◆たぶん週1エッセイ◆
映画「のだめカンタービレ 最終楽章後編」
テレビドラマのファンとクラシック音楽好きの人のために作られている映画
前編の大部分を費やして千秋がマルレを立て直すエピソードを描いたのは一体何のためだったのか
人気漫画・フジテレビドラマの映画化「のだめカンタービレ 最終楽章後編」を見てきました。
封切り4週目日曜午後で、4割くらいの入り。前編は少し力入れて封切り初日に行きましたが、後編は、前編を見たから後編も一応行かないとねくらいの気持ちでしたから、4週目になりました。
前編の最後で音楽に没頭するためにのだめ(上野樹里)と別居することにした千秋真一(玉木宏)に、孫Rui(山田優)の復活公演で指名がかかり、しかも曲目はのだめが千秋とやりたいと言っていたラヴェルのピアノ協奏曲ト長調。音楽学校で難しい宿題を次々出されコンクールへの出場もさせてもらえないところに千秋と孫Ruiのコンサートの成功を目の当たりにしたのだめは千秋に結婚してくださいと迫るが千秋に冗談と取られて相手にされず失意の日々。そこにシュトレーゼマン(竹中直人)がオーケストラの経験もないのだめに自分の指揮でのコンサートデビューを持ちかける。ショパンのピアノ協奏曲1番を見事に弾ききったのだめは、一躍期待の新人として注目され公演依頼が殺到するが、あれ以上の演奏はもうできないと、すべての依頼を断って消息を絶つ。心配した千秋はのだめを探し続けるが・・・というお話。
はっきり言うと、テレビドラマのファンとクラシック音楽好きの人のために作られている映画で、どちらにも当てはまらない、テレビドラマは見たことがない、クラシック音楽は睡眠薬のようなものという私のような者には、何これ?という映画です。
テレビドラマでの登場人物をとりあえず一通り出しておきたい、ってそれだけのために映画としてのストーリー上必要とは思えないけど入れたと思えるシーンがたくさんあります。孫Ruiは復活コンサートで出てきたっきりその後は出て来ないものの、これはまぁのだめを妬かせ転機を訪れさせるために必要と考えましょう。でも、清良(水川あさみ)のコンクールって、単に清良と峰(瑛太)のカップルの先行き、ついでにターニャ(ベッキー)と黒木(福士誠治)のカップルの先行きを示すためだけと思えます。これものだめに私もコンクールに出たいと思わせるためという言い訳もできますが、そのためにこれほど長い時間をかける必要があるとはとても思えません。
そして、後編では千秋の指揮者としてのステップアップは孫Ruiの復活コンサートだけで、千秋の指揮者としての勉強に没頭するシーンは出てきません。そうするとのだめとの別居の意味は出てきません。さらに驚くべきことに、後編ではマルレ・オーケストラは、千秋がルーティーンとしてタクトを振る場面や練習風景が少し出てくるだけで、ストーリー上の位置づけは全くありません。後編を見てから前編を振り返ると、前編の大部分を費やして千秋がマルレを立て直すエピソードを描いたのは一体何のためだったのかと思います。映画作品としてのストーリーテリングについて、制作サイドがどういう考えを持っていたのか、疑問に思いました。
映画としての構成を考えれば、後編で使わないなら前編でのマルレ立て直しのエピソードはあんなに長くやる必要は全くありませんし、前編・後編を通じて出てくるほとんど無意味なおちゃらけシーンや映画としてのストーリー上必要のないテレビドラマファン向けのサービスシーンをカットすれば、前編・後編に分けなくても1本でまとめられたと思います。まぁ制作サイドは興行収入アップのためにむりやりにでも2本にしたかったのでしょうけど、そういう間延びしたシーンに、わざとらしいたどたどしい片言の日本語やいかにも素人っぽいしゃべりの台詞で付き合わされるのは、勘弁して欲しいなと思います。
後編も演奏シーンは長く取ってあり、クラシック好きの人は、他の部分はともかくその演奏シーンだけでも見てよかったと評価するのでしょうけど、そこに興味を持てない観客には、かなり辛い。
エンドロールの間もさらに話を進めてエンディングにつなげる構成は手際もよく、そこは感心します。ファンも終盤ののだめの立ち直りの笑顔と千秋との明るいエンディングこそが見たいのでしょうから、前編の贅肉を削ぎ落として演奏シーン以外はアップテンポで進めて後編後半につなげれば、映画作品として見やすいものになったと思うのですが。
(2010.5.9記)
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