庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「バイオハザード ザ・ファイナル」
ここがポイント
 アリスとは何者かなどこれまで明らかにされなかった謎が一通り説明され、ようやく普通に理解できる作品となっている
 T−ウィルス感染被害者であるアンデッドを抹殺してよい存在とするこの作品の世界観には疑問を持つ

Tweet  はてなブックマークに追加  バイオハザード ザ・ファイナル|庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

 TVゲームを映画化したゾンビ・アクション映画の完結編「バイオハザード ザ・ファイナル」を見てきました。
 封切2週目土曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前11時35分の上映は、1〜2割の入り。「世界最速公開」の前週末は、「スター・ウォーズ」の天敵「妖怪ウォッチ」を抑えて興行成績1位となったものの、先行きは暗そう。

 廃墟と化したワシントンで一人さまようアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、アンブレラ社のホスト・コンピュータのレッド・クィーン(エバー・アンダーソン:ミラ・ジョヴォヴィッチの実娘)から、現在生存している人類は世界に4000人余り、ラクーンシティのハイブにT−ウィルスに対抗するウィルスがあり、人類を救うためにはそれを散布するしかない、制限時間はこれから48時間と告知され、ラクーンシティへと向かう。途中、罠にかかって捕獲され、アンデッドに追われながらアンブレラ社の戦車に引きずられるピンチを脱したアリスは、再会したクレア(アリ・ラーター)ら新たな仲間と砦にこもってアンデッドの群衆の襲撃と闘い、ハイブに潜入するが…というお話。

 ミラ・ジョヴォヴィッチの超人的な/不死身の(アンデッド)ともいうべき格闘技的なアクション(同じゲームでも、ストリートファイターのイメージの方に近いような)で見せる作品だと思います。
 アリスとは何者か、なぜアリスに過去の記憶がないのか、人類をアンデッドに変えるT−ウィルスはなぜ流出したのか、何のために開発されたのか、アンブレラ社の目的は何か、アンブレラ社のホストコンピュータのレッド・クィーンとは何か(ついでになぜミラ・ジョヴォヴィッチの娘がその役なのか)、なぜクローンが作られたのか、などのこれまでのシリーズで明らかにされていなかった謎が、一通り説明され、シリーズのファンの人には満足度がたぶん高く、ファンでない観客にとってもようやく普通に理解できる作品となっています。
 レッド・クィーンの葛藤、「本物」とそのクローンの相克、クローンにとってのアイデンティティなど、人情の機微に迫り、考えさせられるところもあります。

 しかし、私は、ゾンビ映画は、どうしても好きになれません。相手を理解不能の不気味なもの、意思疎通不可能で有害な(加害者/攻撃的な)ものと表現し、それに「人間でないもの」とラベリングすることで殺害してよい(もっとも、「殺せない」のがゾンビなわけですけど)ものと扱い、徹底的に情け容赦なく殺戮の限りを尽くすが、良心の呵責は感じないというシーンを量産して、それに慣れ不感症にしてゆく。そのような感性には、同調できませんし、不愉快に思います。象徴的な「敵」を作って敵愾心をあおり、相手は人間ではない(鬼畜米英とか。ベトコンとか不逞鮮人とか「テロリスト」もそういう扱いかも)とすることで戦争や虐殺を容易にする人たちの論理/手法と通じるものを感じてしまいます。
 ましてや、この作品では、アンデッドはT−ウィルス感染被害者で、何ら罪なき人です。エリートではなく感染を防げなかった普通の庶民が劣等人類として抹殺すべき対象と扱われているのです。アンデッドが無差別に攻撃してくる凶悪な映像があるゆえにそこが隠蔽されていますが、この作品を支える世界観は、優越民族を守るために劣等民族を抹殺してよいというナチスの思想と親和性を持っているように、私には感じられます。
 アリス自身は、そこまでの意図を持たない(アリスの立場に身を置けば、相手の素性がどうあれ攻撃してくる以上戦い続けなければ生き残れない)としても、T−ウィルス感染被害者であるアンデッドの群衆を全員殺し尽くす/焼き尽くすことにまったくためらいも見せず葛藤がないアリスを英雄視する(制作側、興行側、そしてメディア・観客側の)姿勢は、人の命の尊さや弱き者・被害者の気持ち・立場への感受性を決定的に欠くものと見えます。
(2016.12.31記、2017.1.2更新)

**_**区切り線**_**

 たぶん週1エッセイに戻るたぶん週1エッセイへ

トップページに戻るトップページへ  サイトマップサイトマップへ