいの台詞はその通りなのにおばあちゃんの反応が変えられていました。
 魔女は自分で決めるんですよといいながら、まいの転校問題について意見を言うおばあちゃんに対してまいが「おばあちゃんはいつもわたしに自分で決めろって言うけれど、わたし、何だかいつもおばあちゃんの思う方向にうまく誘導されているような気がする」と言うシーン。原作ではこれを聞いたおばあちゃんは目を丸くしてあらぬ方向を見つめ、とぼけた顔をしたとされていますが、映画ではおばあちゃんは「もう寝ましょう」と答えます。
 隣人のゲンジが裏山の土地に侵入して掘り返しているのを見たまいがおばあちゃんにあんな汚らしいやつ死んでしまったらいいのにと言っておばあちゃんに叩かれた後、食事をしてから「でも、おばあちゃんだって、わたしの言った言葉に動揺して反応したね」と言うシーン。原作ではおばあちゃんはにやりと笑って片目をつぶり「そういうこともあります」と答えますが、映画ではおばあちゃんは何も言わずまいが去った後一人残されてタバコを吸う後ろ姿のカットが続きます。
 どちらのシーンも原作ではおばあちゃんに余裕があるのに、映画ではおばあちゃんの余裕が感じられません。さらに後のシーンに近接してまいを迎えに来たまいの母親(おばあちゃんの娘)と母親が仕事を辞めるべきか(家にいるべきか)を議論して「確かにもうオールド・ファッションなのかもしれませんね」と言うシーンがあり、「どうしたの。今のはおばあちゃんらしくないわ」「どういうのが私らしいのですか?」「いつも自信に満ちているのよ」という会話があります。原作ではこの後に「まいは本当にそうだと思った。おばあちゃんはいつも自分がそのときやるべきことが分かっている」などとおばあちゃんはしっかりしているというフォローがありますが、映画ではこれがありません。
 これらのシーンは、最初大きく手の届かない存在だったおばあちゃんが手の届く人間だとまいが感じることを描いているのですが、原作を読んだとき私は、これはまいが成長したのだと読みました。おばあちゃんが絶対でも万能でもないと気付きそれを呑み込み受け容れながら、でもおばあちゃんを尊敬し愛する、そういうことでまいの成長が感じられるシーンだと、私はそう読み、そこに作者の巧さを感じたのです。しかし、この映画は同じシーンをおばあちゃんの老い、限界、没落と捉えているように思えます。原作では一連のものと感じられない「オールド・ファッション」発言も含めて、おばあちゃんの弱体化(2年後の死の布石?)を描いているように見えます。2人の関係で言えばまいの地位が上昇し、おばあちゃんの地位が低下することに変わりはありませんが、原作は「まいの物語」であるのに対して映画は「おばあちゃんの物語」のように見えるのです。原作にそういう読み方もあるでしょうし、映画についての私の読み違いかもしれません。でも、私は、これらのシーンは原作通りの方がよかったと思います。

 あと原作から省かれたシーンに銀龍草のシーンがありますが、これも残して欲しかったなぁと思います。う〜ん、私の言ってることって、結局原作通りにしろってことばかりですね・・・

 ラストシーン、おばあちゃんの「アイ・ノウ」におばあちゃんの笑顔の映像をかぶせなかったのは、1つの見識かとも思えますが、でも、映像としてはおばあちゃんの笑顔を入れた方がスッと染みたと思いますけどね。まいの見返りの笑顔だけでも暖かく見終われることは確かですが。

(2008.7.10記)

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