◆たぶん週1エッセイ◆
映画「崖の上のポニョ」
環境保護派のパロディとみられる悪役「フジモト」のキャラが中途半端で話が締まらない
宗介の母リサがかっこよく、ポニョの母は存在感抜群。大人の男性の存在感が薄い
最初に宗介がポニョを拾ってバケツに入れるときに水道水を入れるのはやめて欲しかった
宮崎アニメ「崖の上のポニョ」見てきましたよ。
封切り2週目土曜日で、一応席は埋まってましたけど、隣のポケモンの方が人が並んでました。客層は幼稚園かそれ以前を含めたお子様たちとその親で、静かな映画鑑賞は不可能だと思います。静かに鑑賞したい映画でもないですが。
前宣伝から強調されている、CGを使わず手書きにこだわったというアニメとしてのできですが、風景の丁寧さ、クラゲとか魚の動きなんかはやはりさすがだなと思います。そのあたりは素直に感心しました。ただ、きちんと書き込んでいるシーンと手抜きしてるシーンがわりとはっきり分かれていて、そういうとこになるとCGでも/CGの方がいいんじゃない?って思ってしまいます。
ストーリーは人魚姫を元にしたとされていて、人魚姫の悲劇的要素を落として軽くして主人公を5歳の子どもにして、日本人のおばあちゃんを登場させてほのぼのさせたというところ。ポニョの顔がときどきトトロの表情だし、しゃべりやはしゃぎがまるっきり「めい」で、「となりのトトロ」路線への回帰って誰しも思うところでしょう。
ポニョの父で、宗介のところに逃げたポニョを連れ戻しに来る「フジモト」が、なんか中途半端なキャラで、それがためにお話がわかりにくいというか筋・軸がない感じです。元人間で、人間をやめて魔法使いとなった悪役で、環境保護派のパロディと見られる悪役ですが、ポニョの母の大人魚がひと言いうだけで何の抵抗もなく、ポニョを人間にすることにしてしまいます。最初に度々現れ、物語のキーパースンの1人で、普通に見ていればかなり重要なキーパースンのはずなんですが、結局この人何のために出てきてるのかわかりません。
それも含めてこのお話、大人の男性の存在感がとても薄い。宗介の父は船長とされていますが、あまり威厳もないし、嵐の中で漂う船の中にただいるだけって感じ。
それに対して、女性陣の存在感は大きい。宗介の母リサはデイケア施設の職員で頼もしいし、颯爽としてかっこいい。それに5歳の宗介と「宗介」「リサ」と呼びあう関係って、子どもは憧れるでしょうね。
デイケアセンターのおばあちゃんたちも、体弱ってるんですが、のんびりおっとりしながら存在感十分。ただ、ひねくれもののおトキさんが、こういう人は普通キーパースンになって、例えば最後の方でみんながフジモトに連れられて行ってしまったが自分は1人残っている状態で宗介に騙されるんじゃないよというシーンなんか、それが正しい意見だったりするものですが、フジモトが全然悪役にならないのでまったく無意味でした。だったらおトキさんを設定してこういうこと言わせたのどうしてなんでしょうと思います。ストーリーきちんと組み立ててるんでしょうかね。「ハウルの動く城」の時も思いましたけど、ストーリーよりも書きたい絵/シーンが優先で作られてる気がするんですよね、ジブリのアニメって。
そして、存在感という点では抜群のポニョの母。海の中での巨大さも目を引きます(なぜか陸に上がると普通の人より少し大きいだけです)が、ポニョを人間にする魔法は魚だという正体を知って受け容れる人間がいないとうまく行かない、失敗するとポニョは泡になって消えてしまうと言うフジモトに、私たちは元々泡から生まれたんだから(いいじゃない)とほほえむときの凄みがいい。
魚のままでも人間の言葉をしゃべったり、ハムを食べてしまうし、人間になっても魔法も使ってしまうという荒唐無稽なお話ですから、まぁ気にしても仕方ないとも言えますが、子どもの親として残念なのは、最初に宗介がポニョを拾ってバケツに入れるときに水道水を入れる点。これは海水を汲んで欲しかったと思います。アニメを見た小さい子どもがこの夏休みに海の魚を捕まえたときに水道水をバケツで汲めばいいと思ったらかわいそうです。せっかく捕まえたのにすぐ死んじゃいますから。子どもが見たって人の言葉を話したりハムに食いつくようなシーンは作り物とすぐにわかりますが、バケツに水道水は必ずしもそう思ってくれないと思います。他のこととの均衡でそこだけ気を使うのが変と思うのならせめて、それを見た母親の台詞かなんかで、「おっ、すごいね。ポニョは海の魚なのに水道水でも大丈夫なんだね」とか、要するに普通はムリだよって示唆しておいて欲しい。子ども向けのアニメを作るときそれくらいの気配りは見せて欲しいなと思います。
(2008.7.26記)
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