◆たぶん週1エッセイ◆
オシム・ジャパン スリルへの期待
オシム・ジャパンがスタートして4試合。選手がそれにこたえ切れていないもどかしさは残りますが、オシム監督の目指す方向性はかなり明確になってきています。一ファンというか一テレビ観戦者としては、若干のアンビヴァレントな思いは持ちつつ、私は、オシム監督の目指す方向を好ましく思っています。
私が、日本代表のゲームを見るようになったのは、実際には「ドーハの悲劇」と世間では呼ばれるワールドカップアメリカ大会予選からでした。子どもの頃は、親父はヤンマーの釜本ファンだった記憶はありますが、私はサッカーの放送は見ていませんでした。
最終戦のイラク戦でロスタイムに同点とされたとき、カズやラモスがピッチに倒れ込み、寝ころんでいる姿を見て、現実的には予選敗退がほぼ決まりではあるけれど、試合がまだ終わっていないのに点を取らなければならない側がどうしてすぐに次のプレーをしようとしないのか、強く疑問に残り、1人ボールを持ってセンターサークルに走るゴン中山の姿に共感しました。
フランスワールドカップでも、日本代表のゲームは、ただひいきのチームだから応援するというレベルで、見ていてスリリングなのは、やはりオランダチームでした。その後、ヨハン・クライフの本なんか読んで後知恵で言っている部分もあるかも知れませんが、トータル・フットボールの伝統は、観客にとっては是非とも受け継いでほしい財産だと思いました。
イタリアチームに代表される守りを堅固にしてカウンターを狙うという戦術の蔓延は、応援するチームが勝ちさえすればいいというメンタリティにはあうでしょうが、ゲームとしての面白さを殺してしまいます。
その後の日本代表は、トルシエ監督の下、守りの約束事を中心としたチームとして育成されていきます。その結果、失点は少なくなったけれど、「決定力不足」が決まり言葉となり、観客にとっては面白みのないスコアレスドローのゲームが量産されました。もっとも、トルシエ監督もボールを奪ったときの速いボール回しを求めてはいましたが、現実のゲームでそれが実現する場面はほとんど見られませんでした。
ジーコ・ジャパンでは、より攻撃面に比重が置かれたはずではありますが、実際にはトルシエ監督時代の守備の財産に依拠しつつ、攻撃はボールを奪われずにキープすることに重点を置いたパス回しが重視され、結果的にはトルシエ・ジャパンと同じようなゲームを積み重ねてきたように私には見えました。
オシム監督の、走るサッカー、3人目4人目の動き(ディフェンダーを崩す動き・無駄走り)を重視する姿勢、リスクを冒して攻めに行く姿勢は、観客の目からは、共感を覚えます。日本代表のゲームを見ていて、どうしてこの選手は歩いているのか、パスが出るときにどうして2人目3人目が走り込まないのかといらいらしていた観客としては、そうだそうだと思います。
そういう面から、走れなくなった(若いうちから走れない選手もいますが)ベテランを外して、走力と意欲のある若手中心に切り替えるのは、賛成です。次のワールドカップのことを考えれば、今こそ大幅な若返りのチャンスでもあります。
クラブチームの監督と違って、日本代表監督では、選手の練習を指導できる機会が少ないので、どこまでオシム監督の考えが浸透し選手の身に付いていくのかという不安がありますが、温かい気持ちで見守りたいと思います。
これまでのゲームを見ても、中盤ではまだジーコ・ジャパン時代のようなキープしていること自体に意味があるかのようなパス回しもよく見られますし、リスクを冒して攻めるはずが攻めにつながらずただリスクを増やしているように感じられる場面もあります。トルシエ・ジャパン以降の守り重視の日本代表を見続けてきた眼からは危なっかしくて見ていられないと感じられることが当分続くでしょう。でも、その面白みのないサッカーからの脱却を図っているのですから、ある程度失点が増えることは覚悟すべきでしょう。ただ、観客として感じるスリルが、守備の危なっかしさの方から速い流れるような攻撃の方へと、早い時期に移ってほしいとは思いますけど。
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